第6話:清玉上人(1)
●尾張鳴海、血と命の狭間
永禄の風が、まだ幼い織田信長の野望の炎を煽り始めた頃、遠く離れた駿河との国境では、血と硝煙の匂いが大地に染み付いていた。永禄元年(1558年)、今川義元の領地深くまで攻め込んだ織田信広の軍勢が、ある寒村を焼き払い、小競り合いを終えて尾張への帰途につく途上のことである。
織田信広とは信長の兄である。後に今川義元の人質となり当時織田家の人質となっていた竹千代(後の徳川家康)との人質交換された人物として知られている。
荒れた街道の脇、焦げ付く土壁の崩れた茅葺き屋根の隙間から、か細い呻き声が漏れていた。信広の家臣が瓦礫を払いのけると、そこには、血と泥に塗れ、分娩の苦しみに悶える一人の女がいた。女はもはや、助けを求める声も出せないほどに衰弱していた。
信広は、女の惨状を目にするや否や、すぐさま医を呼び寄せ、薬を与えさせた。戦の帰り道で、疲弊しきった兵士たちの中にあって、信広のこの行動は異例であった。彼は、単なる武将としてではなく、人間としての慈悲の心を確かに持っていた。しかし、運命は非情であった。あらゆる手立てを尽くしたにもかかわらず、女の命の灯は、無情にも消え去ってしまった。その時、女の体から、か細い産声が響き渡った。母の死と引き換えに生まれた、小さな赤子。赤子は、その時、何事かを知るかのように、空を見上げるような澄んだ瞳をしていた。それは、ただの幼子には似つかわしくない、深く、そして何かを見透かすかのような輝きを帯びていた。それが、後に清玉と呼ばれることになる男子である。
信広は、この奇跡的な、しかし悲劇的な誕生に深く心を揺さぶられた。自らの手で命を救えなかった悔恨と、生まれ落ちたばかりの赤子への慈しみが入り混じり、信広はすぐさまその赤子を保護し、尾張へと連れ帰った。彼は、この赤子を、戦乱の中で失われた命の、せめてもの証として生かすべきだと感じたのかもしれない。
信長は、拾われた幼子に並々ならぬ興味を抱いた。信広の報告を受け、自らその小さな体を抱き上げ、「これは天が我らに与えたる瑞祥か、あるいは…」と、どこか遠い目をして呟いたという。信長にとって、母の死と引き換えに生まれたこの幼子は、単なる孤児ではなかった。彼の瞳の奥に宿る静かな光は、信長の荒ぶる心を、一瞬だけ、落ち着かせたのかもしれない。
この子は、信長の屋敷で、あたかも実の兄弟のように育てられた。名は「若千代」と名付けられた。信長と共に学び、共に遊び、時には信長の奇抜な発想に驚き、呆れながらも、その桁外れの聡明さに心惹かれていった。若千代は幼い頃から、常に信長の炯眼を静かに見つめ続けていた。信長もまた、この寡黙な弟のような存在に、言葉にできない信頼を寄せていた。信長が天下統一の夢を語る時、若千代はただ静かに耳を傾け、その広大な野望を、幼いながらも心に刻んでいた。
若千代は、織田家の激動の中に育った。毎日のように届けられる戦の報、家臣たちの裏切りと粛清、そして、絶え間なく続く権力闘争。幼い頃から、武家の宿命として刀を握る訓練も受けたが、彼の心は常に、そうした争いから遠く離れた場所にあった。彼の生い立ちが、彼に深い生命の尊さを教え、争いの虚しさを痛感させた。信長の覇道が、やがて多くの血を流し、多くの悲劇を生むことを、若千代は直感的に理解していた。彼の胸中には、常に矛盾する感情が渦巻いていた。信長の偉大さに畏敬の念を抱きながらも、その力の及ばぬところで苦しむ民の姿が、彼の脳裏から離れることはなかった。
●俗世を離れ、仏門へ
成長するにつれ、若千代は織田家内部の激しい家督争いや、絶え間ない権謀術数に、深く疑問を抱くようになる。信長の兄弟として、いつか自身もその渦中に巻き込まれるであろう運命を悟った時、彼の胸中には、深い葛藤が渦巻いた。彼は、自らが信長の影として生きる道を見出していた。
信長が内輪の家督争いに勝利し、尾張国内が一段落した時を見計らったかのようにある日の午後、若千代は信長に深く頭を下げた。彼の声は、静かでありながら、岩をも砕くような固い決意に満ちていた。
「兄上、この若、俗世の塵に塗れるは本意にあらず。願わくば、仏門に入り、ただ影から兄上の天下を見守らせていただきたく存じます。兄上の覇道が、やがて来るべき平和の世を築くのであれば、その陰で、苦しむ民の心を救う者が必要となりましょう。」
信長は初め、激怒した。その怒声が屋敷中に響き渡った。
「馬鹿なことを申すな! この乱世に仏門など、何の役に立つというのだ。お前は、この信長の傍らにあってこそ、その才が活かされるのだ!」
信長の激しい言葉にも、若千代は微動だにしなかった。その表情は、静かで、しかし揺るぎない覚悟を宿していた。信長は、若千代の目の中に、かつて自分も抱いたことのある、しかし捨て去ったはずの、清らかな光を見た。それは、幼い頃、天下泰平を夢見た、純粋な理想の輝きであった。そして、その固い決意に、一抹の寂しさと共に、言い知れぬ期待を抱いた。信長は、若千代の生き方が、自身の苛烈な覇道を補完する、もう一つの「道」になることを予感したのかもしれない。
信長は、若千代に特定の寺に仕えることを命じず、自由に各地を巡り、己の道を究めることを許した。これは、信長なりの若千代への深い配慮であり、同時に、いつか何らかの形で、若千代の才覚を頼ることになるであろうという、彼の先見の明でもあった。若千代は、その日から、俗名を捨て、一介の僧として修行の旅に出た。彼は各地を巡り、仏の教えを学び、病に苦しむ人々を癒し、争いの中に生きる民の声を静かに聞いた。その中で、彼の心には、慈悲と智慧が深く根付いていった。各地で、彼は民の苦境を目の当たりにし、その救済こそが自らの使命であると、確信を深めていった。
●京、阿弥陀寺の住職「清玉」として
信長が足利義昭を奉じて上洛する、まさにその時のこと。永禄十一年(1568年)九月、数年の修行の末、この若き僧は、京都の阿弥陀寺の住職となっていた。阿弥陀寺は、天文十四年(1545年)に近江の坂本で開創された寺院であり、本尊は丈六の阿弥陀如来であった。清玉は、その身をもって仏の道を歩む決意を示すべく、「清玉」と名乗るようになった。その名は、「清らかな宝玉」を意味し、彼の心の清らかさと、人々を導く智慧を表していた。
清玉が阿弥陀寺を坂本から京都に移したのは、信長が京へ入洛する少し前のことであった。清玉は、信長が京へ入洛するにあたり、寺を西ノ京蓮台野芝薬師西(現在の今出川通大宮)へと移し、永禄十一年(1568年)のうちにその落成を見たのである。寺地は八町四方にも及ぶ広大な敷地を持ち、塔頭十一寺院を擁する大寺院であったという。これは、清玉上人がすでにこの頃には、信長との関係も相まって、宗門において相当な高僧と認められ、その人徳と見識が広く知られていた証でもあった。
信長が京の東寺に陣を張った後、すぐに常宿としたのは、縁深い斎藤道三の息子が住職を務める妙覚寺であった。信長は、この妙覚寺で、日々の政務をこなし、諸大名との会見に臨んでいた。しかし、その多忙な日々の中、信長が密かに心を休める場所があった。それが、清玉が住職を務める阿弥陀寺であった。信長は、時には人目を忍び、妙覚寺の裏門からそっと抜け出し、ひっそりと阿弥陀寺を訪れることがあったのだ。清玉は、そうした信長の来訪を、いつも静かに迎えた。二人の間に言葉は多くなかったが、互いの視線が交錯するたび、長年の時を超えた、深い絆がそこにはあった。信長にとって、阿弥陀寺は、世俗の喧騒や戦の苛烈さから一時的に離れ、心を休めることのできる、唯一無二の場所であったのかもしれない。清玉は、信長が妙覚寺を拠点としつつも、阿弥陀寺へ「忍んで遊びに来る」彼の意図を静かに察し、決してその秘密を口外することはなかった。清玉は、ただ信長の心の拠り所となることを願い、静かに彼の傍らにあり続けた。
以来、清玉は表舞台に立つことはなかった。しかし、その影は常に信長の傍らにあった。彼は、戦で傷ついた兵士を密かに寺に匿い癒し、飢饉に苦しむ村々で医術を施した。その医術は、各地での修行によって培われたものであり、その噂は瞬く間に京の都に広まっていった。時には、信長が耳にしたくない真実を、しかし信長にとって必要な情報を、人知れず届ける役割を担った。彼は戦場の惨状を、民の苦しみを、そして天下統一という途方もない重荷を背負う信長の孤独を、静かに見つめ続けていた。彼の存在は、信長にとって、まるで荒波の中を進む船の、静かな羅針盤のようであった。
●正親町天皇との拝謁、東大寺再建の誓い
上洛を果たし、京の都を平定した信長は、永禄十一年(1568年)十月、時の正親町天皇に拝謁する機会を得た。御所は、戦乱の世にあってもなお、雅な雰囲気を保っていたが、天皇の顔には、深き憂いが刻まれていた。
正親町天皇「織田弾正忠、大儀である。貴殿の上洛、心より歓迎する。久方ぶりに、京の都に安寧が訪れることに、朕も安堵しておる。」
信長「もったきなきお言葉、恐悦至極に存じます。陛下の御心安らぐ世を築くことこそ、この信長の宿願にございます。」
天皇は、やや伏し目がちに、しかし深い悲しみを帯びた声で語り始めた。その声には、長年の戦乱がもたらした疲弊が滲んでいた。
正親町天皇「実は、貴殿に相談がある。かの奈良の東大寺のことじゃ。永禄十年(1567年)三月、松永弾正と三好三人衆の戦により、大仏殿を含む伽藍の多くが灰燼に帰し、今もなお荒れ果てたままじゃ。かの大仏殿は、聖武天皇の御代より、国の安寧と民の幸福を願う象徴であった。それが、このまま朽ち果てるは、仏の道に背くばかりか、この国の恥でもある。幾度となく再建の兆しはあったものの、戦乱が続き、未だに手立てが見つからぬ。なにか、良き手立てはないものか…。」
信長は、東大寺の惨状を耳にしていた。武将たちが己の利のために歴史ある寺社仏閣を焼き払う行為に、彼は内心深い憤りを覚えていた。同時に、この天皇からの「相談」が、単なる要望以上の意味を持つことを理解していた。荒れ果てた東大寺を放置することは、仏への不敬であり、ひいては天皇の権威をも損ねる。この難題を解決することは、信長が天下を治める上で、避けては通れぬ道であった。それは、武力のみならず、文化と信仰を重んじる姿勢を示す、絶好の機会でもあった。
信長「ははっ、ご案じなさいますな、陛下。かの東大寺の再建、この信長、必ずや成し遂げてご覧に入れましょう。この国が再び平和を取り戻すためには、仏の光が必要にございます。乱世の荒波に揉まれる民の心に、安寧をもたらすためにも、大仏の光は不可欠と存じます。」
正親町天皇の顔に、わずかながら、しかし確かな安堵と希望の表情が浮かんだ。しかし、その巨額な再建費用をどう捻出するのか、誰もが疑問に思った。
正親町天皇「されど、その費用は…途方もない額と聞く。いかにして…?」
信長は、迷うことなく答えた。
信長「ご心配には及びませぬ。この信長の領民、一人につき一文。これを定期的に徴収しましょう。信長の領土が増えれば増えるほど寄附額は増えるはず。なので必ずや大事業を成し遂げられましょう。民草の力こそが、この国の真の礎にございます。この乱世にあって、民は仏の加護をこそ求めております。彼らの信仰心を一つにまとめれば、これほど強き力はございませぬ。この再建は、民の心を一つにし、我らの世が平和に向かう証ともなりましょう。」
●定宿を抜け出し、清玉との密議
天皇との拝謁を終えた信長は、妙覚寺に戻っても、その興奮と決意は冷めやらなかった。東大寺再建という大事業は、単なる復興ではない。それは、信長が天下を治める上で、民の心と朝廷の権威を繋ぐ、重要な布石となる。そして、その実現のためには、誰よりも民の心に近く、かつ仏の道に精通した者の力が必要だと、彼は確信していた。
その夜、信長はいつものように妙覚寺の自室で、明かりを落としたまま静かに瞑想していた。しかし、彼の心は、ある人物のことで占められていた。彼は、側近にも告げず、人目を忍び、妙覚寺の裏門からそっと抜け出した。足音を立てぬよう、闇に紛れて歩く。目指すは、阿弥陀寺である。京の夜道は、昼間の喧騒とは打って変わって、静寂に包まれ、信長の足音だけが響くようであった。妙覚寺から阿弥陀寺へ向かう道すがら、信長は幾度となく、清玉との対話の重要性を噛み締めた。この大事業を成功させるには、清玉の智慧と人徳が不可欠であった。
阿弥陀寺に着くと、清玉は既に信長の来訪を予期していたかのように、本堂の奥で静かに信長を待っていた。二人の間に言葉はなかった。信長は、清玉の前に静かに座り、真っ直ぐにその瞳を見つめた。清玉の澄んだ瞳は、信長の心の内を深く見透かすかのようであった。
信長「清玉、お前しかおらぬ。東大寺再建の大任、お前に任せたい。今宵、正親町天皇より、東大寺の荒廃を憂うお言葉を賜った。この信長の領民から、一人一文ずつ定期的に寄付を募る。その取りまとめ役を、お前が引き受けてくれまいか。これは、単なる寄付集めではない。民の心を一つにし、仏の光を再びこの国に灯す、大いなる事業だ。そなたの清廉な心と、仏の慈悲が、この事業を成功に導くと信じている。この乱世に、仏の御威光を取り戻すのだ。」
清玉は、信長の言葉に、その真意を悟った。それは単なる金集めの命令ではなかった。信長は、この事業を通して、民衆の心をつかみ、天皇との関係を強固にし、そして、荒廃した世に秩序をもたらそうとしている。そして、その要として、自らを指名したのだ。仏門に入り、俗世から距離を置いた身ではあったが、この大義を前にして、清玉に躊躇はなかった。信長が己に与えようとしている、この計り知れない信頼に、清玉は静かに、深く感謝した。
清玉「承知いたしました。信長様のご期待に沿えるよう、この清玉、身命を賭して務めさせていただきます。仏の慈悲が、再びこの国に満ちるよう、尽力いたします。これは、仏の道に生きる者として、まさに本望にございます。民の心に寄り添い、その願いを形にすることこそ、この清玉の使命と心得ます。」
清玉は、その日から京都を拠点に、東大寺再建のための活動を開始した。彼はまず、信長の領地に向けて丁寧な手紙を送り、各地の寺や有力者を通じて、東大寺再建のための寄付を呼びかけた。彼は、ただ金を集めるだけでなく、東大寺の歴史と、その再建がいかに重要な意味を持つかを、人々に丁寧に説いて回った。清玉の言葉は、人々の心に深く響いた。それは、権力者の命令というよりも、慈悲に満ちた高僧の願いとして受け止められたからだ。
時には、自ら旅に出て、信長の支配する領地を巡り、村々を回った。荒れた道なき道を歩き、民の苦境に耳を傾け、その上で東大寺再建への協力を求めた。彼の清らかな人柄と、信長の後ろ盾があることから、寄付は驚くほど順調に進んだ。集まった寄付は、わずか一文であっても、まさしく民草一人ひとりの熱意と信仰の証であった。各地で、子供たちが一文を差し出す姿、老人が蓄えの中から古銭を取り出す姿が、清玉の目に焼き付いた。彼の勧進活動は、単なる資金集めを超え、民の心を仏に向かわせ、希望を与える役割を果たしたのである。
●高まる信頼、蘭奢待の褒美
この信長の決断と、清玉の誠実な働きにより、東大寺再建の道筋が明確になった。その知らせが正親町天皇の耳に入った時、天皇は心から喜び、信長への信頼を一層深めた。天皇は、阿弥陀寺が勅願所になっていることにも触れ、清玉上人が今回の事に加担している事に驚き喜んだ。
また、いかに清玉上人が「大変偉い方」であるかを、天皇から信長に改めて語られたので、信長もとても嬉しくなり、話が弾んだ。
そんなある日、信長と清玉上人が一緒に天皇に拝謁したときの事である。
正親町天皇「信長、そして清玉よ、真に天晴れである。武力をもって天下を治める者もいれば、仏の慈悲をもって民を導く者もいる。貴殿らの働きにより、仏の光は再び、この国を照らすであろう。もはや、この乱世の収束も遠い未来のことではあるまい。清玉上人には、すでに勅願所たる阿弥陀寺を任せ、深く帰依しておるゆえ、その勧進職も、まこと天啓のごとくであった。そなたが、この大義を果たしてくれたこと、朕は生涯忘れぬであろう。」
この東大寺再建の件により、信長は正親町天皇から絶大な信頼を得ることに成功した。長らく戦乱に翻弄され、権威が揺らいでいた朝廷にとって、荒廃した国家の象徴である東大寺の再建は、何よりも喜ばしいことであった。それは、信長が武力だけでなく、朝廷の権威と文化、そして仏の心を重んじることを示した証となった。また、荒廃したままだった東大寺に救いの手を差し伸べたことで、信長は寺院勢力に対しても大きな恩を売った。東大寺の歴史書にも清玉上人の名前が刻まれることになったのは、この大事業における彼の功績が、後世にまで語り継がれるべきものであったからに他ならない。
その褒美の一つとして、天正二年(1574年)三月、信長は東大寺正倉院に収蔵されていた名香蘭奢待の切り取りを許される栄誉を得ることになる。それは、信長が天皇や東大寺との間に築いた、新たな、そして強固な関係性の象徴であり、彼が単なる武力による支配者ではないことを示す、天下への大いなる布石でもあった。蘭奢待の切り取りは、信長の比類なき権力を天下に知らしめると同時に、彼が朝廷の権威を尊重し、文化をも掌握しようとする野心を秘めていることを示唆する出来事でもあった。清玉は、その知らせを聞いても、ただ静かに瞑目し、仏の加護を祈るばかりであった。彼は、信長の行動の真意を理解し, その背後にある深い思惑に、静かに寄り添い続けた。
清玉上人。彼は、織田家の血とは異なる、しかし信長の天下を見据える、もう一つの「眼」であった。その存在は、武力と政治の陰に隠れながらも、慈悲と智慧をもって、炎の時代を生き抜いた、信長の「心を許せる数少ない兄弟」の物語として、人知れず、しかし確かに、人々の心に深く刻まれていくのであった。
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