第13話:清玉上人(3)

●その頃、阿弥陀寺では――


同時刻、阿弥陀寺の清玉上人は、京の都から上がる異様な火の手と、本能寺の方角から響くけたたましい騒音に、胸騒ぎを覚えていた。本来ならば、今夜、信長を裏口から迎えに行く手筈であった。しかし、この時間帯のこの騒ぎは、明らかに異常だ。


「まさか……儂が、合流時間を間違えたか? いや、それとも、光秀めが事を急いだのか!?」


清玉上人は、顔色を変えた。信長と光秀、そして自分しか知り得ないはずの密約。それが、まさかこのような形で反故にされるとは。信長の身に危険が迫っていることを直感した清玉上人は、躊躇なく動いた。


「何が起こったのかわらない。皆の者! 確認のため本能寺へ向かうぞ! 何人か私に続け!」


清玉上人は数名の僧侶を率い、燃え盛る本能寺へと急いだ。本能寺の周囲は、明智兵と織田方の残兵が入り乱れ、まさに地獄絵図と化していた。門の外から放たれる鉄砲の音、怒号、悲鳴。そして、あちこちで目にする水色桔梗の旗。


その紋を見た瞬間、清玉上人は事態の真相を悟った。


(まさか水色桔梗……謀反か! 光秀め、徳川を討つはずが、信長公を狙うとは……!)


清玉上人が見たのは、血気盛んに突き進む明智兵ばかりではなかった。門から逃げ惑う本能寺の住職や坊主たちに紛れて、明智の兵士ですら、混乱して右往左往している者が混じっている。彼らは、信長がどこにいるのか、あるいは本当に信長を討つべきなのか、その目的が不明確であるかのようだった。


清玉上人はその混乱を利用した。


「寺宝を! 仏像を助け出せ!」


と叫びながら、まるで本能寺の僧侶であるかのように振る舞い、必死に逃げ惑う人々の流れに乗り、火の手が迫る寺の奥へと潜り込んでいく。煙と熱気が肌を焼く。目指すは、信長と密約を交わした、昨日信長と約束していた清玉上人だけが知る本能寺の奥の間だった。



●最後の秘匿


清玉上人たちが奥の間に辿り着いた時、そこはすでに激しい炎に包まれ始めていた。炎と煙の合間から、清玉上人は信長らしき人影が横たわっているのを見た。その上には、数人の小姓たちが、折り重なるようにして絶命している。信長の最後の抵抗、そして遺体を特定させないための壮絶な覚悟が、そこにあった。


「殿……!」


清玉上人は、熱気に顔を歪ませながら、またその状況に涙しながら信長たちの元へ駆け寄った。遺体はすでにかなりの部分が焼けており、炭と化しつつあった。信長と小姓たちの遺骸は、灼熱と刀剣によってひどく損壊し、誰が誰の遺骸か判別できないほどに無残な姿となっていた。肉は焼けただれ、骨は砕け、もはや原形をほとんど留めていない。しかし、その中に、辛うじて判別できる頭部がいくつか見えた。


清玉上人は、信長の意図を瞬時に悟った。この日ノ本の覇者の最期を、光秀に知らしめてはならぬ。


「急げ! 我らは、これを持ち去るのだ!」


清玉上人は、持参していた布に、信長と思われる遺体とその周囲の焼けた遺体の首のみを全て慎重に包み込んだ。それらを素早く自身や他の僧侶達と一緒にそれぞれの法衣の袖袋深くに隠す。火の熱で熱くなった遺骨を必死に回収し、肌で感じる熱さに耐えながら、明智兵の目を欺くため、燃え残りの位牌や焦げ付いた小さな仏像、煤けた経典などを無造作に手に抱え、


「皆、同じように寺宝を手に持って偽装しながら逃げるのだ!」


と叫びながら、本能寺の裏口から逃げ惑う他のこの寺の僧侶たちのふりをして、野次馬等の群がる雑踏の中へと消えていった。



●炎を渡り、二条御所へ


京の空は、本能寺から上がる炎の煙で、不気味なほど赤く染まっていた。未明の襲撃から数刻。私は、本能寺で信長様の遺骨(首)を回収した後、その熱く焦げ付いた塊を法衣の袖深くに隠し持っていた。肌を焼く熱が、布越しにじりじりと伝わってくる。鼻腔には、焦げ付く肉と木材の匂いがこびりついて離れない。本来なら、このまま阿弥陀寺へと戻るべきだった。しかし、私の心には、もう一つの使命が重くのしかかっていた。


信長様、あの御方が……。幼き頃、寺で共に過ごした日々が鮮明に蘇る。血は繋がらずとも、兄弟のように笑い、時にぶつかり合った。東大寺の改修では、私が天皇と信長様との間に立ち、多くの困難を乗り越えて寄付を取りまとめた。互いの胸の内を明かし、誰も知り得ぬ秘密を分かち合った深い信頼関係。その全てが、この夜の炎と共に燃え落ちたのだ。あまりにも突然の、あまりにも残酷な喪失感に、私の心は引き裂かれそうだった。喉の奥が締め付けられ、熱いものが込み上げてくる。そして何より、この世の誰にも、信長様の終わりを見せてはならないという、強烈な義務感が私を突き動かした。


本能寺の裏口から逃げ惑う最中、明智兵たちの焦った怒号が耳に飛び込んできた。 「本能寺は制圧した!信忠様は二条御所に籠もっているぞ! 全軍、直ちに二条へ向かえ!」 信忠様が二条御所にいる。父と同じ運命を辿ろうとしているのか。


そうか……だから、弥助殿は本能寺にいなかったのだ。あの御方は、最期の瞬間に、弥助殿に信忠様を守るよう命じ、送り出したに違いない。自らの死を悟り、我が子を守るために、最も信頼する者を遣わしたのだ。天下を獲るため、時に冷徹とまで言われた信長様。だが、その性根は、どれほど優しく、深い愛情に満ちていたことか……。その親心に、私の目頭は熱くなり、涙が止まらなかった。


信長様亡き今、信長様が家督を譲り、次の時代を託した御子である信忠様までも明智の手に渡してはならない。両者を、何としてでも。その義務感は想像を絶するほどに重く、私を突き動かす唯一の原動力であった。


「残る者たちよ、私に続け! 今度は二条御所へ!信長様が最後まで護りたかったものを必ず護るのだ!」


私は息を切らしながら、特に体力の残っていた数名の僧侶たちに告げた。本能寺の火に焼かれた私の法衣は、煤と血で汚れ、あちこちが焦げ付いて破れていた。肌に触れる布の感触はざらつき、不快だったが、そんなことを気にする暇はなかった。明智軍は、本能寺での戦闘が一段落した今、必ずや信忠様が籠もる二条御所へと向かっているはず。道中には、明智の兵がひしめいているだろう。しかし、民衆を味方につけようとする光秀が、無闇に坊主を斬るとは思えぬ。この混乱に乗じるしかない。


私たちは再び、逃げ惑う人々の波に紛れ、時には負傷者を装い、炎と怒号が響く京の道を東へ、そして北へと進んだ。足元の瓦礫を踏みしめるたびに、ガリガリと不快な音がする。本能寺から二条御所への道は、明智軍の兵が隊列を組み、まさに戦場と化していた。水色桔梗の旗が、そこかしこに林立している。兵たちは、信長様を討ち取った高揚感と、次の標的である信忠様を追い詰める焦燥感で満ちていた。彼らの荒い息遣いが聞こえ、剣が擦れる金属音が耳障りだった。彼らは、私たちのようなぼろぼろの坊主には目もくれなかった。


二条御所が、視界に入ってきた。本能寺と同様、そこもまた業火に包まれていた。黒煙が天を衝き、建物の崩壊する音が地響きのように響く。ドォン、ドォンと重い音が絶え間なく響き、地面が震える。熱波がさらに強くなり、額に汗が滲む。すでに激しい攻防が繰り広げられた後なのだろう。


信忠様は、この御所に籠もった際に、誠仁親王とその御一族を御所から内裏へ退避させたという。その判断は、いかにも信長様の嫡男らしい、冷静かつ配慮に満ちたものだった。しかし、その行為が、信忠様自身の退路を断つことになろうとは……。


「殿……信忠様……!」


私は必死に御所の内部へと侵入した。明智の兵たちが、炎の合間を縫って何事か叫びながら、瓦礫を掻き分けているのが見える。焦げた木材の匂いが一層強くなる。彼らは、信忠様の首を必死に探しているのだ。その光景を見て、私は胸を締め付けられた。



●弥助との邂逅、そして秘匿された覇者の遺骸


炎と煙が充満する中で、私は必死に信忠様の姿を探した。熱で焼けるような痛みと、焦げ付く匂いが鼻腔を刺激する。建物の一部が崩れ落ちる音が、間近で響き渡る。その時、明智の兵たちが集まっている一角が見えた。彼らが何かを探している。まさか……。


私は明智兵の隙をついて、素早くその場に滑り込んだ。そこには、一際目立つ黒い大男が奮戦していた。その姿は、信長様の異国の小姓、弥助! 彼は、巨大な柱を振り回し、1人奮戦していた。体に刀や槍が突き刺さされ、深手を負っているのが見て取れた。顔中煤まみれで、その大きな身体には無数の傷を負っている。血と汗と煤が混じり合った、独特の臭気が漂う。その弥助が、信忠様と思われる遺体の、かろうじて判別できる首を、まるで我が子を守るかのように抱え込んでいたのだ。


「弥助殿!」


私は思わず声をかけた。弥助はハッと顔を此方に向け私に気づくと、その目に一筋の光が宿った。彼は、まるで信忠様の最期の願いを託すかのように、大事に抱えていた信忠様の首を、震える腕で私に差し出した。その無言の願いを、私は確かに受け取った。弥助の指先が、私の法衣の袖に触れる。その指先は熱く、そして硬く震えていた。


「その首は、私が預かる! 弥助殿、あなたはこの御所から離れ、キリスト教会へ身を隠しなさい! 生きよ! 何があっても、生き抜くのだ! 信長様と信忠様が望んだ新しい世を、この目で確かめるため、必ずや生きてほしい! 異国人のあなたならば、命は取られぬはずだ!」


私は弥助の覚悟と、信忠様への忠義に深く頭を垂れた。熱くなった信忠様の遺骨を、私は信長様の遺骨と共に持参した厚布に包み、自身の法衣の袖袋深くに隠した。この首が、やはり明智の手に渡ってはならぬ。今後、この乱世の行く末がどうなろうとも、信長様と信忠様の死が、政治的に利用されることだけは、何としてでも避けねばならぬ。この御二方の御霊は、この清玉が、この命に代えて守り抜くのだ。


明智兵の警戒が、私たちではなく、弥助のほうに向かうよう、私は弥助の手を強く握り、その腕を、彼らが気づかぬうちに、御所の奥深くへと押しやった。


「首は受け取った。さあ、弥助殿! 早くここから逃れるのだ! 兵たちの目は、あなたのような目立つ者に必ず向く! あなたが逃げることで、彼らはあなたを追い、その隙に我らは脱出できる!」


弥助は私の言葉を理解したのか、力強く頷いた。その巨体を奮い立たせ、炎の中を、明智兵とは逆の方向へ、猛然と走り去っていった。予想外の黒い巨人の逃走に、明智兵たちは混乱した。彼らの視線は一斉に弥助へと集中し、「待て! あの大男を追え!」という怒号が響き渡る。


「皆、急げ!」


弥助が囮となって敵の注意を引いてくれたその隙に、私は残る僧侶たちと共に、誰にも気づかれぬように二条御所の裏口から、再び闇の中へと音もなく消え去った。背後では、弥助を追う明智兵の叫び声が響いていたが、その声は徐々に遠ざかっていく。


夜明けの空は、二つの炎の煙で、不気味なほど赤く染まっていた。日ノ本に新たな時代をもたらすはずだった二人の覇者の最期は、明智光秀に知られることなく、炎の中に消え去った。そして、その遺骸の行方は、誰も知る由もない謎として、後世に語り継がれることとなるだろう。明智光秀がいくら探しても見つからぬ二人の首は、私が、この命に代えて秘匿したのだ。この乱世に、新たな仁政が敷かれることを願って…

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