自由への逃走
賦活系
一 母の還儀
《還元炉》——人集りの頭上、大理石の壁に刻まれている。
喪服を着た人々が、白装束の女性を取り囲んでいる。——僕の母だ。
胸がざわつく。——還儀のためか、それとも着慣れていないこの喪服のせいか——別に今回が初めてではないのだけれど……。この黒色の衣服は先日僕の部屋に届いたもの。作りは貫頭衣と同じで無駄がない。
僕は意識して息を吸い、それから吐いた。
分解還元。——このシェルター内で、死という言葉があまり聴かれなくなってから一体、幾星霜が——そうだ、星霜も古語。——僕は星も霜も見たことがない……。
否定的な言動をしてはならない。——そう聞いたことがある。でも、僕は時々考えてしまう。生命活動の終止、肉体の分解、そして意識の離散、あるいは消失?——我々はどこから来たのか、我々はどこへ行くのか……そんな題名の絵画を図鑑で見たことがある。絵よりも、むしろ題名の方に惹かれたのを覚えている。
死は……未知だ。——地下への移住により、人類の精神構造が進化したとする見解は本当に正しいのだろうか? むしろ、その反対なのだとしたら……なんだか頭がぼんやりしてきた。
室内の空気は重々しく張り詰めていた。人々の息遣いの音だけが聞こえる。
出し抜けに誰かの声が発せられると、次第に高低様々な声がこだまし始めた。——皆、誰かが口を開くのを待っていたのかもしれない。
僕は集団から少し離れた所で側壁の刻字を目でなぞった。——《大地へと還る時まで……》刻字は続く。——どうせ……と舌が口の中で動いた。全文を読み終わる前に、僕の視線は吸い寄せられるように刻字の右下の方へ移動する。
アンモナイト。——本物の化石。大理石は合成物じゃない。——渦巻き状の断面構造内部は隔壁で区切られており、その小部屋は二十一まで数えることができる。最下層に来るたびに僕はこの渦巻をよく指でなぞった。——均一で滑らかな手触り。——当然ここもコーティングされているから、僕の指が直接この実成物に触れることはない。
「ハル。きみもこちらに来なさい」と長老の声がした。——僕の名が呼ばれた。
僕は人集りの方に歩み寄る。
母と長老のそばに立っている妹が、僕に対して頭を下げた。妹の髪は丁寧に結わえられており、手には鮮やかな橙色の花輪を持っている。——久々に見る妹はまた一層成長していて、背格好はほとんど大人の女性と変わらない。前よりも胸元の辺りが膨らんでいた。——時間の経過は、他者の変化を通じて自覚させられるものなのかもしれない。
妹が母の首に花輪をかけた。——花の匂いが僕の鼻にも届く。柑橘系の匂いだ。
僕も長老から花輪を受け取った。編まれている花の一房一房は、少し湿っていて柔らかい。目の覚めるような橙色の花弁が幾重にもかさなっている。確か——マリーゴールドだ。これは本物だろうか?
人々の視線が僕に集まるのを感じた。——僕は顔を上げ、母の元へ近づいた。
僕は母の細い首元を見つめ、手に持つ花輪をその首にかけてあげた。母の目は見られなかった。
「ありがとう、ハル。私の体が丈夫だったら、もっとちゃんと——」母は言い淀んだ。——遺伝子疾患の治療は、現代でも難しいのだそうだ。
母の目元をチラとみた。——少し瞼が腫れている。僕は再び母から目線を逸らし「大丈夫だよ」と言った。
「体を大切にね」と母が言った。
不意に、熱いものが僕の血管の中を昇ってくるのを感じた。耳の辺りがドクドクと脈を打つ。——馴染みのない感覚。——熱い圧力が排出口を求めるように、僕の顔面にある血管を駆け巡り、目頭の辺りから漏れ出そうになった。——僕は苦しさに堪えながら、母に対して何かを伝えた……。僕は母に対して何かを言ったはずなのに、どんな言葉が僕の口から発せられたのか、言葉を発した瞬間にはもう思い出せなくなっていた。——上唇が引き攣っていた。——ひょっとしたら声が震えていたかも知れない。
妹が嗚咽し母に抱きついた。——その行動に僕は少しびっくりした。——妹は昔から母を慕っていた。感情のままに行動できる妹のことが羨ましく思えた。今更になって、僕も妹のように、もっと母のお見舞いに行けば良かったと後悔する。
「さあ、悲しんではいけないよ」と長老は、涙を流す妹を優しく窘める。
涙は——血液から作られていると習ったことがある。母乳もそうだ。——妹も僕も、皆と同様、生暖かい半人工ミルクで育った。保育班員とアンドロイド。檻のようなベッドの記憶が湯気のように蘇っては、すぐに霧消した。
炉の作業員が、壁に取り付けられている大きなハンドルを回し、壁から台車を引き出した。
母は台車の寝台に腰掛け、作業員から、銀皿を受け取った。——銀皿の上には青い錠剤と、液体の入った小振りのグラスが置かれている。——母は細い人差し指と親指で、その青い錠剤を丁寧に摘み、ゆっくりと口に運んだ。そしてグラスの中の透明な液体を一口で飲み干した。
母は台車に横たわった。
「ハル、ヤヨイ、こっちに来て——私の手を握ってちょうだい」
僕と妹は台車の両脇に立ち、妹が母の左手を両手で包み、僕が母の右手を、——妹がしているように両手で包んだ。——母の手はゴツゴツしていて冷たい。
母は僕らを交互に見た後「大きくなったね」と言い、目を瞑った。ゆっくりと呼吸を続けている。——僕の手がぎゅっと握られた。
僕は母の顔を見つめた。頬はこけているが、柔らかい微笑みを湛えている。
「幸せにね」と母が言った。——幸せ? ——僕の幸せとは?
母の呼吸が浅くなり、吐く息の方が優勢になっていく。
——僕の手を握っていた力が緩んだ。——母は眠りに就いたようだった。しかし……もう息をしていなかった。——母の顔には不幸によって刻まれた皺が見当たらなかった。安らかで、清らかな微光を発しているようにも見えた。その母の表情が、僕の後悔をいくらか晴らした。
妹の方に視線を向けると、しめやかに涙を流していた。——妹が僕の視線に気づいた後、僕らは母の骨ばった手を、お臍の上のあたりで優しく組ませてあげた。——母の手は作り物のようだった。
母を乗せた台車が、作業員によって炉の壁に収納されていく。
カチン——と冷たい無機質な音を立てて台車が壁に収められ、ハンドルが固く閉められる。
僕の脳裏には、記憶にある人々の顔が映し出されていた。——目の前に広がる現実よりも鮮明に、瞬時に、次々に……。そしてその人々の顔がやがて一人の女性に収束していく。——母の顔だった。無限の母の顔……。
僕の名を呼ぶ声——長老の声が僕を現実に呼び戻した。——午後になってから長老室に来るようにと言われた。
——母の還儀は終わった。——頭の中は静かだった。まるで空洞のように、何の雑音も雑念も湧かなかった。
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