黎明の桜
矢口愛留
黎明の桜
第一章
第1話 桜、朔《さく》
「――お前、行く処がないの? 父様や母様はどうした?」
桜の花弁が重たげに揺れる雨空に、人差し指をすい、と向ける。空は遠く高くて、幼子の手では、どれだけ伸ばしても届きそうにない。
「そうか、可哀想に。なら、うちの子になるか?」
地面を黒く濡らしていた
――これが、男の覚えている、最初の記憶だった。
◇◆◇
「だぁーかぁーらぁ! お見合いなんてしません! 今は仕事が大事だって、何度言ったらわかってくれるの!?」
『そうは言ってもねえ、お父さん、この様子だと諦めないわよ。一度会ってみるだけでも――』
「嫌なものは嫌! お姉ちゃんだってお兄ちゃんだって勝手に出て行ったのに、どうして私ばっかり!?」
『美桜がそう言うのもわかるんだけどね……』
耳に当てたスマホから、母の控えめなため息が聞こえてくる。
『けど、それこそ結婚を考えている恋人がいるとか、そういう理由でもないと、お母さんも説得できないのよ。でも、いないんでしょう、お付き合いしてる人』
「…………い、いるよ」
『……えっ? 本当に?』
不自然な空白のあとに、美桜はぼそりと呟く。それに対する母親の返答にも一瞬の間があったのは、仕方のないことだろう。
「ほ、本当の本当! いるったらいるの!」
『あらまあ、お名前は? どんな人? 写真を送――』
「そ! そう言うわけだから、この話はナシでいいよね! ね! じゃっ、電車乗るから、もう切るね!」
これ以上突っ込まれると、間違いなくボロが出てしまう。美桜は畳みかけるように嘘を重ねて、赤く光る終話ボタンをタップした。そのまま大きくため息をついて、持っていたスマホをベッドの上に投げる。もちろん、これから電車なんていうのも嘘だ。
――もう何度目の電話だろうか。美桜がついた嘘なんて、母にはすぐバレてしまうに違いない。
現に、母は、美桜が嘘をついた瞬間から疑っているようだった。それでも、こんな強引な、娘の気持ちなんてまるっきり無視した話からは、どうにかして逃れたかったのだ。
「……あー、イライラする」
美桜はお酒を飲もうと冷蔵庫を開けるが、あいにく在庫を切らしていたらしい。ならばアイスでも、と冷凍庫を物色するが、こちらも悲しくなるほどすっからかんだった。
「はぁ。コンビニ行くか……」
時刻はもう二十三時を回っている。何もこんな時間に電話を寄越すことはなかったんじゃないか、と母に対する苛立ちも募ってくるが、昼間からずっと連絡を無視し続けていた私も悪い。あまりにもしつこいから、諦めて出ざるを得なかったのだ。
「何だかいつにも増して暗いなあ」
雲はなく星は見えるのに、夜空を見渡しても月の姿が見当たらない。今日は新月のようだ。なんだか暗いうえに肌寒くて、美桜は小さく身震いした。
コンビニまでそう遠くはないが、さっさと行ってさっさと帰るべきだろう――そう、思っていたのだが。
「ぐ……うう……」
しばらく歩いたところで、誰かの苦しそうな呻き声が聞こえて、美桜は辺りを見回した。どうせ、酔っ払いか何かだろう。
気味が悪いから、早めに通り過ぎようと思ったのだが――。
「……死ぬ、のか……こんな、処で……ごふっ」
「……えっ!?」
さすがに看過できない苦悶の声が聞こえてきて、美桜は足を止めた。
知らない人だろうが酔っ払いだろうが、具合が悪いなら救急車を呼ぶべきだろう。無視して明日の朝になって変死体になって発見されでもしたら、寝覚めが悪い。
それどころか、防犯カメラの映像やなんかから、美桜が重要参考人とかに浮上してあらぬ嫌疑をかけられてしまうかもしれない。取調室でカツ丼なんて御免である。
「どこにいるんです!? 大丈夫ですか!?」
「……その、声……ひ、め」
「そっちね! 今行きます!」
声の出所を探ると、美桜は、街路樹の根元に寄りかかっている男を発見した。
式典か何かの帰りだろうか、袴と
男の方に駆け寄りながらも、美桜は、男が明らかに苦しそうにしているのがわかった。美桜と同世代か、少し年上……二十代半ばぐらいだろうか。見知らぬ若い男は、端正な顔を歪め、息を荒くしている。
倒れて枝にでも引っかかってしまったのか、着物の一部が破れてしまっているようだ。その部分にうっすらと血が滲んでいるのと、唇を噛みしめてしまったのか、口端からも血が一筋流れているが、それ以外に特に目立った外傷はないように見える。
「どうしました、どこが苦しいんですか?」
「心の、臓……ぐっ」
「心臓発作!? 大変、すぐに救急車を――って、あ、あれ?」
美桜はポケットに手を突っ込んだが、手に触れるのは家の鍵だけ。うっかりしたことに、スマホを部屋に置き忘れてしまったようだ。一分一秒を争う病気だというのに、自分の不注意が悔やまれる。
胸をかきむしってしまったのか、着物の合わせから見える白い肌には、赤黒く変色してしまった傷痕のような紋様が走っていた。
ついでに袖口から見える腕にも、似たような色の刺青らしきものを見つけてしまったが、美桜は見なかったことにした。世の中には、知らない方がいいこともある。
「ごめんなさい、スマホがないんです。お兄さん、持ってますか?」
しかし、男は苦しそうな顔で首を横に振る。よく見れば、男は何の荷物も持っていないようだった。
「な、なら助けを呼びながら心臓マッサージをするしかない! 誰かいませんか! 誰かー!」
美桜は叫ぶが、こんな時間に通りがかる人もいない。この道は、学生街のエリアだ。昼間はそこそこ人通りもあるのだが、夜中になるとほとんど誰も通らない。住宅や、夜間も営業している商店のある場所までは、少し距離があった。
「と、とりあえずマッサージしながら、人が通りがかるのを待ちましょう! 横になってください、お背中支えますから」
そう言って美桜が男の背中に手を回したそのとき――突然、あたりに白い光が満ちたのだった。
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