第1話「静寂の依頼人」
窓を叩く雨音が、深夜の探偵事務所に静かなリズムを刻んでいた。
街灯の光がぼんやりと歪んで見えるほどの強い降り。午後十一時をまわったばかりの時刻、ふいにドアベルが小さく鳴った。
「……いらっしゃい」
応対に出たのは、所長の伊勢谷岳斗。彼の落ち着いた声が、事務所の静けさに溶ける。
入ってきたのは、若い女性だった。白い傘の縁から雨滴が滑り落ちる。肩までの髪が濡れ、薄手のコートを抱えるようにしている姿がどこか儚い。
「こちらへ」
伊勢谷が手を差し伸べると、彼女は無言で頷き、小さな歩幅でソファへと腰を下ろした。
その様子を、部屋の奥に座っていた二人の探偵が静かに見つめていた。
一人は、眼鏡をかけたスーツ姿の青年・柊 明。冷静沈着な視線を、訪問者へと向けている。
もう一人は、黒髪ショートカットの女性・静馬 クロエ。彼女は表情を変えずに、わずかに頭を傾けた。
伊勢谷は二人に一瞥を送り、軽く顎を引く。それだけで、指示は充分だった。
「……では、お話をうかがいましょうか」
女性は少しの間、濡れたコートの裾を弄んでいた。やがて、か細い声で言った。
「……夜中になると、隣の部屋から……“声”がするんです」
伊勢谷が、視線を落とす。
「どんな声ですか?」
「毎晩……“助けて”とか、“痛い”とか……。同じ声が……何度も……」
彼女の声は小さく、言葉と言葉のあいだに深い“間”があった。感情が削ぎ落とされているのではなく、何かを選んでいるような喋り方。
あるいは、避けようとしているのかもしれない。
「……お名前をうかがっても?」
「榊原……榊原早苗です」
クロエの視線がわずかに鋭くなる。彼女は、早苗の指先やまばたきの間隔、足の向きなど、言葉以外の情報に神経を集中させていた。
――何かを隠してる。
確信まではいかないが、“そうであっても不思議ではない”程度の違和感が、早苗の所作から滲んでいた。
「声がする部屋について、詳しく聞かせてください」
伊勢谷が促すと、早苗は小さく頷き、話を続けた。
「……私の部屋の隣。アパートの二階……201号室です。今は……誰も住んでいないはずなんです」
「その確認は?」
「大家さんからそう聞いています。鍵も、管理のために私が一時的に預かっていて……。でも、毎晩、同じ時間に……誰かの声が……」
明はそこで、初めて口を開いた。
「録音は、できますか?」
唐突な問いかけに、早苗は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……試しました。スマホの録音アプリを起動したまま寝たんですけど……。朝、確認しても、何も……」
クロエが小さく息を吸う。
――録音されない声。
この時点では、それが“異常”かどうかの判断はまだつかない。が、可能性として“普通ではない”事例であることは確かだった。
「つまり、空き部屋であるはずの201号室から、毎晩同じ“助けを求める声”が聞こえる。そしてその声は録音に残らない」
伊勢谷が状況を整理するように呟いた。
「築年数は?」
「三十年ほど……です。古い木造で、雨が強いと音も響きます。でも、あれは……“人の声”なんです」
彼女の手が、握りしめたコートの生地を震わせる。
「……この依頼、受けていただけますか?」
伊勢谷は、一拍の間を置いた。
そして、穏やかに口を開く。
「音声検証と、現地調査を含めて判断します。よろしいですね?」
「……はい」
それを聞いて、伊勢谷は明とクロエに目をやる。
「これは“お前たち向き”の仕事だな」
クロエがやや肩をすくめる。
「また“そういうの”ですか」
言い方は皮肉めいていたが、瞳はすでに好奇心に染まっていた。論理と構造の破綻。それこそが、彼女の探求の対象だった。
明は無言で頷き、そっと机の上のタブレット端末を手に取る。すでに調査機材のリストを開き、必要な準備を頭の中で組み立てていた。
「では、詳細な現地情報と、鍵の所在を……」
伊勢谷の言葉に、早苗はバッグから封筒を取り出した。中には部屋の見取り図と、管理人から預かったという鍵のコピーが入っている。
「ありがとうございます。では、調査の初動は明日から始めましょう」
その瞬間――。
「……聞こえたか?」
明の低い呟きが、空間を震わせた。
クロエが振り返る。
空気のなかに、誰かが「ここにいる」と囁いたような、名残のような、痕のような“何か”が確かに残っていた。
――
調査は、すでに始まっていた。
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