第4話 トレース・ゼロ

天井から吊るされた照明が明滅していた。

視線の先で、通路の向こうに立っていた女が、突然くるりと振り返り、意味もなくガラスを叩き出す。


矢吹蒼一は娘の手を取り、早足で文具売り場を離れた。

「いい? もうちょっと静かなところへ行こう」

そう言った瞬間、売り場の背後で棚が崩れる音がした。


悲鳴が重なり合い、もはやどこから聞こえてくるのか判別がつかない。

通路を駆ける人波、蹴倒された案内板、鳴り続ける異常ベル――。

モール全体が、制御不能の異常空間へと変わっていた。


娘の肩を抱くようにして、矢吹は近くの従業員用通路に滑り込んだ。

通路奥の「STAFF ONLY」の扉を迷いなく開ける。

ここに避難できる客はいない。通報も遮断されている今、どこへ逃げても同じだ。

それでも、「止まらないこと」が唯一の答えだった。


薄暗いバックヤード。カートの山、雑然と積まれた段ボール。

矢吹は娘を陰にかがませ、自分のスマートフォンを取り出した。

もちろん、画面には「圏外」の表示。Wi-Fiも圏外。


一応、ゼロ隊専用の暗号回線も確認するが、送信が跳ね返される。

「……くそ」


原因は明白だ。

周囲に強力な通信妨害が仕掛けられている。

しかも、局地的ではなく、モール全体を覆う規模。

自然発生ではありえない。


矢吹はようやく「これは何かの実験だ」という確信を強く持った。


耳元のイヤホンが、かすかにヒュン……と電子音を立てる。

このノイズがなければ、自分もあの女のようにガラスに向かっていたのかもしれない。


――あれは音だ。

明確な指令のような“何か”が、脳を直接操作している。


娘は幸い、キャラクター音楽に夢中で、異常な音をまともに聞いていない。

今のところは、それが唯一の救いだった。


「落ち着いて聞け」

矢吹は低く、短く言った。「パパの言うとおりにしてれば、大丈夫だ」


娘は頷いた。少し泣きそうな目をしていたが、声を出さなかった。

その沈黙に、矢吹は「やっぱり強い子だ」と一瞬だけ胸を熱くする。


「次は、出口か通信機器」

彼は冷静に行動を再開する。


次の目的は、館内の防災センター。

防災センターには警備連絡用の有線回線や非常端末がある可能性が高い。

あるいは、遮断されていない回線に接続できるかもしれない。


矢吹は通路を進む。壁に設けられた簡易マップを確認し、最短経路を目視で記憶した。


途中、倒れた女性とすれ違う。

目は見開かれ、口元には血の跡。

だが矢吹は立ち止まらない。背中の娘に見せないよう、そっと視線をずらす。


「見なくていい」


足音が、追ってくるように錯覚される。


しかし、立ち止まれば死角が増える。

思考に迷いが生まれれば、今度は自分たちが“向こう側”になる。


――やらせてたまるか。


彼は拳を握り直した。

そしてその中に、いつかの“記憶”がよぎる。


失ったもの。

守れなかったもの。

後悔が、いま背中に乗せた小さな命に、意味を持たせていた。


            *


誰かが非常口のドアを叩いている音が聞こえた。

遠くからか、それとも自分のすぐ近くからかも判断できない。


館内の空気が変わっていた。

「狂気」ではない。明らかに**「制御」**の気配がある。

あの不自然なまでに統一された言動。暴れる客も、静かに座る店員も、何かの“命令”に従っているようだった。


それが“音”であることは、矢吹にはもう確信になっていた。


「静かにしててくれ」

矢吹は娘にそう囁き、店員通路の奥、重厚な鉄扉へと進む。

「防災センター」と記されたプレートがかろうじて読み取れる。


ドアは電子ロック式だったが、既に非常時モードに切り替わっていた。

非常時解錠用の手動レバーを引き、錠が外れる音を確認して中に入る。


室内は薄暗く、空調が止まっているせいで蒸し暑い。

壁にずらりと並んだ監視モニター。だが、全ての映像が「NO SIGNAL」の文字で埋まっている。


「やっぱりか……」


だが、有線端末は生きていた。


保安連絡用のPHS端末と、警察回線のボタン式ダイヤル。

「117」「110」「119」と貼り紙があるが、どれも発信しても受け手側に届かない。


矢吹は試した上で、すぐに方向を切り替える。

目的は、回線ではない。記録だ。


防災センターの端末には、ローカル録画データとアクセスログが残されていた。

これは外部と接続できなくても、持ち出せば解析可能になる。


「……使える」

矢吹は最も新しい監視データの録画を確認し始める。


数分前、吹き抜けの広場にて、誰かがスピーカーで店内放送を行っていた。

音声は記録されていないが、群衆の挙動が明らかにそこから変化している。


そして、ある一点のタイミングから、カメラが一斉に停止。

その直前――一人の女性が天井を見上げ、口をパクパクと動かしていた。


「……マイクか?」


矢吹は画面の一部をスマホで撮影し、自分の端末に転送。

※暗号化された「ゼロ隊外部接触用アプリ」が作動する可能性を試みる。


通信は不通のまま。

だがアプリのログは記録されている。

つまり、“あとで誰かがこれを見れば”、ここに矢吹がいたことが分かる。


この行為が、**ゼロ隊への痕跡(トレース)**になる。

彼はそれを信じるしかなかった。


「ここに、俺と娘がいた――」

呟いた矢吹は、ひとつ息を吐いて、娘のもとへ戻った。


「行こう」


次に目指すは、モール地下の駐車場階。

防火扉が閉じていなければ、外との接点になり得る最後の希望だ。


娘はうなずき、矢吹の背にしがみついた。


踏み出した足音が、閉じたドアの外へと消えていく。

その背後で、記録端末が静かに点滅を続けていた。


(続く)

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