第3話 1936年 秋・モスクワの夜

【1936年秋ハリコフ機関車工場 設計局(午後11時)】

 白熱灯のギラつく光が、コンクリートの壁と無骨な金属の机に鋭い影を落としていた。夜遅くにもかかわらず、設計局の地下技術棟には緊張した空気が張り詰め、油と紙と、そして何よりも鉄の匂いが充満している。机の上には無数の設計図が広げられ、その中央で、ヴァシリー・ズブツォフが鉛筆を握りしめたまま、ぐったりと伏せていた。その影は、部屋の奥まで長く伸び、まるで彼の疲労と背負う重責を象徴しているかのようだった。


 彼が頭をもたげると、徹夜の証である深い隈が目元に刻まれていた。視線は、彼が数ヶ月を費やしてきた次期中戦車の設計図に釘付けになっている。特に、その革新的な傾斜装甲と、ソビエトの広大な荒野を走破するための広軌キャタピラの描画部分に、彼の思索の全てが集中していた。彼は、乾いた唇をゆっくりと動かし、誰もいない部屋で独りごちる。


ズブツォフ(独白)

「火力も防御も完璧にはできん……いや、完璧にしてはならない。それがこの機体の宿命だ。だが、この機体は走る。極寒の雪原でも、春の泥濘でも、決して止まることなく……。速度が全てだ。敵を翻弄し、その懐深くに飛び込むためには、これしかない。」


 彼の脳裏には、先日の会議でジューコフが語った「ワルシャワへの包囲の火」という言葉が鮮やかに蘇る。この戦車こそが、その「火」を灯すための最初の「鋼の矢」となるのだ。


「この“鋼の矢”が、ワルシャワの背中を、そして敵の防御線を貫くのだからな……。」


 設計図の脇には、もう一枚の図面が重ねてあった。それは、次期中戦車ベース地中掘削機と記された、粗削りなスケッチだ。無骨な戦車の車体に、巨大なドリルと掘削アームが取り付けられている。それは明らかに軍事工事用、すなわち、先の会議でスターリンが命じた要塞構築専用の機械だった。しかし、その図面には、民間転用を匂わせる「農業機械」の文字が小さく書き加えられていた。


 ズブツォフは、その図面を見つめ、小さく、しかし確かな満足を込めて笑った。それは、困難な課題を巧妙な手で解決しようとする技術者の、密やかな喜びの笑みだった。


ズブツォフ

「これを生産する工場は、戦車工場ではなく農業機械工場にしておけ。監視の目はそっちの方が甘い。誰にも気付かれずに、あの巨大な要塞群の心臓部を、密かに構築するのだ……。」


 彼の言葉は、夜の闇に吸い込まれ、誰にも届くことなく消えていった。しかし、その頭の中では、来るべき大戦に向けた恐るべき秘密計画が、着実に具現化への道を歩み始めていた。彼の手にかかれば、鋼鉄はただの素材ではなく、祖国の命運を握る「未来」へと姿を変えるのだ。

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