第26話 氷の罠、ソウルの密告者、聖剣の瑕疵、深淵の兄弟艦

帝都・東京。帝国陸軍総司令部。

南雲譲二陸将補は、長谷川内閣情報調査室長官からの呼び出しを受け、再び彼の執務室へと足を運んでいた。スイスから持ち帰った情報は、あまりにも衝撃的で、南雲は誰にもその全貌を明かせずにいた。だが、長谷川は、まるで南雲の葛藤を見透かすかのように、彼を自らの領域へと引き込もうとしていた。

「南雲君、スイスでの『視察』ご苦労だった。何か有益な情報は得られたかな?」

長谷川は、高級な葉巻を燻らせながら、鷹のような鋭い目で南雲を見据えた。

「…欧州の軍事情勢は、依然として不安定なようです。特に、ロシアの極東における軍備増強は、我が国の『北極星作戦』にとって、無視できない脅威となり得ると再認識いたしました」

南雲は、慎重に言葉を選びながら、当たり障りのない報告を行った。ロシアの密使との接触や、入手した情報については一切触れなかった。

「ふむ…君の慎重さは相変わらずだな。だが、時には、見えている脅威の裏に隠された『好機』を見抜く慧眼も必要だ。君が持ち帰った情報は、それだけではないはずだ。我々がスイスで接触した『友人』は、君に何かを託したのではないかね?」

長谷川の言葉は、南雲の心臓を鋭く抉った。やはり、彼は全てを知っている。あるいは、ロシアの密使との接触すらも、長谷川が仕組んだ罠の一部だったのかもしれない。

(この男…一体どこまで私を試すつもりだ…?)

南雲は、一瞬、懐に忍ばせたマイクロフィルムの感触を確かめた。これを長谷川に渡すべきか、否か。渡せば、あるいは一時的な信頼を得られるかもしれない。だが、それは同時に、彼らの巨大な陰謀に加担することを意味する。

「…長官閣下は、何を期待しておられるのですか?」

南雲は、逆に問い返した。

長谷川は、葉巻の煙をゆっくりと吐き出し、そして不気味な笑みを浮かべた。

「期待しているのは、君の『忠誠心』だよ、南雲君。帝国に対する忠誠心、そして…この国を真に導くべき『指導者』に対する忠誠心だ。一之瀬宰相は、確かにカリスマ性のある指導者だ。だが、彼は少々、理想に走りすぎている。時には、より現実的で、そして…『冷徹な』判断を下せる指導者が必要となるのだよ」

長谷川の言葉は、もはや何の隠喩でもなく、明確な野心を剥き出しにしていた。彼は、一之瀬に代わる新たな権力者を擁立し、自らがその背後で帝国を操ろうとしているのだ。そして、南雲をその計画の重要な駒として取り込もうとしている。

「…その『指導者』とは、まさか…」

「いずれ分かる時が来る。今は、君がどちらの側に立つのか、それを見極めさせてもらっているだけだ。『北極星作戦』は、その試金石となるだろう。君が、我々の期待に応える働きを見せてくれれば…君には、帝国の輝かしい未来を担う、重要な役割が与えられることになるだろう」

長谷川は、そう言うと、南雲に一つのファイルを差し出した。そこには、「北極星作戦」の最終実行命令書と、南雲が指揮する先遣隊の詳細な任務内容が記されていた。そして、その隅には、小さな文字で「作戦遂行後、速やかに帰投し、次なる任務に備えよ。詳細は別途指示する」と書き加えられていた。

南雲は、その命令書を手に、自分が巨大な氷の罠に嵌められたことを悟った。「北極星作戦」は、もはや彼の意思とは関係なく、実行される。そして、その結果如何では、自分自身が長谷川の駒として利用されるか、あるいは排除されるかの岐路に立たされているのだ。

彼は、執務室を後にしながら、固く誓った。この作戦を、そして長谷川の陰謀を、何としても阻止しなければならない。たとえ、それが自らの破滅を意味するとしても。


韓国、ソウル。

天城航太郎は、パク・ミンジュンから託されたデータチップの解析に悪戦苦闘していた。チップには、高度な多重暗号化が施されており、通常の手段では到底解読できない。彼は、ジャガーを通じてファルコンに支援を要請したが、ファルコンからの返答は、「それは君自身の力で解き明かすべき『試練』だ。ヒントは、君が過去に取材した事件の中に隠されている」という、謎めいたものだった。

(過去の取材事件…? 一体、どの事件のことだ…?)

天城は、自らが過去に執筆した記事や、取材メモ、そしてファルコンから「贈り物」として渡された膨大なデータの中から、パクの経歴や、彼が追っていた武器密売組織、そして長谷川の名前が関連する可能性のある事件を、一つ一つ洗い出していった。

数日後、天城は一つの事実にたどり着いた。パクが数年前に追っていた武器密売組織は、実は、北朝鮮への不正な武器輸出に関与しており、その取引の背後で、日本の国家保安局の一部と、長谷川が個人的に設立したペーパーカンパニーが暗躍していたという疑惑だった。そして、そのペーパーカンパニーの金の流れを追うと、驚くべきことに、天城がかつて取材し、未解決のまま闇に葬られた、ヨーロッパでの親ロシア派政治家暗殺事件の資金源へと繋がっていくのだ。

(まさか…! 北朝鮮への武器密輸、ヨーロッパでの政治家暗殺、そして長谷川…これらが全て繋がっているというのか!?)

天城は、戦慄した。長谷川の闇は、彼が想像していた以上に深く、そして国際的なものだった。そして、パクは、その闇の核心に迫りすぎたために、組織から追われ、そして今、長谷川(あるいは「選民会議」)の手駒として利用されているのかもしれない。

データチップの暗号を解く鍵は、おそらく、この一連の事件の中に隠されている。天城は、最後の望みを託し、それらの事件に関する膨大な資料の中に、再び分け入っていった。彼の孤独な戦いは、ソウルの片隅で、静かに、しかし確実に、帝国の深層部へと迫ろうとしていた。


日本国内、某所の「選民会議」秘密アジト。

蓮見志織は、藤堂とその仲間たちによって、新型核弾頭の「最終安全確認」という名目で、再び制御システムの前に立たされていた。アジトの一部は、彼女が仕掛けたサボタージュによって破壊されたが、核弾頭そのものは奇跡的に無事であり、藤堂たちは、それを別の場所へ移送し、彼らの「計画」を実行に移そうとしていた。

「蓮見君、君の小細工には感心させられたよ。だが、我々の技術者を甘く見ないでもらいたい。君が仕掛けたエラーコードは、全て解除させてもらった。もはや、この『聖剣』を止めることは誰にもできん」

藤堂は、冷ややかに蓮見に告げた。彼の顔には、以前の憂いを帯びた表情はなく、狂信的なまでの決意が浮かんでいた。

蓮見は、絶望した。彼女の最後の抵抗は、無に帰したというのか。

(もう…ダメなの…?)

だが、彼女は諦めなかった。たとえ、万に一つの可能性しかなくとも、この狂気の計画を阻止しなければならない。彼女は、制御盤のキーボードを操作するふりをしながら、密かに、核弾頭の内部冷却システムに過負荷をかけるための、極めて微細なプログラムを打ち込もうと試みた。それは、起爆そのものを止めるのではなく、弾頭内部で異常な高熱を発生させ、核物質を不安定化させることで、結果的に核爆発の威力を大幅に減衰させるか、あるいは不完全な形で自壊させることを狙った、最後の賭けだった。

彼女の指は、震えながらも、正確にコマンドを打ち込んでいく。藤堂たちの監視の目は厳しく、いつ気づかれるか分からない。

(お願い…間に合って…!)

蓮見の額から、冷たい汗が流れ落ちた。彼女の運命は、そして帝国の運命は、この数秒間の、誰にも気づかれない攻防に委ねられようとしていた。


台湾東方沖。帝国海軍潜水艦「雷鳴」。

相馬圭吾大尉は、司令部からの命令と、目の前の戦術ディスプレイに映し出される「剣龍」と思われる目標との間で、苦渋の選択を迫られていた。

「艦長、目標は依然として我々の追跡を回避しつつ、南東方向へ進んでいます。攻撃命令は、いつ実行されますか?」

副長の問いに、相馬は即答できなかった。もし、目標が本当に「剣龍」であり、しかも何らかの理由で制御不能に陥っているか、あるいは何者かに乗っ取られているのだとしたら、むやみに攻撃することは、友軍の貴重な戦力を失うだけでなく、搭載されているかもしれない核兵器(SLBM)の暴発という、最悪の事態を引き起こしかねない。

(南雲閣下は…あの艦に乗っているのか…? そして、この不可解な命令の背後には、一体何が…?)

相馬は、スイスから帰国した南雲が、長谷川長官と密会を重ねているという噂を耳にしていた。そして、その南雲が、北方領土作戦の先遣隊として、再び姿を消したという情報も。全てが、きな臭い陰謀の匂いを放っていた。

「…目標への攻撃は、一時待機。引き続き追跡し、警告信号を発信。応答を待つ。ただし、目標が明確な敵対行動、あるいは我が国領海への侵入を示した場合、その際は躊躇なく攻撃する」

相馬は、自らの判断で、司令部の命令を一部修正した。それは、軍人として許されざる抗命行為に近いものだった。だが、彼は、このままでは取り返しのつかない事態に陥るという、強い予感に駆られていた。

「雷鳴」は、深海の兄弟艦かもしれない目標を追いながら、見えざる敵との、そして自らの良心との戦いを続けていた。その先には、鋼鉄の海の底で繰り広げられる、非情な死闘が待ち受けているのかもしれなかった。

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