第二章:記憶の珈琲
カップの縁から立ちのぼる湯気が、ゆらりと揺れる。
その香りに、わたしの中の古い記憶がゆっくりとほどけていった。
初めて紗良に会ったのは、高校一年の春だった。
教室の隅で本を読んでいた彼女は、誰とも交わろうとしない雰囲気を纏っていたのに、不思議と目を引いた。
まるで、誰も踏み込めない硝子の中に咲く花のようで。
「……なに?」
話しかけた時、紗良は少しだけ眉をひそめて、それでもすぐに視線を戻した。
それがわたしと彼女の最初の会話。
と言えるかどうかもあやしい、短くて冷たい一言だった。
でも、なぜかそれきりにはならなかった。
次の日も、またその次の日も、わたしは彼女の近くにいた。
彼女も、本のページを捲る手を少しだけ緩めて、わたしの話を聞くようになった。
放課後、図書室で。
文化祭の準備室で。
誰もいない屋上で。
そのどこかで、いつも紗良は黙ってわたしの隣にいた。
多くを語らないけれど、その静けさが好きだった。
――ある日、彼女が淹れてくれた珈琲の味を、わたしは今でも覚えている。
「これは、うちの父が昔やってた喫茶店のレシピ。今はもうないけど、道具だけ残ってる」
不器用に差し出されたカップから立ちのぼる香りは、苦くて、ほんの少し甘かった。
わたしは、思わず「好きかもしれない」と呟いていた。
その時、彼女がほんの少しだけ笑った気がした。
それが――
わたしが、彼女を好きだと自覚した瞬間だった。
それなのに。
あの日を最後に、紗良は突然、姿を消した。
何の前触れもなく、何も言わずに。
――だから、こうしてまた彼女が珈琲を淹れてくれることが、
こんなにも胸の奥をざわつかせるなんて、思ってもみなかった。
「……やっぱり、あの味だね」
そう言うと、紗良はカップを拭く手を止めて、少しだけ目を伏せた。
「昔の味なんて、忘れてくれたほうがいいよ」
低く、静かな声だった。
その横顔に、わたしは言葉を失う。
きっと、わたしが知らないままに、彼女は何かを抱えて、あの場所を去ったのだ。
そして今も、それを抱えたままここにいる。
だけど、たとえもう一度傷つくとしても。
わたしは、あの時の笑顔を、なかったことにはしたくなかった。
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