第8話:織田信長(2)
安土城での徳川家康の接待から二日後。
安土城の一室は、ぴんと張り詰めた空気に包まれていた。清玉上人、明智光秀、そして織田信長の三人のみが顔を合わせる、密談の場である。
信長は、上座に座る清玉上人を見て、満足げに口の端を上げた。
「光秀、こちらが阿弥陀寺の清玉上人である。清玉、こちらが日頃わしが世話になっておる明智光秀だ」
光秀は、信長に促され、上人の方へ向き直った。清玉上人とは初対面である。光秀は上人の顔をまじまじと見つめた。その瞬間、彼の脳裏に、つい一日前の光景が蘇る。家康の接待の翌日、信長との密談を終えて城内を歩いていた際、通路ですれ違った地味な僧衣の男がいた。その男が、まさかこの清玉上人であったとは。光秀は内心の驚きを悟られぬよう、努めて冷静を装った。一方で清玉上人は、信長から光秀のことを事前に聞かされていたこともあり、穏やかな眼差しで光秀を見返した。
「これは、上人様。明智光秀と申します。以後、お見知りおきを」
光秀が深々と頭を下げると、清玉上人も静かに頷いた。
「明智殿、お噂はかねがね。清玉と申します。お見知りおきを」
互いの簡単な挨拶が済むと、信長が口を開いた。
「清玉よ、この光秀はなかなか切れ者でな。わしの天下統一には欠かせぬ男よ」
光秀は恐縮し、信長に軽く会釈した。
「光秀よ、この清玉、実はな……わしの弟なのだ」
光秀は驚き、目を見開いた。信長の弟? そんな話は聞いたことがない。しかも、昨日すれ違った男が、まさか信長の弟とは。
「は、はあ……滅多なことをおっしゃいますな、殿」
信長は面白そうに笑った。
「わっはっはっ、冗談ではないわ。真のことよ。この清玉は、幼い頃から世俗の争いを嫌い、いきなり出家してしまった変わり者よ。ゆえに、あまり表には出しておらん」
光秀は、改めて清玉上人を見た。確かに、信長とどこか似ているような、それでいて全く異なる静謐な雰囲気を纏っている。
「それでな、光秀」
信長は声を潜めた。
「この清玉は、裏で奈良の東大寺の復興に尽力しておる。そして、その繋がりで天皇との縁を深くしてもらっておるのだ」
光秀は息を呑んだ。東大寺の復興、そして天皇との縁。それは、信長が天下を治める上で、間違いなく大きな後ろ盾となるものだ。信長がこの場に清玉上人を呼び、自分に引き合わせた理由を、光秀は瞬時に理解した。
清玉上人は、信長の言葉に何も言わず、ただ静かに微笑んでいた。その微笑みは、光秀には深く、そしてどこか掴みどころのないものに感じられた。
●語られた "本能寺の変" 新たなる企て
信長は姿勢を正し、二人の顔をじっと見つめた。先ほどまでの和やかな雰囲気は一変し、部屋の空気が張り詰める。
「さて、本題に入ろうか」
信長の低い声が響いた。
「いよいよ、長きにわたる戦乱に終止符を打つ時が来た」
光秀と清玉上人は、信長の言葉に固唾を飲んだ。
「決行は六月二日の夜。場所は本能寺だ」
光秀は眉をひそめた。本能寺。京の都の中心にあるあの寺か。
信長は続けた。
「家康には、堺観光の後に本能寺に寄るよう手配させている。やつめ、まさか自分が死地に足を踏み入れるとは夢にも思うまい」
光秀の胸に疑問がよぎった。家康を本能寺で?一体何を企んでいるのか。
「光秀!」
信長は光秀に目を向けた。
「そなたは、この密談の後、すぐに坂本城に戻り、軍の準備を整えよ。そして、隊を編成し播磨方面を目指して出発せよ。あくまで羽柴秀吉の援軍に向かうと周囲には思わせるのだ」
光秀は息をのんだ。
「援軍、でございますか?」
「然り」
信長は冷酷な笑みを浮かべた。
「だが、途中で兵を進路変更させ、二日の夜、本能寺を取り囲め。家康を逃がさぬよう、一気に攻め込むのだ」
光秀の脳裏に、凄惨な光景が浮かんだ。しかし、信長の命令は絶対だ。
「は、承知いたしました」
信長は次に、清玉上人へ向き直った。
「清玉。そなたには、二日の夜、事が起こる直前に阿弥陀寺から本能寺へわしを迎えに来てもらいたい。本能寺の何処で合流するかはわしが当日寺に着陣した時に伝えるのでその時に打ち合わせよう。」
清玉上人は静かに頷いた。
「光秀が本能寺を攻め込むどさくさに紛れて、わしを阿弥陀寺へ誘導するのだ。いいか、決して遅れるでないぞ」
「御意」
清玉上人の声は、揺るぎなかった。
「そして光秀、家康を警戒させぬため、わしは前日までに最低限の小姓たちのみを連れて本能寺へ入る。二日の夜には、家康を慰労するためにお茶の席を設ける手筈だ」
信長は再び光秀を見た。
「この『本能寺の変』はな、徳川家康が謀反を起こしたことにして、やつを抹殺する謀なのだ」
光秀は驚愕に言葉を失った。本能寺の変は、家康の謀反。まさか、そのような大芝居を打つとは。
「だが、なぜ家康をそこまで?」
光秀は思わず尋ねた。
信長は口元に笑みを浮かべ、しかしその眼は冷え切っていた。
「光秀よ、家康という男はな、化け物よ。幾度となく窮地に陥りながら、必ず這い上がってきた。三方ヶ原では武田に完敗し、死を覚悟したほどであったが、それでも三河武士の固い結束力に支えられ、奇跡的に生き延びた。一向一揆に裏切られ、親族にまで刃を向けられようとも、決して折れぬ。あの底知れぬしぶとさよ」
信長は一度言葉を切り、さらに光秀の顔をじっと見つめた。
「極めつけは、あの築山殿と信康の件だ。わしが武田への内通を疑って揺さぶりをかけた時も、やつは迷わず、自らの妻と嫡男を平然と処分したのだぞ。親族すらもためらいなく切り捨てる冷徹さ、そしてその上で、何食わぬ顔でわしの傘下に加わって見せる。あれほどの男が、これほどまでに執念深く、しぶとく生き残る様を散々見てきたであろう?故にあいつは底が見えん。」
信長の言葉には、家康に対する異様までの警戒と、ある種の畏怖が滲んでいた。信長は、家康の "全てを犠牲にしてでも生き残る という覚悟と、そのために情すらも切り捨てる非情さ" を最も恐れている様に感じた。
「わしがこの先、真の天下を泰平に導くためには、家康こそが最大の障壁となる。やつを生かしておけば、必ずや天下を揺るがす根源となろう。信長が描く天下の器に、家康という異物が残ることは許されぬのだ」
光秀は、信長の言葉に深く納得した。信長が目指すのは、単なる武力による統一ではない。その先の、盤石な天下の秩序だ。そのためには、家康という存在がどれほど危険であるか、光秀にも理解できた。
「家康を討ち取ったら、そのまま家康の領地を切り取れ。遠江、駿河、三河……すべてそなたに任せる」
信長はそこで、清玉上人にも顔を向けた。
「清玉。この件が成れば、切り取った家康の領地もわしの統治下に入る。その結果、東大寺への寄進も、今以上に潤沢になるだろう。再建も加速し、さぞかし多くの寺社が安堵するはずだ。そして何より、帝もこれにはお喜びになる。天下の泰平が目前に迫り、新たな世が来るのだからな」
清玉上人は、これまで以上に深く頷いた。彼の顔には、微かながらも喜色の色が浮かんでいるようだった。東大寺の復興という長年の悲願、そして朝廷との関係強化。それらが、この苛烈な計画の先に実現すると信じているかのように。
光秀の目に、信長の言葉が巨大な野望となって映し出された。家康の領地を切り取って、それを光秀に与えるというのだ。それは、まさに破格の恩賞であった。光秀は武者震いした。
「そなたの働き次第で、わしは天下を盤石にする。よいな、光秀、清玉。この計画、決して誰にも漏らすな」
信長の言葉は、絶対的な重みをもって二人の心に刻まれた。本能寺の闇に、新たな歴史の歯車が回り始めるのだった。
三者による密談は終わった。
清玉上人に続いて密談の行われた部屋を出ようとした時、声が聞こえた。
「光秀、暫待て。」
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