第23話 任天堂さん凄い!

今話題ですねー。Nintendo switch2

抽選に外れまくってる私ですが。


少し任天堂さんのお話をしましょう。


今や世界的規模で有名な任天堂さん。

元々1889年(明治22年)に創業。任天堂骨牌(にんてんどうこっぱん)という名称で創業されたみたいですね。主に花札を作っていたとか。

その後1902年に日本で初めてトランプを製造販売。

この時、トランプの普及のために当時のタバコ屋さんにトランプを置くとか、タバコのオマケにトランプを同封させて、売れ行き好調になったとか。

ギャンブルする人はタバコを吸う人が多く、そこに目を付け、タバコ屋にトランプを置いたという。先見の明はその頃からあったようですね。

そして時代は進み、昭和の戦後から数年後の1949年に伝説の社長、任天堂三代目の山内博さんが就任。この社長就任の時に、山内博さんは同族経営に終止符を打つ。親戚などを経営陣から排除、大改革を行ったそうです。


そして、当時トランプの販路拡大として日本で初めてプラスチック製トランプとキャラクタートランプを製造。あの有名なネズミの国のトランプを作ったそうです。それまで大人のギャンブルする人が主流だったトランプ需要を子供まで販路拡大。しかも色々なトランプの遊び方の取り扱い説明書を同梱して販売したため、子供でも遊べる娯楽として繁栄しました。


トランプ製造販売がテレビCMをするなんて業界初で、日本のトランプ製造販売業界のトップクラスに。


ちなみに現在もトランプやUNOを任天堂さん販売してます。


そして、アメリカの最大手プレイングカード社の工場見学を山内さんが行った時、さぞ凄い工場何だろうと期待していたが、期待よりも遥かに小さな規模と感じ、トランプだけでは先行きが不安と判断。


そこからいろんな業種に手を出した。


ふりかけ、タクシー会社、インスタントラーメン、ラブホテル経営等様々な業種に挑戦したが、大失敗。経営危機に。


しかし、そこに現れたもう一人の天才、横井軍平さん。

多角経営を行っていた任天堂さんは機械技師として従業員募集をしており、家から近いという理由で、横井軍平さんは任天堂に入社。

そして、メンテナンス作業員として働いていたが、仕事が暇だったため、そこらへんの物を改造しておもちゃを作って遊んでいたそうです。


その遊んでいる姿を、山内さんに見つかり、社長室へ呼ばれた。


内心めちゃくちゃ焦っていた横井さんだったが、山内さんはまさかの発言。


そのおもちゃを製品化しろ!


えー!!!って横井さんほっとしたようです。


そこで出来たのが、ウルトラハンドというおもちゃ。


これが爆発的に売れた。

遊び感覚で作った横井さん。そしてその遊びを見て、怒らず商品化させる山内さん。凄い話ですね。


このウルトラハンドは、今電車のホームから線路に物を落とした時に、伸び縮みする網目のような道具として使われてます。


そして横井さんが商品開発部門の責任者として配置。色々なおもちゃを開発した。


そしてヒット商品を数々生み出すのですが、その中で光線銃という赤外線を利用した拳銃のおもちゃ。

これを当時人気が低迷していたボーリング場を買取り、射撃場のような遊び場として再生しようとしていたが、ここでオイルショックが起こり、大赤字。せっかく業績が良くなっていたのに、世界情勢に巻き込まれる。


そんな中、横井さんは山内さんの運転手も行っており、横井さんが新幹線で見た光景を山内さんに、軽い世間話程度で話した。


新幹線の中で、サラリーマンが長旅を紛らわせるために電卓で遊んでいる姿を見て、携帯で遊べる物があれば売れるかもしれないという話。


山内さんは、その話を聞き流すような態度で聞いており、取引先で下ろした。

その取引先がなんとシャープ。

当時液晶が安価となり、電卓が売れ残る自体の改善に何か良い案がないのか?山内さんに相談するというとんでもないタイミング。


その数日後にシャープの開発の方々が横井さん宛に訪問し、ゲーム案を本格化。


これがゲームウォッチの誕生。


私もまだ幼稚園から小学校低学年でしたが、ゲームウォッチブームを体験してます。

単純なゲームでしたが、これが時間泥棒。

ずっとハイスコアを出すために、無心にやっていた記憶があります。


このゲームウォッチで大赤字だった経営が一気に改善。借金も一気に返済されたとか。


また、次に任天堂はゲームセンターの筐体機も作っており、インベーダーに似たゲームを作っていたが、インベーダーゲームの終焉とともに大量の筐体機が余っていた。


ここで、また天才の登場。


当時ポパイのゲームを版権取る前に開発していたが、版権が取れなかったらしく、急遽キャラクターを新規に作らなければならなくなり、困っていた。


それと同時期に、山内さんにどーしても一度面接して欲しいとコネ入社的な話をされ、知り合いなのでむげにも出来ず面接だけと、会ったのが、宮本茂さん。マリオの生みの親。


宮本さんは山内さんに面白くて実用的なハンガーのデザインを披露。デザイナーは雇っていなかったが、その奇抜な発想を山内さんが気に入って、入社させた。


そして、そのまま開発室で横井さんの下に。


そして余っていたゲームセンター筐体機の急遽キャラクターデザインを担当。


伝説のゲームキャラクター『マリオ』とドンキーコングの誕生。


これが爆発的に人気になり、これも赤字回復の一因となったとか。


そして、いよいよあのゲーム機が生まれます。


当時、テレビゲーム機が色々日本で売れていた。

私も近所のおにーちゃん家にあったピンポンゲームをやった記憶がありました。

簡単なゲームですが、当時熱中した記憶があります。


エアホッケのようなピンポンゲーム。


実は任天堂もこのピンポンゲームの発展版を出していたそうです。


カラーテレビゲーム15とカラーテレビゲーム6というゲーム機。


ピンポンゲームの発展として途中に障害物が現れたりするパターンが15パターンの物と6パターンの2機種。


この2機種ですが、カラーテレビゲーム6は9800円、カラーテレビゲーム15を14800円で販売。

実はこの戦略は後の伝説のゲーム機の市場調査をしていたと噂されてます。


カラーテレビゲーム6は9800円で実は大赤字になる。カラーテレビゲーム15が売れないと失敗となるかけ事のような販売だったそうです。


山内さんの読み通り、カラーテレビゲーム15が売れて6はあまり売れなかったという結果。


家庭ゲーム機に出せる当時の市場は14800円くらいと結果が出た。


そして、山内さんはゲームウォッチ、カラーテレビゲームのブームが終わる前に、新しいゲーム機の開発を開発部門に依頼した。


どこの会社も2年はかかるような1台14800円くらいで販売出来るゲーム機を作れ!


あの伝説のゲーム機!『ファミリーコンピュータ』ファミコンの登場!


このファミコンは当時私も熱中しました。持っていないとけなされるくらいのブームで、少年時代の思い出の一部に必ず記憶に残るゲーム機でした。


あまりにもファミコンをやるので、ファミコン本体を親が隠すというのも当時の家庭あるある。


今も勉強しないでお母さんに隠される家庭ってあるのかなー?と気になりますね。


そんな時代の最先端を突っ走る任天堂さん。今もNintendo Switch2でゲーム機の歴史を塗り替えるとか。凄いですね。


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