第20話 期末試験と大使の困惑
廊下を歩く。リノリウムの床が靴底を打つ。コツ、コツと規則正しい音が耳に響く。職員室前で足が止まる。視線が掲示板に吸い寄せられる。コルクボードに画鋲で留められた白い紙――期末試験の日程表だ。紙の端がパタパタと風に揺れ、窓から入る風に煽られて、めくれ上がりそうになる。画鋲が今にも抜けそうで、紙が飛んでいきそうな不安定さ。日付を確認する。指でなぞる。来週から五日間。数学、英語、世界史、物理、化学――文字が目に飛び込んでくる。胃の底で何かが重くなる。鉛を飲み込んだみたいな感覚。
「中間試験を受けてない悠斗は、期末で相当頑張らないとマズいよ?」
背後から理沙の声が響く。振り返ると、栗色の髪が肩で揺れている。風に撫でられて、さらさらと音を立てる。眼鏡の奥から、真剣な眼差しがこちらを見つめていた。瞳孔が少し開いて、黒目が大きくなっている。本気の心配が宿っている。眉が寄って、額に小さな皺ができている。
「田中先生も言ってたでしょ。『このままだと補講確定、最悪留年もあり得る』って」
声の奥で何かが震えている。不安が滲んでいる。喉が詰まったような、掠れた響き。
「脅しじゃなくて、本当にヤバいんだから」
「わかってる」
口角を上げようとする。頬の筋肉に力を入れる。でも上手くいかない。引きつったような感覚。ピクピクと頬が痙攣する。胃の奥がきゅっと締まる。ギュッと絞られるような痛み。酸が込み上げてきそうになる。食道を逆流する感覚。喉の奥が焼ける。
「さすがに単位落としたら笑えないしな」
手元のノートをめくる。パラパラと紙が擦れる音。インクの匂いが鼻を掠める。数式が目に飛び込んでくる。x、y、∫、∑、lim、∂――記号が踊っている。文字が揺れて見える。目がチカチカする。焦点が合わない。瞬きを繰り返す。異界での戦いより、こっちの方が手強い。魔王を倒すより、微分積分を解く方が難しい。……いや、確実に手強い。冗談じゃなく。剣を振るより、ペンを握る方が疲れる。
「それなら!」
美月が勢いよく顔を上げる。髪が跳ねる。眼鏡がキラリと光り、レンズが蛍光灯の光を反射する。瞳に決意の光が宿る。キラキラと輝いている。
「惑星開発部で期末試験の勉強会をしようよ!」
パン!手帳を閉じる音が響く。革の表紙同士がぶつかる音。空気を切る鋭い音。
「皆でやれば効率もいいし、悠斗も助かるはず。教え合えば理解も深まる」
「いいね!」
佐藤が飛び跳ねる。両足が床から離れ、スカートがふわっと広がる。髪が宙に浮いて、重力に引かれてまた肩に落ちる。着地の衝撃で、床がドンと鳴る。
「私も英語教えられるよ!発音とか自信あるし!」
「俺も数学ヤバいから助かる」
神崎が頭を掻く。ガシガシと音を立てて、指が頭皮を擦る。髪がぐしゃぐしゃになる。寝癖みたいに毛が立つ。
「みんなで頑張ろう!」
川崎が拳を天に突き上げる。腕がピンと伸びる。肘がロックされる。筋肉が盛り上がる。
「勉強も撮影も全力だ!」
胸の奥で何かが膨らむ。心臓の周りから温かさが広がっていく。血管を通って、全身に熱が巡る。喉の奥が詰まりそうになる。何か込み上げてくる。涙じゃない、もっと熱いもの。感謝の気持ち。仲間への思い。
「ありがとう、みんな。本当に助かるよ」
声が掠れる。声帯が震える。喉が詰まっている。唾を飲み込もうとする。でも喉が動かない。
***
夜。ベッドに横になる。体重でマットレスが沈む。スプリングがギシギシと軋む音。金属同士が擦れる音。天井を見つめる。薄暗い中で、蛍光灯の輪郭がぼんやりと見える。円形の蛍光管。消えた状態でも、微かに残光が見える気がする。ブルルル。スマホが震える。ナイトテーブルの上で振動する。木の表面を滑るように動く。落ちそうになる。慌てて手を伸ばす。画面を見る。ニュース速報の通知。青い光が顔を照らす。
『速報:米下院における対日半導体禁輸案が共和党穏健派の大量棄権により否決される』
文字を見つめる。一文字一文字を追う。画面の光が網膜を刺激する。眩しい。目を細める。手が微かに震えている。安堵?……いや、まだ安心できない。これで終わりとは思えない。向こうはまだ諦めていないはずだ。
すぐに着信。画面が切り替わる。橘からだ。名前が大きく表示される。緑の通話ボタンをタップ。指が画面に触れる。
「悠斗、大使館から急ぎ連絡があった」
スピーカーから橘の声。いつもより低い。困惑の色が濃い。息遣いが荒い。
「米国大統領が君との直接会談を望んでいるらしい」
「無理です」
即答だった。反射的に口から出た。考える間もなく。背筋をピンと伸ばす。背骨が真っ直ぐになる。
「期末試験が迫っていますから」
「……は?」
沈黙。数秒の間。橘が息を呑む音がする。ゴクリと喉が鳴る。
「悠斗、これは国家間の大事な交渉なんだが……世界情勢より重要な――」
「試験の方が大切です」
きっぱりと言い切る。迷いはない。声に力を込める。
「僕は高校生ですから。単位を落としたら進級できません」
橘の息遣いが変わる。呆れたような、でもどこか嬉しそうな吐息。ふっ、と短く息を吐く音。
「……わかった」
声に苦笑が混じる。諦めと理解が入り混じった響き。
「そう伝えておこう。『高校生は勉強が本分』だと」
プツッ。通話が切れる。電子音が短く鳴って、画面が暗くなる。部屋に静寂が戻る。エアコンの駆動音だけが、かすかに聞こえる。ブーンという低い振動音。規則正しいリズム。
「大統領より、微分積分の方が怖いんだよ」
小さく呟く。本心だった。嘘偽りない本音。政治的駆け引きより、数学の証明問題の方が理解できない。
***
翌朝。校門に近づく。いつもと様子が違う。空気が違う。緊張感が漂っている。黒塗りの車が何台も並んでいる。ピカピカに磨き上げられた車体。朝日を反射してギラギラと光っている。眩しくて目を細める。排気ガスの匂いが漂う。ガソリンと排気の混ざった臭い。化学物質の刺激臭。鼻がムズムズする。鼻腔がヒリヒリする。くしゃみが出そうになる。鼻を押さえる。
「なんで学校に金属探知機?」
「アメリカの偉い人が来るらしいよ」
「マジで?なんで?」
「テロ対策?」
生徒たちがざわざわと騒いでいる。不安と好奇心が混じった声。ひそひそ話が飛び交う。視線があちこちに向けられる。会議室への廊下を歩く。いつもより人が多い。黒服の男たちが立っている。サングラスをかけている。イヤホンをつけている。ワイヤーが首の後ろに回っている。SPだ。明らかに場違いな存在感。足音が響く。コツ、コツ、コツ。規則正しいリズム。自分の足音と、SPたちの足音が重なる。重い扉の前で立ち止まる。深呼吸する。鼻から空気を吸い込む。肺を膨らませる。胸郭が広がる。ドアノブを握る。真鍮の冷たさが掌に伝わる。ひんやりとした金属の感触。回す。ギィィと蝶番が鳴る。油が切れているような音。
中に入る。空調の音がブーンと響いている。冷たい空気が顔に当たる。肌がピリッとする。
「初めまして、上月悠斗殿」
大きな男が立ち上がる。椅子が後ろに下がる音。身長190センチはある巨体。ジョナサン・スミス大使。グレーのスーツをきっちりと着込み、ネクタイもきちんと締めている。柔和な笑みを浮かべている。口角が上がっている。歯が見える。白い歯。でも、目は笑っていない。瞳の奥に鋭い光。観察するような視線。値踏みするような目つき。
「私は米国大使のスミスです」
手を差し出される。大きな手。指が太い。関節が目立つ。握手する。掌と掌が触れ合う。ぎゅっと握られる。力が強い。骨が軋むほど。温かい。でも、掌が汗ばんでいる。べたつく不快な感触。湿った熱。
「是非とも大統領との会談をお願いしたい」
身を乗り出してくる。椅子から腰が浮き、デスクに両手をつく。体重が前にかかる。香水の匂いが鼻を突く。甘ったるい花の香り。百合?薔薇?よくわからない。むせそうになる。喉がイガイガする。咳き込みそうになる。我慢する。
「申し訳ありませんが」
一歩下がる。距離を取る。靴がリノリウムを擦る音。穏やかに、でもきっぱりと。
「期末試験の準備があります」
大使の表情が変わる。笑顔が凍りつく。頬の筋肉がピクピクと痙攣する。瞼が小刻みに震える。目が左右に泳ぐ。瞳孔が開いたり閉じたりする。困惑している。理解できないという顔。
「それは……承知しておりますが、国家の未来に関わる重要な――」
「僕の未来も大切なんです」
静かに遮る。手を軽く上げて。声は穏やかだが、意志は固い。揺るがない決意。
「留年したら元も子もありませんから。勉強は学生の本分です」
大使の口が開いたまま止まる。顎が下がったまま。言葉が出ない。喉が詰まったみたいに。空気を飲み込む音がする。隣の通訳が慌てて耳打ちする。大使の耳元に顔を近づけて、ヒソヒソと小声で。早口の英語。単語が聞き取れない速さ。
「それなら」
大使が再び口を開く。額に汗の粒が浮いている。玉になって光っている。生え際から流れそう。緊張している。声が上擦っている。
「オンライン会談という形でも……」
「申し訳ありませんが、模試も控えておりまして」
手帳を取り出す。胸ポケットから。革の表紙。使い込まれて角が丸くなっている。パラパラとページをめくる。紙が擦れる音。サラサラと心地いい音。びっしりと予定が書き込まれている。赤ペン、青ペン、黒ペン。カラフルな文字が並んでいる。マーカーで強調された部分も。
「進路にも関わりますので。全国模試は重要なんです」
「模試……ですか」
大使の声が掠れる。喉が詰まったような音。かすかに震えている。信じられないという表情。眉が上がって、額に深い皺ができる。
「はい。東大も視野に入れてますから」
嘘じゃない。一応、選択肢の一つだ。可能性は低いけど。ゼロじゃない。椅子から立ち上がる。椅子の足が床を擦る。キィッと音がする。会議室を出る。ドアノブを掴んで、引く。重い扉がゆっくりと動く。振り返らずに出る。ドアを閉める。バタンと重い音。木と金属がぶつかる音。廊下を歩きながら、大使の呟きが聞こえる。ドア越しに、くぐもった声。低い、疲れた声。
「ワシントンに何と報告すればいいんだ……『彼は模試があるので会談を断った』なんて、誰が信じる?バカにされる。笑い者になる」
その先は声にならなかった。深いため息だけが聞こえる。ふぅぅぅ、と長く、重い吐息。
***
放課後の部室。熱気がムンムンしている。人の体温と熱意で、室温が上がっている。むせ返るような熱気。窓を開けても、風が入ってこない。空気が淀んでいる。机が教科書とノートで埋まっている。紙の山があちこちに。白い紙、罫線の入った紙、方眼紙。鉛筆の削りカスが散らばっている。黒い粉みたいに。消しゴムのカスも。白い粒があちこちに。
「悠斗、この問題、解き方教えて!」
理沙が数学の問題集を突きつける。ドンと音を立てて机に置く。振動で鉛筆が転がる。ページが開かれている。複雑な数式が並んでいる。
「えーっと、これは……」
説明を始める。式を書きながら。シャープペンシルの芯がカリカリと紙を擦る。口が渇く。喉がカラカラになる。舌が上顎に張り付く。唾を飲み込む。ごくりと音がする。
「まず因数分解して、それから――」
「こっちの歴史問題もお願い!」
川崎も割り込んでくる。横から身を乗り出す。肩がぶつかる。体温が伝わってくる。
「フランス革命の影響って――」
「一つずつ!」
声が重なる。みんな必死だ。目が血走っている。髪が乱れている。シャツがよれている。リムが暗記カードを手に取る。小さな前足で器用に挟んで、大事そうに持っている。カードが震えている。
(これ……なに?)
念話が頭に響く。純粋な好奇心。子供みたいな無邪気さ。
「英単語カードだよ」
理沙が優しく説明する。膝をついて、リムと目線を合わせる。床に座り込む。
「リムも一緒に勉強しよう」
リムが最初のカードを見つめる。じーっと集中している。瞳孔が開く。体が微かに青白く光る。魔力を使っているのか。集中の証か。
「アップル……それは……リンゴ!」
パチパチパチ!拍手が響く。手のひら同士がぶつかる音。みんなが笑顔になる。頬が緩む。目尻に皺ができる。
「すごい!」
「リムちゃん天才!」
「一発正解!」
次のカード。リムが真剣に見つめる。眉間に皺を寄せて。……いや、眉間はあるのか?
「ドッグ……大きい……ネコ!」
プッ!神崎が吹き出す。唾が飛ぶ。慌てて口を押さえる。連鎖反応で笑い声が弾ける。お腹を抱えて笑う。腹筋が痙攣する。涙が出てくる。目尻から流れる。お腹が痛い。筋肉が攣りそう。
「リム、それは犬だよ。『ワンワン』って鳴くやつ」
佐藤が身振り手振りで説明する。四つん這いになって、犬の真似をする。床に手をつく。
「ワンワン!」
(ワンワン!)
リムが嬉しそうに真似をする。尻尾を振りながら。左右にブンブンと。可愛い。また笑いが起こる。部屋中に響く。
「フィッシュ……およぐ……サカナ!」
「正解!」
また拍手。パチパチと音が響く。リムが誇らしげに胸?を張る。背筋を伸ばす。小さな体を精一杯大きく見せる。
「バード……とぶ……コウモリ!」
「惜しい!」
神崎が笑う。豪快に、大きな声で。窓ガラスが震えそうなくらい。
「鳥だよ、リム。『チュンチュン』って鳴くやつ」
(チュンチュン!)
また真似をする。今度は小鳥のように。高い声で。みんなの顔がほころぶ。疲れた顔に笑顔が戻る。血色が良くなる。部室が温かい空気に包まれる。優しい空気。疲れが和らぐ。
「リムのおかげで息抜きになるよ」
本心だった。肩の力が抜ける。緊張の糸が緩む。筋肉がほぐれる。
「ありがとうな、リム」
頭を撫でる。柔らかい毛並み。ふわふわしている。気持ちいい。みんなが勉強に戻る。ペンを走らせる音が響く。カリカリ、サラサラ。紙が擦れる音。シャープペンシルの芯が折れる音。消しゴムで消す音。俺も数式と向き合う。∫、∑、lim。記号と格闘する。意味を理解しようとする。でも、集中できない。右手がムズムズと疼く。皮膚の下で何かが蠢いている。血管に沿って、青い光が走りそうになる。魔素の影響か。それとも、勇者の呪いか。300年の寿命。この先、何度期末試験を受けるんだろう。何回留年の危機に陥るんだろう。何十回、何百回……いや、今は考えるな。目の前の問題に集中しろ。微分。積分。異世界の魔法より難しい。複雑な術式より、数式の方が理解できない。でも、みんながいる。支えてくれる仲間がいる。それだけで、頑張れる気がした。不思議と力が湧いてくる。
***
試験前日の夜。部室に集まったメンバー。みんな目の下にクマができている。濃い隈。紫色に変色している。顔が疲れている。頬がこけている。頬骨が浮き出ている。目が充血している。
「最後の追い込みだ」
田中先輩が気合を入れる。パンと手を叩く。乾いた音が響く。空気を切る音。
「悠斗君、数学の公式は?」
「完璧です」
嘘だ。7割くらい。あやふやな部分もある。思い出せない公式もある。
「世界史の年号は?」
「バッチリです」
これも嘘。6割がいいところ。フランス革命の年号すら怪しい。1789年だっけ?1879年だっけ?
「大丈夫?」
理沙が心配そうに覗き込む。顔が近い。息がかかるくらい。吐息が頬に当たる。温かい。シャンプーの香りがする。
「顔色悪いよ」
額に手を当てられる。ひんやりと冷たい手。気持ちいい。熱を奪われる感覚。体温を測られている。掌が額に密着する。
「熱はないみたい。でも無理は禁物」
「だから大丈夫だって」
美月が参考書を閉じる。パタンと音がする。分厚い本が閉じる音。
「これ以上は逆効果です。脳が疲労してます。糖分が足りません。早く寝て、明日に備えましょう」
「そうだな」
神崎も伸びをする。両腕を上に伸ばす。背骨が伸びる。骨がポキポキと鳴る。関節が鳴る。気持ちよさそうな顔。
「やれるだけのことはやった。あとは運を天に任せる」
帰り道。理沙と並んで歩く。夜道を二人で。街灯が二人の影を長く伸ばしている。影が重なったり離れたり。歩調に合わせて。足音が響く。コツ、コツ。静かな住宅街。虫の音が聞こえる。コオロギかな。
「悠斗」
「ん?」
「無理しないでね」
小さな声。でも、しっかりと届く。耳に、心に染み込む。温かい声。
「ありがとう」
空を見上げる。星が瞬いている。キラキラと光っている。都会でも、いくつか見える。オリオン座が見える。明日は、戦いだ。異世界の魔王より手強い、期末試験という名の戦い。剣も魔法も使えない、純粋な知識の勝負。ペンと消しゴムだけが武器。
***
試験当日。朝早く目が覚める。緊張で。心臓がドクドク鳴っている。教室のドアを開ける。金属のドアノブが冷たい。ひんやりとする。空気が重い。ピリピリと張り詰めている。静電気みたいに。みんな緊張している。顔が強張っている。表情が固い。席に着く。椅子が冷たい。プラスチックの座面がひんやりしている。お尻が冷える。深呼吸する。鼻から吸って、口から吐く。スーッ、ハーッ。肺を膨らませて、縮める。手が震える。止めようとする。意識すればするほど震える。逆効果。試験用紙が配られる。紙の音がする。サッ、サッ。先生が一枚ずつ配っていく。机の上に置かれる。問題を見る。目を凝らす。文字を追う。一文字ずつ。見覚えがある。デジャヴ?いや違う。これは――美月が教えてくれた応用問題だ。川崎が熱く語った歴史の流れ。理沙がまとめてくれた公式集。全部、勉強会でやった内容。記憶が蘇る。ペンを握る。ギュッと力を込める。震えが止まる。不思議と落ち着く。心臓の鼓動が落ち着く。みんなの顔が浮かぶ。励ましてくれた笑顔が浮かぶ。教えてくれた時の真剣な表情。よし、やってやる。ペンを走らせる。
***
結果発表の日。掲示板の前に人だかり。黒山の人だかり。足が止まる。前に進めない。躊躇する。心臓がドクドク鳴る。早鐘を打つ。肋骨を内側から叩くみたいに。人をかき分けて前に出る。「すみません」と言いながら。肩と肩がぶつかる。紙を見る。名前を探す。上から順に。目が泳ぐ。あった。上月悠斗。数学92点、世界史88点、英語100点。
「やった……」
声が震える。安堵で膝から力が抜けそうになる。ガクッと膝が曲がる。壁に手をつく。ざらざらとした感触。英語は翻訳魔法のおかげで楽勝だった。ズルいけど、使えるものは使う。生き残るために。
「上月!」
振り返る。田中教諭が駆け寄ってくる。白衣がバサバサとはためく。風を切って走ってくる。息を切らしている。
「留年回避おめでとう」
肩を叩かれる。バンッ!力強い。痛い。骨に響く。でも嬉しい痛み。愛情のこもった痛み。
「正直、間に合うか心配だったぞ。ギリギリだったな」
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。90度の礼。腰を曲げる。背中が丸くなる。
「なんとか、みんなのおかげで」
廊下に飛び出す。勢いよくドアを開ける。理沙が待っていた。壁にもたれて、そわそわしている。足を小刻みに動かしている。貧乏ゆすりみたいに。
「悠斗、どうだった?」
息を切らしている。ハァ、ハァと肩で息をしている。走ってきたのか。頬が上気して赤い。薔薇色に染まっている。髪が乱れている。
「なんとか乗り切ったよ」
肩の力が抜ける。全身から力が抜ける。緊張の糸が切れる。ふぅ、と長い息を吐く。肺の中の空気を全部出す。膝が笑いそうだ。ガクガクする。震えが止まらない。
「よかった!」
理沙の顔がぱっと明るくなる。花が咲いたみたいに、表情が輝く。太陽みたいに眩しい笑顔。
「本当によかった!」
部室のドアを開ける。ガチャ。ドアノブを回す音。パチパチパチ!拍手で迎えられる。みんなが笑顔で待っていた。歯を見せて笑っている。
「おめでとう!」
「さすが悠斗!」
「やったな!」
「ギリギリセーフ!」
リムが跳ねる。ピョンピョンと床を蹴る。四本の足でジャンプ。
(ゆうと、すごい!ワンワン!)
なぜか犬の鳴き声を覚えたらしい。お気に入りになったようだ。気に入ったものは繰り返す。
「ありがとう、リム」
頭を撫でる。ぷにぷにして気持ちいい。柔らかい。弾力がある。
「これでまた安心してアルカディアの開拓に専念できるね」
田中先輩が微笑む。安堵の表情。目尻に優しい皺。
「でも、また次の試験があるんですよね」
美月が手帳を開く。パラパラとページをめくる。カレンダーを確認。
「期末の後は実力テスト。その後は模試」
「そうなんだよな……」
みんなで顔を見合わせる。目が合う。一瞬の沈黙。そして――プッ。川崎が吹き出す。我慢できなくなって。口を押さえるけど、笑いが漏れる。連鎖反応。みんなが笑い出す。お腹を抱えて。腹筋が痛くなるまで。
「世界を救う勇者も、試験からは逃げられないね」
理沙の言葉に、また笑いが起こる。部室が笑い声で満たされる。温かな笑い声が、夕暮れの部室に響く。窓から差し込む夕日。オレンジ色の光が、みんなの顔を照らしている。金色に輝いて見える。平和な日常。当たり前の学校生活。これを守るために、俺は戦っているんだ。仲間と一緒に。そう思うと、期末試験も悪くない。むしろ愛おしい。……たぶん、きっと。
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