第6話「依頼の裏側」
午前十一時、曇り空の光が事務所の窓から差し込んでいた。
薄い雲が太陽を覆い、街全体がやわらかく白んでいる。
ソファに座る榊原早苗は、手元の資料に目を落としながら、時折小さく頷いていた。
クロエがテーブル越しに、端末を操作しながら質問を続ける。
「家具の配置ですが、ベッドはどの向きに?」
「窓の横……北側の壁に沿わせて。足元がドアの方になります」
「声が聞こえたのは、そのベッドに寝ているとき?」
「……はい。起きてるときより、寝ようとしているときに多かったです」
「入居当初から?」
「いえ……最初の一週間は、何も。二週目くらいから、ぽつぽつと……」
クロエはメモを取りながら、明らかに反応の“間”が変わるポイントにマークをつけていた。
特に、「最初に声を聞いた日付」に関するやり取りでは、
早苗のまばたきが急に増え、視線が泳ぎ始めた。
「その、“初めて”聞いたときの状況って……覚えてますか?」
「え……」
早苗は一瞬、言葉を失った。
「いえ、覚えてるんですけど……たしか、雨の日で……カーテン閉めて……」
「ほかに何か、変わったことは?」
「変わったこと……」
繰り返すように言葉をなぞる彼女の声は、どこかよそよそしかった。
――それは、事実を隠しているというより、「記憶を抑えている」ような不自然さだった。
クロエは視線を明に送る。
明は、黙って早苗の様子を見ていた。だが、その“見方”は、クロエとは異なる。
彼の注視は、言葉ではなく“呼吸”にあった。質問のたびに微妙に乱れる呼吸。
視線が落ちるたび、わずかに強張る指先。
「……恐れてるのは、“声”じゃないな」
明がぽつりと呟いた。
クロエが振り返る。
「何を、っていうと?」
「思い出すこと。何かを、思い出すのが怖い」
早苗はその言葉に、小さく反応した。眉がわずかに動き、握った指に力がこもる。
クロエは、その様子を見逃さない。
「……では、前の住人については何か聞いてますか?」
「い、いえ……誰が住んでたかまでは。契約のときも、特に説明は……」
「でも、隣室なのに、妙に静かすぎると思わなかった?」
「あの……ごめんなさい。ちょっと、思い出せないことが多くて……」
声のトーンが下がり、視線も落ちていく。
クロエは追い詰めるような調子ではなかった。だが、その観察は鋭い。
「あなた、“知らない”って言ってるときのほうが、視線が定まらないのね」
「え……」
「“知ってることを思い出せない”とき、人はもっと眉間にシワを寄せて考える。
あなたは、それをしない。“探してない”の」
早苗の瞳に、一瞬だけ水の膜が張ったような光が浮かんだ。
「……どういう、意味ですか」
「つまり、あなたの中には、すでに答えがある。でも、それを思い出したくない。
そういう人の構造は、“情報を遮断する”ように動くの」
早苗は、口を開いたまま、言葉を失っていた。
そこへ、明が静かに言葉を重ねる。
「……声は、誰かのものじゃなくて。あなたの中にもあるかもしれない」
その瞬間、早苗の表情が崩れた。
「……こわいんです」
涙が、一滴だけ、頬を伝った。
「でも……何がこわいのか、自分でもわからないんです。
聴いた“声”のほうじゃなくて……それが、何かを思い出させるのが……」
声が震え、喉の奥で言葉が引っかかる。
クロエは視線を外し、そっとペンを置いた。
明は、それ以上は言わなかった。
空気が、重くなった。部屋の温度が一度下がったかのような錯覚に、クロエは深く息を吐いた。
そこで、伊勢谷が静かに現れる。
「……このあたりでいいだろう。これ以上は、現場で答え合わせをしよう」
その声は、どこまでも優しく、どこまでも厳しかった。
早苗は、深く頷いた。
クロエはゆっくりと立ち上がり、資料をまとめる。
「現場に行けば、もう少し“構造”が見えてくるかもしれない」
明は、早苗の震えたままの声を、心のどこかに刻みながら、立ち上がった。
「……そこに、“意味”が残っていれば、俺が聴く」
ふたりはそれぞれ、異なる手段で、“声”の真相に近づこうとしていた。
そして今、その第一歩がようやく踏み出される。
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