19話 呪々御供

 



 病院を出てから、気がつけば十五分以上は走りつづけていた。


 ようやく目的地である壱玲高校が、夜の闇の中に浮かび上がってくる。




 昼間とは違って、白く瀟洒な新校舎も、今は闇に沈み、まるで別の顔をしていた。




 その中でひときわ目を引くのは、校門だった。




 巫水空音の自殺以来、学校の警備は格段に強化された。


 そこに今井詩織の死が重なり、今週は警備員の数もさらに増している。




 表門も裏門も、常に二人以上が配置され、


 その監視の目をかいくぐるのは、今やほとんど不可能だ。





 だから僕は、いつもの抜け道を使うことにした。




 テニス部コートのネットの隅。


 パーキングと地続きになっているあの場所。




 よくルキウス先輩や空音先輩と、ここからこっそり侵入したものだった。


 和洋折衷さまざまな儀式の実験や、旧校舎の七不思議の調査もした。




 懐かしさと痛みが入り混じる記憶。


 もう、帰らない日々。




 その記憶を振り切るようにネットをかいくぐり、テニスコートに侵入した僕は、そのまま部活棟を抜け、教員用の駐車場を横切り、旧校舎の昇降口へと向かった。




 程なくしてそれは見え始めた。


 昼間は分かりやすいほどに、黄色い「立入禁止」のテープが張られ、来訪者を拒絶するような無言の警告を発していた。




 けれど今、それは無残に裂け、地面に垂れていた。




「メティスの仕業か」




 ほかに考えようがない。


 こんな時間に、学校に忍び込むような奴なんて。




 テープが切られているなら、ためらう理由はない。


 僕は靴についた泥を念入りに落とし、静かに、旧校舎へ足を踏み入れた。






 ──そこは、もはや廃墟だった。




 旧校舎が封鎖されて、一か月ほどしか経っていないはずなのに。




 外界を拒絶し続けた建物は、あっけないほど早く腐っていく。


 陽の届かない廊下。


 カビのにおい。


 剥がれ落ちた塗装。


 割れた窓ガラスは、もう光を返すことさえせず、曇ったまま教室の内部を、ぼんやりと映している。




 それだけじゃない。


 一昨日来たばかりだというのに、明らかに──空気が、違う。




 暗がりを怖がる僕の思い込み。


 重たい湿度。


 それだけでは説明できない、何かがこの建物に巣くっている。




 何もいないはずなのに、確かに何かの気配がある。




 黒く沈んだ廊下。


 物音ひとつしないはずなのに、背後で微かに響く音。




 ここはもう、異界だ。




 理屈も、現実も通じない。


 渡り廊下で繋がっているはずの校舎なのに、昼間の学校とはまったく異なる、別の顔を持っていた。




 七不思議──かつて僕たちが探し続けていた怪異の噂も、今や現実の一部になっている。




 噂なんかじゃない──ここには、確かに何かがいる。

 誰も近づかなくなった理由が、いまなら痛いほどわかる。






 異変は、三階へと向かう階段の踊り場で起こった。




 ──そこに、彼女はいた。




 眼鏡をかけた見知らぬ少女。


 不釣り合いなパジャマ姿で、階段の隅にうずくまっていた。




 目を凝らすと、その子は立羽さんが送ってくれた写真の女の子、その人だった




 肩を抱くようにして、全身を震わせている。


 呼吸は浅く、目はぎょろぎょろと動き続けていた。




 医者やカウンセラーでなくても分かる。


 彼女は、普通ではなかった。




「大丈夫?」




 声をかけながら覗き込むと、少女はようやく僕に気づいたようだった。




「違う……違うの。私じゃない……」




 声は震え、かすれていた。


 彼女の目と僕の視線が重なる。




 瞳の奥にある色。


 それは、黒。


 恐怖。絶望。混乱。


 そんな感情の色。





 そして、彼女の小指には、赤い糸がちょうちょ結びで巻かれていた。




 ──おまじない。




「私は……ただ、死ななければならなくて……みんなのために……でも……あれ……違う……私、死にたくなんて……」




 言葉はもつれ、矛盾している。


 錯乱か、それとも記憶の混濁か。




「ただ、学校に来たかっただけなの……それでおまじない……教えてもらって……それで…なんで……なんで私……学校に……」




 少女は混乱の渦の中にいた。




 その時──




「……す……す……」




「……ッ!?」




 微かな音が、上の階から響いた。




 その音を聞いて、少女はぴたりと身を固くした。


 震えが止まり、代わりに、沈黙が彼女の全身を支配する。


 彼女の動揺はどうやら上に起きた異変と関係しているらしい。




「君はここで待っていて」




 僕は少女にそう告げ、階段を一歩、また一歩と上がりながら、小さくつぶやいた。




「……カリン、君の推理は当たっていたよ」






 ◇◇




「最後に巫水空音が、今井詩織たちをどうやって生贄にしたのかについてですが。

 答えは最初から提示されています。」



 まるで死体のようにベットに横たわったカリンが最後の推理の始まりを告げる。



「それは遺書か」




『死ななければならない』


 そう綴られた、狂気のように綴られた文字。


 それは死者が残した最後の意思だった。




 彼女たちがどうしてそう書き残したのか。


 それがこの事件の最初の謎で、最大の謎だった。





「自殺とは、ある種、進化の一形態なのかもしれません」




 カリンはぼそりと呟いた。




「それはアノミーの話か?

 理想像に適応できなかった者が、自己の手で自らを淘汰する構図。

 自殺とは、その進化の副産物という意味か?」



 僕の歯に衣着せぬ物言いに少しだけカリンが目を丸くする。



「シンナの言葉とは思えませんね。

 それは受け売りですか、ルキウスさんの」




「…半分はそうだよ。

 でも、もう半分は僕の言葉だ。君に影響されてしまったらしい。

 ルキウス先輩はこんなことは言わない。とても…優しい人だったから…」





 その言葉に、カリンは「それは私が優しくないという意味ですか?」とでも言いたげに、じっとした視線を向けてきた。


 けれど口には出さずに、ほんのわずかに不満そうな表情を浮かべ、言葉を飲み込んだようだった。




「ですが、それとは違います。

 他者を犠牲に種を存続させる。そんな機能を持つ生物がこの世界には存在しています。

 例えば、ペンギンのように」



 その話は聞いたことがある。



「天敵を確認するために仲間を海に突き落とすというやつか?」



 ペンギン、極めて高い社会性を持つ彼らは、足元の海が安全か確かめるために往々にして少数を切り捨てる生態があるらしい。




「それについても一応の補足を。

 実際には、生贄として意図的に選ばれているわけではないんです。

 勇敢だった一羽、あるいは不運にも落ちてしまった一羽。それを見た人間が、“犠牲”という意味を勝手に読み込んだだけです」




「つまりは偶然だと?」




「はい、ですが、そういった無自覚のシステムがあったから、彼らは過酷な南極大陸でも生き残ることが出来たのでしょう」




 最初から誰かの犠牲を前提にデザインされた生態。


 あるいはそのように残ってきた進化の形。




 それはきっと人間も――




「この社会は誰かの犠牲を前提にデザインされている」



 それは僕の呟き。


 この社会には、「誰かの犠牲」を当たり前のように組み込んだ隙間がある。


 そして僕たちは、知らないふりをして、その隙間に寄りかかって生きている。




 だからたぶん、僕たちは皆、少しずつ、罪人で――




「私たちはどこまでいってもポリス的動物なのでしょう」




 個性を剥奪された監獄の中の彼女。


 社会から誰よりも隔絶された彼女。




 そんな彼女が自分も含めて、社会の生物だと形容する。



 「人間は常に外的要因を変えることで、進化と発展を遂げてきました。」



 王権神授から民主主義へ。絶対服従から自由と平等へ。


 そういった歴史の流れのなかで、社会との強い繋がりを持ち、それに適応した者たちが生き残ってきた。


 社会の存続と適応こそが人間の生存戦略だった。




 「人間は、しばしば自分の利益にならない利他的行動をとる……」




 ゲーム理論は、それが合理的であることを証明した。

 人間という種は、社会の存続を優先する仕組みを、進化の過程で獲得してきた。




 だから――




「生物としての機能として、社会を存続させるためのシステムとして、人間は自害を選ぶことがあります」




 それは鋭利な刃物のように、僕の心に突き刺さった。




「デュルケムは自殺論において社会とのつながりが高く、個人の欲望が低い人間の自殺を『利他本位的自殺』と呼びました。

 自己本位的自殺と違うのは、その死が社会のために行われるという点です。」




 自己本位的自殺は社会とのつながりが希薄、個人の欲望が低い。



 利他的本位自殺は社会とのつながりが高く、個人の欲望が低い。



 おまじないの本質は双方向性のネットワーク。




「そしてデュルケムは、利他本位的自殺の例として、生贄を挙げています」




「……まさか」




 一つの仮説が、僕の中に浮かび上がる。




 しかしそれは、口にするのも恐ろしいほど残酷で――




 カリンの方を見ると、いつものように彼女は人差し指を唇に当てて、静かに言った。




「ここからは、私の推測です」




 いつになく慎重な前置きだった。

 それから、彼女は一つの仮定を語り出す。




「排斥された彼女たちが、ネットワークに“参加したい”という意思を持っていたとしましょう」



 カリンの仮定に僕は思わず反論した。



「だが、今井詩織はいじめられていたんだぞ。自分を排斥したコミュニティに、今さら参加したいなんて思うのか?」



 だが、その反論に対し、カリンは小首をかしげた。



「本当に、そうでしょうか? むしろ――そう思っていた可能性のほうが高いと、私は考えます」



 そして、大きく息を吸った。



「なぜ彼女は排斥され続けたバレー部に居続けたのでしょうか?」


「……それは」



 なぜなのだろうか。

 1人だけ、赤い糸を身に着けず、バレー部の一員であり続けた。


 今井詩織は排斥された環境の中、何を考えていたのだろうか。



「逃げることだってできたはずです。

 それに彼女がいじめられていた原因が恋愛のもつれであったのなら、彼女はその先輩とも夏休みに別れたと言っていたそうですね。

 いじめられる理由もなくなっていたのでは?」



 今井詩織の行動には矛盾が存在すると、カリンは語る。




「それは推測でしかないはずだ」



「はい、ですがいじめられていたということもまた推測でしかないのです」


 


 元々、全てが噂話。

 それを裏付けるのは立羽さんが見た微かな違和感。

 そして、メティスの信用ならない証言だけ。



 だがもし、今井詩織が本当に――バレー部の“仲間”として戦いたいと願っていたとしたら。

 もしも、それが事実だったなら。



「――彼女は本当は生きていたいと思って…」



 拳を固く握りしめる僕の声はどこまでも震えていた。




「おまじないを身に着けるということはネットワークへの参加表明です。

 なにせ双方向性のネットワークですから、その思いはおまじないの神である巫水空音に伝わります。」




 彼女たちが元来、保有していた死にたいという思いがおまじないを通じて、ネットワークに流れ込んだ。


 そして、その思いに巫水空音は目を付けた。




「彼女たちの死にたい思いはおまじないのネットワークを通り、おまじないをする者たちの無意識を巡った。

 そして、最終的に彼女たち自身の魂にフィードバックされたのです。」



 おまじないのネットワークは彼らの望む未来の結晶だった。

 そして、今井詩織たちはシステムの求めた未来に存在しなかった。


 そんな無意識の排斥の中。


 彼女たちは何をしなければいけなかったのだろうか。

 何をすればネットワークへ参加できたのだろうか。

 何をすればネットワークに貢献できたのだろうか。


 そんなの決まってる。




「結局、死ねばよかったんだな」




 僕の苦くて、吐き出すような僕の言葉に、カリンは小さく頷いた。



「巫水空音がその死にシステムとしてへの貢献という意味付けをしたのです。

 『あなたは死ななければならない』

 『あなたの死はみんなの幸せのためになる』

 『死ぬことであなたの希望も叶うんだよ』

 そんな風に囁かれたのでしょう」



 孤独な願望を、社会から嘱望された死へと変換する。

 そのための、システム。



「きっととても優しい方たちだったのでしょうね」



 それまで無表情に、無関心に言葉を連ねていたカリン。

 あくまで冷静な第三者でいようと努めていた彼女の声が悼むように僅かに和らぐ。



「そうだね、優しかったんだ」



 誰かのために何かをしたい。

 みんなと一緒に生きていたい。


 そんな利他性がなければこの呪いは働かない。




「結果、彼女たちの“死にたい”という思いは、“死ななければならない”集団的使命へと変質したのです。

 その死は、自分のためではなく、誰かのため――

 社会というネットワークのために捧げられる“生贄”へと、変わったのです」




「呪い」とは自殺希望者を生贄へと変質させる構造だった。



 だから彼女たちは、「死ななければならなかった」。



 だからこそ、彼女たちの最期の言葉は狂気に彩られた。



 最期の最後――それは彼女たちの命は、自分ひとりの命ではなくなっていた。





「自殺が治療の対象とされたのは、つい近代のことだったな……」



「ええ、民主主義を経て、現代ヒューマニズムの勃興とともに、ようやく生きることが人間の当然の権利とされたのです」




 産まれた時から僕たちを取り巻くヒューマニズムの倫理。



『命は大事にしましょう。』


『みんな一人一人が大切な人間』


『人類皆兄妹』



 そんな感情の理屈に潜むコストとリターンの論理。



 生命の価値が数字として可視化され、規格化された社会が生み出した、優しい嘘。


 ディストピアに至るほど苦しくはない。


 けれど、人間が資本としてカウントされ、みんなが社会の歯車として構造化された社会。


 やさしさに内包された生きる権利。




「生きることは権利でありながら、いつしか“義務”にもなった」




 僕たちの魂はそのように加工されてきた。


 命を守るという優しさの裏には、決して逃げられない責任がある。




 クラスに流れていた「諦め」の空気はそれだったのだろう。


 死者を責めてはいけない。

 そんな倫理的な抑圧が学校には広がっていた。


 

 けれど、学校という閉鎖環境の中で、誰もが自殺によってまき散らされた重苦しい空気を嫌っていた。

 自殺をした人間を心の中で疎んでいた。


 二律背反の中で、結果として「諦め」「空気の同調圧力」が無意識に共有されていた。


 「諦め」の感情は心の麻薬だった。


 おまじないが流行したのは、そういった空気の反作用だった。




 だが、現代ヒューマニズムのそれ以前――




「例えば、古代アステカ文明における生贄は、社会の秩序を維持するために、神々とともに自分たち自身をも捧げる、利他精神の象徴でした」



 

 日本でも、竜神信仰の中で、気性の荒い神を鎮めるために乙女を生贄に捧げる人身御供が存在した。


 自殺は社会的なものだった。

 1人の死が集団に利益をもたらすものだった。

 とても有益な命の使い方だった。



 僕たちを締め付ける倫理が変わったから、だから自殺は悪とされた。




「……なんで、今井詩織たちだったのかな……?」




 巫水空音は、どうして彼女たちに目をつけたのか。


 その問いに、カリンは――笑った。



「だって安上がりでしょう?」



 それは明確に嘲る笑みだった。


 多分、この気持ちの悪い呪いのシステムを。


 おまじないにすがる大多数の生徒たちを。


 最期の最期まで、自分の生を、死すらも穢された今井詩織たちを。


 何のためにか、このシステムを作り出した巫水空音を。



 嘲った。

 憐れんだ。

 そして慈しんだ。


 そんな慈悲の笑み。




「巫水空音は生贄を欲していました。

 おまじないが効果を発揮し続けるためにはエネルギーが必要だったからです。

 自殺という行為には、膨大なエネルギーが必要です。

 ほんの少し、背中を押すだけで――これ以上ない良質な燃料になる。」




 彼女たちの自殺はとても使い道があった。

 それはとても冷たいようで、とても現代的な論理だと僕は感じてしまった。


 生命の価値があまりにも可視化されてしまったこの現代。

 命は数字以上に大事にされすぎている。



 僕たちが生贄を気持ち悪いと感じるのは命を軽視しているからじゃない。

 きっと生贄の価値を数字で捉えられないからだ。


 死ぬことの利益に誰も気づきたくないからだ。



 自他を分ける高度な理性が囁く。

 自分は特別なんだって。


 自分が生きるよりも死ぬ方が価値があるだなんて、思いたくなんてない。




「ただ、自分のために死ぬだけじゃ、ダメだったのか……?」




「ただ自分のために死ぬ。その願いを叶えたのでは他のおまじないと変わりません。

 でも、おまじないというシステムのために死を選んだのであれば――それは神への供物ですよ。」




 その沈黙は、まるで染み出す毒のように、部屋の隅々にまでゆっくりと広がっていった。




「だからこそ、これは悪趣味なんです」




 そう言ってカリンは小指に巻かれたおまじないを僕に差し出した。

 彼女が何をしてほしいのか、言わずとも分かった。



 だから、僕はその糸を静かに解いた。



 もう、この糸に触れているだけで吐き気がした。心の底から、気持ちが悪かった。



 思いを捻じ曲げ、最期の言葉までも集団の利益のために加工する。


「あなたは、死ななければならない」と刷り込む。


 偽物の生贄に仕立て上げる。




 それは——とても「優しい自殺教唆」の呪い。





『ほんと、気持ちの悪い呪いだわ』




 メティスが気持ち悪いといった理由がようやくわかった。




 受け入れられるわけがない。

 

 偽物の神。

 

 偽物の生贄。


 そんなもので成立するおまじないのシステム。


 その恩恵を無自覚に享受し続ける生徒たち。


 自称の被害者による無自覚に、無関心に行われ続ける生贄の選定。



 あの学校はメティスにとって許しがたいものだけで作られている。



 だから僕が来るまで一言だって喋る気にならなかったのだろう。




「あえて、名づけるのであれば――」



 カリンは言った。



 おまじないによる恩恵を授かる。


 呪いにより生贄のエネルギーを受けとる。



 どこまでも延々と続く、まじないによる、呪いによる、生贄の授受のシステム。




「呪々御供」





 ◇◇


 

 三階に上がって音は明瞭に聞こえ始めた。




 くす…くす…




 それは笑い声だった。


 聞いたことのない、上機嫌な調子。


 何がそんなに喜ばしいのだろうか――その響きは、耳の奥に不快なざらつきを残す。




 くす…くす…くす…くす




 はじめは微かで曖昧だったそれが、近づくほどに徐々に明瞭になっていく。


 音は高く、鋭く、どこか甲高い。気に触る笑い声だった。




 くすくすくす、くすくすくす




 こっちが近づいているはずなのに、その声は、まるでこちらへと近づいてくるようだった。




 近づけば近づくほど、まるで歌のように聞こえ始める笑い声。


 旋律ではない。ただし確かに、音楽のように心を捕える。




 まるで旅人を惑わせるセイレーン。


 近付くものを決して逃がさない、そんな意志が込められている。






 ――やがてそれは見え始めた。




 教室の前。


 巫水空音が死んだあとに残された、追悼の品々。


 手向けられた花束。供え物。


 色とりどりのものが、腐り、朽ち、異臭を放っている。


 

 死んだ事実すら忘れられたように。




 そして、その部屋。



 化学準備室の中には幽霊がいた。


 白装束を纏った長い黒髪の幽霊。

 真っ白な肌は夜空を透かす借景となって、化学準備室を耽美で幻想的な色合いに染めていた。


 彼女は浮かぶでも、ただ立つでもなく、吊られている。


 ガラス越しの月を背にして、まるで踊るように、円を描いて空間を漂っている。




 その姿は、歓喜に満ちていた。


 気に障る笑い声と共に、まるで、久方ぶりの捧げものに歓喜しているかのように。





 ――幽霊が描く円の、その中心。




 教室の中心には、少女がひとり、項垂れていた。




 項垂れたまま、宙に浮いていた。




 その姿は、あまりにも静かで、あまりにも異様だった。




 まるで、誰かに首を折られたかのように、深く、深く頭を垂れている。


 その首の角度は、もはや生きている者のものではなかった。




 その首には――赤い糸が巻かれ、天井へと繋がっていた。




 輝くような金の髪が、その表情を覆い隠し、月が、そこに静かな影を落としていた。


 ハイライトを失った翡翠の瞳が今はただの水晶のよう。




 けれど、その在り方までもが、どこまでも神秘的な少女だった。




 金髪の少女。



 ――メティスだった。



 メティスが、そこにいた。



 いや――メティスが、首を吊られ、死んでいた。

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