ガチャ運ゼロ帰還勇者、外れ召喚品は【未開惑星】でした

かねぴー

第1部

プロローグ1 そして世界は「待機」した

「俺は十年間、異世界で魔王と戦った。そして今、最後の一撃を――」

「ユウト!右だ!」

 耳に声が突き刺さる。剣聖の声だ。首を捻ろうとして──頚椎の関節がまだ動いていない。筋肉に命令が伝わるまでの、ほんの一瞬の遅れ。やっと動き始める。ミシッ。骨が鳴った。筋が引っ張られて、じんわりと熱を持つ。首筋から肩にかけて、焼けるような痛みが走る。視界の端で何かが光った。黒い刃だ。風を切る音が遅れて聞こえる。ヒュンという。頬に何かが触れた──熱い。皮膚がじりじりと焼ける感覚。何かが顎を伝い始める。生温い。口の端に到達するまで、三秒もかからなかった。舌先が勝手に動いて、その液体に触れる。鉄の味が口腔に広がった。しょっぱくて、生臭い。血だ。

「ちっ、キリがねぇな」

 俺、上月悠斗は異世界の城壁の上で毒づいた。足元で石が震えている。細かい振動が靴底を通して伝わってくる。魔物の攻撃で、表面にひび割れが走っているのが見える。石片がぱらぱらと剥がれて、風に飛ばされていく。砂埃が舞い上がって、鼻腔に入り込む。むせそうになるのを堪える。

「おい大賢者!まだかよ!」

「もう少しよ!陣の起動まであと──」

 大賢者の声が途切れた。何か起きた。背筋に冷たいものが這い上がってくる。ぞくっとする感覚の後で、首筋から一筋の汗が垂れた。シャツの襟に染み込んで、布地が肌に張り付く。べたついて、気持ち悪い。

「あと何分だ!?」

「三分!」

 言いかけて、息を呑む音が聞こえた。空気が喉に詰まったような音。ごくっという嚥下の音が妙に大きく響く。

「……たぶん!」

 心臓がドクンと大きく跳ねた。一回。続けてドクドクン。リズムが狂っている。血管の中を血液が暴れるように流れていく感覚。こめかみの血管がずきずきと脈打ち始める。頭蓋骨の内側から押し広げられるような圧迫感。

「たぶんって何だよ!」

「だって計算が狂って──いや、四分かも!五分かもしれない!」

 奥歯を噛みしめる。ぎりぎりと音が頭蓋骨の中で響いた。顎の筋肉が痙攣しそうなほど力が入っている。エラの部分がピクピクと勝手に動く。

「おいおい、増えてんじゃねぇか!」

「だから謝ってるでしょ!」

「謝ってねぇだろ!」

 手の甲に視線を落とす。古傷がある。盛り上がった白い線を、指でなぞってみる。ざらついた感触が指先に伝わる。えぐれた跡の凹凸が、一つ一つ指腹に引っかかる。高校2年生でこの異世界に召喚されて、もう10年。この傷も、最初の年につけられたものだ。あの時は死ぬかと思った。内臓が飛び出しそうなほど深く抉られて、聖女の治癒魔法がなければ確実に死んでいた。……いや、今も死にそうだけど。

「10年も戦って、最後がこれかよ」

「文句は後で聞くわ!今は──」

 爆発音が大賢者の声を掻き消した。鼓膜がびりびりと震える。音の振動が頭蓋骨を揺らして、脳まで響く。

「やべぇ、足がもたねぇ」

「弱音吐くな!」

「吐いてねぇ!事実を言ってんだ!」

 額から汗が流れてきた。

「こんな時だけど聞いていい?」

「何よ、今?」

 聖女の声が苛立っている。杖で魔物を殴りながらの返事だから、当然だ。ゴツンという鈍い音が響くたびに、彼女の息が荒くなっていくのが聞こえる。

「もし一つだけ願いが叶うなら、何を選ぶ?」

「は?今それ聞く!?」

 剣聖が敵を斬り伏せた。刃が肉に食い込む瞬間の、ずぶりという湿った音。返り血が飛んできて、顔にかかった。生温い液体が頬を濡らす。べたつく感触と一緒に、鉄の匂いが鼻腔を満たした。胃がむかむかしてくる。吐き気を堪えながら、唾を飲み込む。

「金?力?それとも──」

「あのねぇ!哲学してる場合じゃ──」

「いいから答えろよ!」

「私なら平和な世界!」

 聖女が即答した。杖を振るうと、光が迸る。眩しくて目を細める。網膜に残像が焼き付いて、瞬きをしても消えない。紫色の光の斑点が視界を漂う。

「俺は最強の剣!」

 剣聖も叫ぶ。剣を振り下ろす瞬間、風を切る音が響いた。ビュッという音と同時に、風圧で髪が乱れる。

「知識の泉!」

 大賢者の声も届いた。詠唱しながらの答え。舌が回っていない。噛みそうになりながらも、必死に呪文を紡いでいる。

「……お前らマジメかよ」

「「「ユウト!今よ、飛び降りなさい!!」」」

 三人の声が重なって、鼓膜が激しく振動した。音が頭の中で反響して、骨伝導みたいに頭蓋骨全体が響く。歯がカチカチと鳴った。奥歯が噛み合うたびに、ギリギリと嫌な音がする。城壁の縁に立つ。つま先が石の端にかかる。下を覗き込んだ瞬間、胃が浮いた。内臓が口まで上がってきそうな感覚で、足がすくむ。股関節が固まったみたいに動かない。膝の裏側の筋肉がぴくぴくと勝手に震え始める。太ももの内側まで震えが伝染していく。

「ちょっと待て、これマジで死ぬだろ」

「死なないから飛べ!」

「根拠は!?」

「ない!でも信じて!」

 ……いや、かなり躊躇した。死ぬかもしれない。いや、きっと死ぬ。でも、死なないかもしれない。深呼吸をする。冷たい空気が鼻から入って、気管を通る瞬間に痛みが走った。

「くそったれ!」

 城壁を蹴った。石の感触が足裏に最後に残る。ザラザラとした表面の凹凸が、靴底越しにも分かる。次の瞬間、体が宙に投げ出された。無重力。地面が迫ってくる──速すぎて時間の感覚が狂う。

 着地の瞬間、石畳から衝撃が駆け上がってきた。足裏から膝へ、腰へ、背骨へと順番に衝撃が伝わっていく。膝の関節がミシッと嫌な音を立てた。骨じゃない、靭帯だ。ビリビリと電気が走ったような痛み。体が前のめりになって、肩から地面に激突した。骨が軋んで、ゴリッという音がする。鎖骨が折れたかもしれない。肘も擦りむいた。皮膚がじりじりと熱を持って、血が滲んでくる。ジーンズの膝の部分が破れて、そこからも血が滲んでいるのが見える。

「痛ってぇ!」

「泣き言は後!立て!」

 聖女の声に急かされて、手を地面につく。石が冷たい。手のひらに小石が食い込んで、チクチクと痛む。立ち上がろうとするけど、膝が震えて言うことを聞かない。太ももの筋肉が完全に固まっている。それでも立つ。立たないと死ぬから。腕に力を込めて、ゆっくりと上体を起こす。背骨が一つずつ、ミシミシと音を立てながら伸びていく。

「うぉー!剣技『天煌覇断』!」

「ダサい技名!」

「うるせぇ!お前のセンスよりマシだ!」

 声が裏返った。頬が熱くなって、血が上っているのが分かる。耳まで熱い。恥ずかしさで顔が燃えそうだ。首筋まで赤くなっているのが自分でも分かる。

「せめて『神速の一閃』とか──」

「それもダサいわ!」

 大賢者まで突っ込んできた。眼鏡がずれているのか、いつもと声の響き方が違う。

「お前ら後で覚えてろよ!」

 魔物の群れに斬り込む。剣を振るう瞬間、柄を握る手のひらから振動が伝わってくる。刃が肉を裂く感触。ぬめりとした抵抗感が腕を通して肩まで伝わる。血の匂いがまた濃くなった。鼻の奥にへばりつくような、重い鉄の匂い。

***

 地面が大きく揺れた。巨大だ。想像していたよりもずっと。

 魔王ベルゼビュートが、ついに本体を現した。黒い霧に包まれていた巨体が露わになる。身長は俺の二倍はある。三メートル以上?いや、もっとか。全身を覆う黒い鱗が陽光を吸い込んで、光すら逃がさない。六本の腕それぞれが、俺の体より太い。赤く燃える六つの瞳が、こちらを値踏みするように見下ろしている。

「でけぇ」

「弱音吐かない!」

「吐いてねぇよ!」

 ……いや、ちょっと吐いたかも。心の中で。

 魔王が右上の腕を振り上げた。爪が陽光を反射して、鏡のように光る。振り下ろされる瞬間、空気が裂ける音がした。ビリビリと大気が震える。

 剣を振り上げる。筋肉に力を込めた瞬間、二の腕がピキッと音を立てた。乳酸が溜まりすぎている。刃と魔王の爪が激突した瞬間、火花が散った。眩しくて目を細める。熱い火の粉が頬に降りかかる。チリチリと皮膚が焼ける。衝撃が腕を駆け上がって、肩の関節が悲鳴を上げる。筋がぴきっと音を立てた。肩甲骨がずれたような感覚。神経が引っ張られて、指先まで痺れが走る。

「やべ、筋違えたかも」

「かもじゃない!集中!」

 魔王の別の腕が横から迫る。巨大な拳が、まるで山が動くような速度で──いや、速い!見た目に反して恐ろしく速い!

「ユウト、避けて!」

 聖女の声と同時に、結界が展開される。光の壁が拳を受け止めた瞬間、ガラスが割れるような音がした。結界にひびが入る。

「ぐっ!」

 聖女の苦痛の声が聞こえて、胸がきりきりと痛んだ。心臓をぎゅっと掴まれたような感覚。肋骨の内側から圧迫される。息が詰まる。

「大丈夫か!?」

「平気よ!前を見て!」

 大賢者の詠唱が響き始める。空気が急激に冷える。吐く息が白くなった。パキパキという音が耳に突き刺さった。氷が生成される音だ。空気中の水分が一瞬で凍りついていく。鼓膜がきんきんと鳴る。

「絶対零度の槍!」

 巨大な氷の槍が魔王に突き刺さる。しかし、黒い鱗に当たった瞬間、粉々に砕け散った。氷の破片が宝石のように舞い散る。

「効かない!?」

「もう少しよ、ユウト!」

 時間の感覚が完全に狂っている。1時間戦ったのか、2時間なのか。もっと長かったかもしれない。十年間の集大成がこの瞬間に詰まっている。最初の年、泣きながら剣を振った日々。二年目、ようやく初級魔法を覚えた時の喜び。五年目、仲間と笑い合えるようになった夜。そして今──

「これで──これで、終わりだ!」

 全身の魔力を剣に込める。刃が白く輝き始める。聖属性の力が爆発的に高まっていく。剣聖、大賢者、聖女の援護魔法が重なる。三人の力が俺の剣に宿る。

 刃が夕陽を反射した。いや、違う。剣自体が光を放っている。太陽のように眩しい光。

「くらえええええ!」

 渾身の力で剣を振り下ろす。刃が魔王の体に触れた。硬い。鱗だ。ギリギリと音を立てながら、少しずつ食い込んでいく。抵抗を感じる。押し込む。腕の筋肉が震える。さらに深く。

 ズブリ。

 急に抵抗が消えた。刃が肉を貫いた。黒い血が噴き出してきて、顔にかかる。熱い。火傷しそうなほど熱い血だ。

 魔王が吠えた。大気が震える咆哮。鼓膜が破れそうなほどの音量。でも、その声に苦痛が混じっている。

 膝が折れた。巨大な体がゆっくりと崩れ落ちていく。ズシンという振動が地面を伝わってくる。足元から全身に振動が駆け上がる。立っていられない。膝ががくんと落ちて、両手を地面についた。石の冷たさが手のひらに染み込んでくる。腕が震えて、体を支えられない。肘が曲がって、額が地面に触れそうになる。

「やった、のか?」

 喉がからからに乾いている。声が掠れて、砂を飲んだみたいだ。舌が上顎に張り付いて、剥がすのも苦労する。

「やったよ、ユウト!」

 剣聖の声が遠く聞こえる。水の中から聞こえるみたいに、くぐもっている。

「お疲れ様」

 大賢者の声も、どこか遠い。

「よく頑張ったわ」

 聖女の声も霞んでいく。耳鳴りがキーンと響き始めた。視界が白く染まり始める。最初は視界の端から。じわじわと中心に向かって白が侵食してくる。

***

『よくぞ魔王を討った、勇者よ』

 女神アレスティアの声が頭に直接響いてくる。瞼が重い。鉛を載せられたみたいで、開けようとしても筋肉が動かない。眼球を動かそうとすると、ズキズキと痛む。首も動かない。全身が地面に溶けていきそうな感覚。重力が10倍になったような重さだ。背骨が地面にめり込んでいくような錯覚。

『汝の望みを言うがよい。富か、力か、不老不死か──』

「ちょっと待て」

 膝をついたまま呟く。唇がぱさぱさに乾いて、ひび割れている。皮が剥けて、血が滲んでいるのが分かる。舌で舐めようとするけど、舌も乾いている。上顎に張り付いて、剥がすのに努力がいる。ペリッという音がしそうなほど張り付いている。

「一つって、キツくない?」

『何?』

「選択肢を、三つくれ」

 空気が止まった。風の音も消えた。心臓の音だけが聞こえる。ドクン、ドクン。血管を血が流れる音がざわざわと耳の奥で響いている。鼓動のたびに、こめかみがズキズキと痛む。女神も予想外だったらしい。沈黙が続く。十秒、二十秒。もっと長いかもしれない。

『選択肢を三つ、だと?』

「ああ。一つじゃ選べない」

 言葉が勝手に出てくる。脳が正常に働いていない。口が勝手に動いている。舌が回らないのに、言葉だけは出てくる。

 俺は…十年戦った。平穏が欲しい。でも仲間も捨てたくない。

「ガチャと同じだ。三つの選択肢から、一つを選ばせてくれ」

「ユウト、あんた何言ってんの」

 剣聖が呆れた声を出す。でも、どこか笑っている気がする。声に温度がある。

「できれば、SSR確定で」

「まだ言ってる!」

「いや、真面目な話だって!選択肢が一つだと後悔するだろ?」

「後悔も何も、普通は一つでありがたいでしょ!」

「でも三つあったら、もっと真剣に選ぶじゃん」

『面白い』

 女神の声に笑いが混じった。空気が震えた。暖かい風が頬を撫でる。

『では、三つの選択を与えよう』

 光が三つに分かれた。眩しくて、瞼の裏が真っ赤に染まる。網膜が焼けそうな光量だ。涙が勝手に出てきて、熱い涙が頬を伝っていく。鼻水も出てきた。みっともない。袖で拭こうとするけど、腕が上がらない。

『一つ、無限の富』

『一つ、絶対の力』

『一つ、■■■■■』

 三つ目が聞き取れなかった。耳鳴りがキーンという音を立てている。いや、違う。音じゃない。直接脳に響いているのに、理解できない。頭がぐらぐらと揺れて、視界が歪む。吐きそうだ。胃液が込み上げてくる。酸っぱいものが喉まで上がってきて、必死に飲み込む。

「三つ目は、何だ?」

『それは──』

 意識が遠のき始める。視界が暗くなっていく。体の感覚が消えていく。指先から、足先から、じわじわと感覚が失われていく。選んだのか、選んでないのか。もう分からない。……たぶん、選んだ。何を選んだかは覚えていない。

 最後の一瞬、三人の声が重なって聞こえた。

「「「ユウト、愛している。異世界でもきっと探し出すから」」」

 ……幻聴かもしれない。でも、温かかった。

 光がすべて消えた。音も匂いも失われ、ただ深い闇が広がる。

 仲間たちの祈りは、闇の中で微かな残響となり──やがて、世界全体の祈りと交わっていく。

 勇者を迎える準備をせよと告げるかのように。

 そして次の瞬間、世界は俺を待ち受ける。

***

 ニューヨーク、国連本部最上階。サイレントルーム。空気が鉛のように重い。呼吸するたびに肺が圧迫される感覚がある。肋骨が内側から押しつぶされそうだ。ロナルド・J・トランプトン米大統領が腕時計を見る。文字盤を見つめながら、秒針が動くのを待つ。カチッ、カチッ。機械音が異様に大きく聞こえる。12に近づいていく。11時59分50秒、51秒、52秒。心臓が早鐘のように打ち始める。秒針が12を指した瞬間、カチッという小さな音が、雷鳴のように響いて聞こえた。

「時刻だな」

 声が震えている。喉の奥で声帯が震えているのが自分でも分かる。アダムズアップルが上下している。早乙女誠司日本国総理がタブレットを伏せる。画面を下にして机に置いた瞬間、パタンという音がした。プラスチックと木の接触音。画面に汗の跡が残っている。べっとりと。指紋もくっきりと残っている。

「本当に来るんですかね、大統領」

 眼鏡を外して、フレームを持つ手が震える。小刻みに震えて、カタカタと音がする。レンズを拭こうとハンカチを取り出すけど、手が震えてうまく拭けない。ハンカチを落としそうになる。

「……もしかしたら、来ないかも」

 トランプトンが胸を張る。スーツの前を正して、長い赤ネクタイが揺れる。でも結び目が緩い。いつもよりずっと緩んでいる。ネクタイピンも曲がっている。

「来るさ。でかい商談の匂いがするな」

「商談、ですか」

「Believe me、これはHugeなディールになる」

 喉の奥が渇く。唾を飲もうとするけど、ない。舌が上顎に張り付いている。ペットボトルの水に手を伸ばすけど、震えて取れない。オーウェン・フィッツロイ英国首相がチェスのナイト駒を転がす。黒い駒を指先でくるくると回す。象牙の感触が指先に冷たい。

「正直なところ、恐ろしいですね」

 万年筆を置く。カチャリという音。インクが少し漏れて、紙に染みを作る。

「恐ろしい?」

「ええ。17歳の少年が、10年間も」

 喉に何かが詰まる。咳払い。ゴホン。痰が絡んだような音。

「10年ですよ。10年」

 早乙女がテーブルの隅に置いた写真立てに手を伸ばしかけて、止める。孫の写真だ。悠斗と同じ、17歳の高校生。制服姿で笑っている。

「私には孫がいます」

 誰も返事をしない。続ける。

「同じ年頃です。彼と」

 写真立ての縁を指でなぞる。埃一つついていない。毎日磨いているから。

「もし、私の孫が十年間も……想像したくない」

 トランプトンが咳払いをする。

「総理、感傷は──」

「分かっています。国益が最優先だと」

 早乙女が写真立てから手を離す。でも、視線はまだそこに残っている。

「でも、考えてしまうんです。我々は17歳の少年に、何を背負わせたのか」

 フィッツロイがナイト駒を握りしめる。

「彼は……選ばれたのでしょう?」

「選ばれた、というより」

 早乙女が言葉を濁す。召喚された、と言いかけて止める。本人の意思ではなかった。それが真実だ。

 空調の音だけが響く。低く、単調に。ブーンという機械音。換気扇の振動が床を伝わってくる。

「いや、もう少年じゃない」

 早乙女が呟く。額の汗を拭く。ハンカチがもう濡れている。

「27歳の精神を持った……何と言えばいいのか」

「化物?」

 フィッツロイが小さく言って、すぐに首を振る。

「いや、違う」

 トランプトンが断言する。拳を軽く机に置く。ドンという音。

「英雄だ」

 一拍置く。息を吸う音が聞こえる。

「……たぶん」

 沈黙。三人とも息を詰めている。胸が苦しい。肺が縮んでいくような感覚。そして──天井に虹色の光球が浮かんだ。突然すぎて、三人とも飛び上がりそうになった。椅子が軋んで、ギシッという音がする。キャスターが床を擦る音。心臓が口から飛び出しそうなほど、ドクンと大きく跳ねる。

『目を開けよ、選ばれし統治者たち』

 頭に直接響く声。骨伝導のように頭蓋骨全体が振動する。歯が勝手にカチカチと鳴る。

『三月の後、人の子は魔王を討ち』

『汝らの地へ帰還する』

「三月」

 誰かが呟く。誰だ?自分か?分からない。口が勝手に動いている。

『その迎えは祝福か、争奪か』

『選択の果てに幸運の一割を賭けよ』

 声が消えた。光球も消えた。静寂が戻るけど、空気は重いまま。むしろさっきより重い。

「幸運の一割、か」

「ギャンブルってことか」

 トランプトンが応じる。指で机を叩く。トントンという音。リズムが不規則だ。

「どうします?」

 早乙女が聞く。眼鏡を拭いている。さっきから同じところを何度も。レンズが曇っている。息がかかっているのに気づいていない。

「わからない」

 トランプトンが正直に答えて、立ち上がる。椅子が軋んで、ギシッと大きな音がする。革張りの椅子が体重で沈んでいたのが、ゆっくりと元に戻る。

「でも──全部賭ける。それがアメリカ流だ」

 早乙女が再び写真立てに手を触れる。今度は躊躇わずに。

「橘なら、きっとこう言うでしょう」

 深呼吸。

「『感傷は不要だ。国益を最優先に考えろ』と」

 写真の娘が笑っている。17歳の無垢な笑顔。

「でも、私は……少年の無事を祈りたい」

 フィッツロイがナイト駒を盤上に置く。カタンという音。

「祈りと実利。両方を求めるのは、欲張りですかね」

「人間らしくていいじゃないか」

 トランプトンが珍しく優しい声で言った。

***

 同じころ――世界各地の聖地で、前代未聞の現象が起きていた。ローマ法王庁の礼拝堂では、朝の祈りを捧げていた枢機卿たちの前に、虹色の光球がふわりと現れた。ステンドグラスから差し込む朝日とは明らかに違う、不思議な輝きだった。

「これは……」

 最高齢の枢機卿が息を呑む。光球は静かに脈動しながら、声とも思念ともつかない言葉を響かせた。

『――勇者の望みを叶えし者に、新時代の鍵を与えん』

 その瞬間、光球は音もなく弾けて、無数の光の粒子となって天井へと舞い上がっていく。まるで天使の羽根が舞い散るような、幻想的な光景だった。

「神の御声でしょうか」

 若い司祭が震え声で呟いた。

「……分からん」

 枢機卿は正直に答えた。

「だが、無視できる現象ではないな」

 メッカの大モスクでも、同じ現象が起きていた。礼拝の時間、突如として現れた虹の光球に、巡礼者たちがざわめく。

『――勇者の望みを叶えし者に、新時代の鍵を与えん』

 イスラム学者たちは顔を見合わせた。コーランにこのような記述はない。だが、明らかに超常的な何かが起きている。

「アッラーの新たな啓示か」

「いや、待て。慎重に検証すべきだ」

 年老いた学者が手にしたコーランを開き、関連する文言を探し始める。その表情は真剣そのものだった。

 インドのヴァラナシ、ガンジス川のほとりでも――。瞑想中の聖者の前に現れた光球は、同じメッセージを残して消えた。聖者は静かに合掌しながら、古い予言書の一節を思い出していた。

「時が満ちた時、天より使者が……いや、これとは少し違うか」

 彼の弟子たちが心配そうに師を見つめる中、聖者は穏やかに微笑んだ。

「恐れることはない。だが、注意深く見守る必要がありそうだな」

***

 世界中の宗教指導者たちは、それぞれの聖地で同じ疑問を抱いていた。これは神からの試練なのか。それとも、何者かが仕掛けた巧妙な罠なのか。確かなことは一つ――「勇者」という言葉が、妙に現代離れしていることだった。まるでファンタジー小説から飛び出してきたような、不思議な響きを持つその言葉に、誰もが違和感を覚えていた。

「勇者、か……」

 バチカンの一室で、若い神父が窓の外を見つめながら呟いた。空には普通の雲が流れているだけで、もう虹色の光は見えない。だが、世界は確実に、何か大きな変化の兆しを見せ始めていた。

 東京湾岸。早朝5時47分。空が白んでいく。東の地平線がうっすらとオレンジ色に染まり始める。雲の底が金色に輝き始めた。海面に小さな波が立つ。最初はちゃぷんという音。それが次第に大きくなっていく。同心円を描いて広がっていく波紋。管制室のオペレーターが画面を見つめている。瞬きも忘れて。目が乾いて、痛い。でも目を離せない。モニターの数字が減っていく。赤いデジタル表示のカウントダウン。

「カウントダウン、二桁になりました」

 声も震える。喉が詰まったような声になって、咳払いをする。ゴホン。唾を飲み込む音が妙に大きく聞こえる。

 管制室の隅で、橘一郎が腕を組んで立っている。四十代前半、内閣情報調査室の担当官。鋭い眼光が画面を睨んでいる。手元には極秘と赤く判が押された資料がある。『異世界時間流速差に関する報告書』。そこには冷たい事実が記されている。『地球時間3ヶ月=異世界体感時間10年(推定)』。

「橘さん、本当に彼を迎えに行かなくていいんですか」

 若い部下が恐る恐る聞く。

「上からの指示だ」

 橘の声は事務的だ。報告書のページをめくる。乾いた紙の音。

「でも、まだ17歳の──」

「体感時間では27歳だ」

 橘が振り返る。その目に一瞬、何かが揺れた。すぐに消えたが。

「この報告書によれば、精神年齢は27歳。体感時間で10年。もう少年ではない」

 ポケットから何かを取り出しかけて、止める。財布だ。その中に入っている写真。息子の写真。偶然にも悠斗と同い年の男の子。でも、それを見るわけにはいかない。今は。

「国益を最優先に考えるべきだ」

 自分に言い聞かせるように呟く。

「感傷は……不要だ」

 ベテラン管制官が煙草を取り出す。禁煙のはずの管制室で。手が震えて、なかなか火がつかない。ライターの火が震えている。三回目でやっと火がついた。

「本当に来るんだな」

 独り言のように呟く。煙を深く吸い込む。肺に煙が入っていく感覚。ニコチンが血管に染み込んでいく。

「何を選んだんでしょうね」

 新人が聞く。声が上ずっている。

「富ですかね」

「いや、力じゃないか?」

「三つ目は?」

「……分からん」

 橘が歩み寄る。靴音がカツカツと響く。

「何を選んだかは重要ではない」

 画面を見つめながら言う。

「重要なのは、彼をどう保護し、活用するかだ」

 その言葉に、管制室の空気が凍りつく。でも橘の手が、微かに震えているのを誰も気づかない。ポケットの中で、財布を握りしめている。息子の写真が入った財布を。報告書の最後のページには、自分だけが知る追記がある。『対象者の精神的負担:測定不能』。測定不能。その三文字が、橘の心を抉る。

 世界中のスマホが震え始める。バイブレーション。机の上で震えて、ブーンという音が重なって、不協和音になる。ガラスのコップが共振して、チリンと音を立てる。

『まもなく、選択が明かされます』

 Hero Countdownアプリの数字が減っていく。デジタル表示の赤い数字。99、98、97……みんな息を詰めて見ている。瞬きも忘れて。呼吸も浅くなっている。

「もう戻れないな」

 誰かが呟く。椅子が軋む音。

「ああ」

 別の誰かが応える。ペンを落とす音。カタンと響く。

「世界が、変わる」

「……かもな」

 橘がポケットから手を出す。震えが止まっている。感傷を押し殺した、いつもの橘一郎に戻っている。でも、心の奥で小さな声が囁いている。『17歳の少年に、10年もの時間を奪い、これほどの重荷を背負わせていいのか』と。その声を、橘は無視する。国益のために。日本のために。そして──息子と同じ年頃の少年を、道具として使うことへの罪悪感を押し殺すために。

 東の空が明るくなってくる。鳥が鳴き始める。チュンチュンという声がいつもより早い。カラスも鳴いている。カァカァという声が不吉に響く。10、9、8……誰かがごくりと唾を飲む。喉が動く音が聞こえる。アダムズアップルが上下する。7、6、5……風が強くなる。ビュウビュウと音を立てて、窓ガラスが震える。ガタガタという音。4、3、2……心臓が早鐘のように打つ。ドクドクドクという音が耳の奥で響く。

 橘が目を閉じる。一瞬だけ。息子の顔が浮かぶ。『お父さん、僕も17歳になったら、世界のために何かできるかな』。昨日の朝の会話。すぐに目を開ける。報告書を閉じる。パタンという音が、妙に大きく響いた。

 1……息を吸う。全員が同時に。

 0。

 海面が、光った

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