第5話 記憶の檻

 目を開けると、空があった。


 群青の空だった。星の見えない、けれど限りなく広い空。


 視界には白い建物が並び、整備されたアスファルトの道が続いていた。どこか地上の都市を模したような人工空間だが、その奥には巨大なドームの内壁がうっすらと浮かんで見える。


(ここは――ノア号の中……? でも、これは……)


 違う。これは現実じゃない。記憶の中だ。


 ナギサの。


 その証拠に、晴賀のすぐ横に、彼女が立っていた。白いワンピース。裸足。無表情で、だが微かに口角が上がっている。


「懐かしいでしょ?」


「……ここは、君の記憶?」


「うん。記録じゃなく、記憶。私が生きていた頃、唯一――外に出してもらえた日」


 彼女の視線の先には、ひとりの青年が立っていた。黒髪に白衣。少し疲れた顔をしているが、ナギサを見つめる目はとても優しかった。


 晴賀は、息を飲む。


(あの男……どこかで……)


「お兄ちゃん、だよ」


 ナギサが呟いた。


「名前は、ナギサ・カイ。私と、双子だった。でも彼だけは、研究対象にならなかった。代わりに私の“外”を観察するために育てられた」


 青年――ナギサ・カイは、子供のナギサの髪をそっと撫でた。カメラのような視点がゆっくりとその光景を包み込む。温もり。家族のような絆。だが、それは長くは続かないことが空気でわかる。


「この記憶はね、何度も何度も再生された。私の中で、私の脳の中で。だから私は、これしか知らなかった」


 風景が変わる。


 光が赤く染まり、警報の音が響く。


 研究施設の中。チャンバー。叫び声。焼けた金属の匂い。


 ナギサの視界の中で、カイが叫んでいた。


《やめろッ! 彼女はもう限界だ! 同調試験を止めろッ!》


《プロジェクト・ナグルファルは失敗する! このままだと――!》


《データを転送しろ。被験体の意識をコールド・メモリ領域へ隔離するんだ》


「その日、私は死んだ。でも、完全には死ねなかった。記憶だけが、ノア号の中に残された」


 少女の姿をしたナギサが、晴賀の方へ振り返る。


「だから、ねえ。覚えてる? あなたは見たはずなの。私が沈む前に、“誰か”に手を伸ばした瞬間を」


 晴賀の頭がズキリと痛んだ。


 暗い部屋。水に沈んでいくベッド。眠ったままの少女の姿。手が……手が――


(見た……俺は、あのとき……!)


 記憶の底が、崩れる。


 足元の地面が音もなく砕け、視界がぐるりと裏返った。


 ――そして彼は、“今”へと戻ってくる。


 


 目を覚ますと、晴賀は“影のフロア”の床に倒れていた。酸素マスクのようなものが顔に付いていて、脇には緊急用の医療ドロイドがついている。


 その後ろに、サラ・イノミネが立っていた。


「やっぱりいたのね。ここで気絶してるって、通報があったのよ」


 その声に、晴賀は重い頭を抱えながら、口を開いた。


「ナギサ……ナギサ・レアは、実験体だった……記憶の……檻に、閉じ込められていたんだ」


 サラの表情が一瞬、固まった。


「……あの名前、どこで聞いたの?」


「俺の中に……いや、ナギサの中に、俺がいた。たぶん……俺もまた、何かを“覚えている”」


 サラは何も言わなかった。ただ静かに、手元の端末を閉じた。


「晴賀コウ。あなた、何者なの?」


 その問いに、彼は答えられなかった。


 だが確かに、何かが変わっていた。記憶の一部が、目覚めはじめていた。

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