夢心地
「私に、付き合ってくれませんか。」
あの時の彼女を、私の先にある何かを見つめるその表情を、私は生涯忘れられなかった。
「無責任」という言葉が反吐ができるほど嫌いだった。誰が好きだとか、自分はこう思っているとか、そんな自分事ばかりを語って、私には押し付けるだけ。私がどう思っているかなんて、きっと大事なことの五本の指にすら入れない。でも、この世界はそれが当たり前になっている。誰が教えたというわけでもないのに私はそのことを熟知していた。
地元で痛烈な現実を知った私は、現状からの脱出チケットを求めて都内の大学を第一志望校に据えた。血反吐が出るような努力、そして感情という尊い犠牲の上に、私は合格を掴み取った。
だが、私の期待はあまりに脆く、早く、崩れ去った。
「大学はいかにうまく授業をサボるかだから。」
「困ったらそこら辺の真面目そうな、メガネかけてる子にカンペ見せてもらうといいよ。いや、君は見せるほうか。」
私の理想の道が真っ直ぐだったのは水平線までだった。見えないからと勝手にすべてが真っ直ぐだと思っていたからこそ、その先の急な下り坂に私はアクセル全開で突っ込んでしまった。
気がつくと、周りは異世界生命体だらけになった。ゼミの仲間で集まってご飯を食べ、学校が終われば部活やサークルに行き、夏休みにはみんなで海に行く。あまりにも自然に、あまりにも当たり前に行われる彼らを眺める独りの私は、私が異世界生命体であることに気づき始めた。
私が異世界からこの世界に戻ったのはお酒が飲めるようになった頃だった。
落ち葉の下でくるりと丸まったダンゴムシ。平年よりも暑さが残る中、ダンゴムシは三つの影から日陰を享受していた。
「大学にもダンゴムシっているんですね。てっきり田舎の方にしかいないと思ってました。」
「ここは都内の中では有数の自然豊かな大学なので。あちこちに可愛い子たちがたくさんいるんですよ。」
掲示板の争いに負けたであろう隅っこに貼られていた手書きのポスター。そこの「可愛い子(動物)を眺めるだけ!」というパワーワードに何か心惹かれ、私は二年の九月に自然保護サークルに入った。所属者はたくさんいるらしいが、このような定期観察にきちんとくるのは、この場にいる一年一人と私とサークル長のみ。歴では私が一番下だ。だからこそ、部長は当然として、彼女もいつも積極的に私に話しかけてくれる。
サークル長は本当に自然が好きという感じで、どこで学んだのかが気になるほどマニアックな話を矢継ぎ早にしてくれる。そのおかげか最近はキャンパス内の植物を見ると一つ豆知識が出てくるようになった。
一方彼女、遠野さんは話し方がとにかく柔らかい。ゆっくりと話すのに抑揚があって、ところどころ天然で、いつもニコニコ話していて・・・
彼女といると、すごく居心地がいいな。
それが意味すること、それは失望を希望に変えていくことであり、その決意は私にはまだ不十分だった。
進みもしないし離れもしない。そんな関係は約半年程続いた。でも、その間に私は変わった。私が適応できないほど早く。
「教育学部三年の新崎です」
「文学部四年の清宮です」
「法学部、三年の、比嘉です・・・」
その結果がこの地獄だ。グループワークなんてできっこないのにどうしてここにいるんだろう。ましてや授業ですらなく、任意参加のワークショップだ。避けられたはずの「苦手」を前にしてちっぽけな「覚悟」は消えかかっていた。
イングリッシュキャンプを運営するというのが今回のタスクだった。三日間は地元の小中学生に英語を教え、最終日は大学生がエキシビションでディベート大会をする。寝るところまでが相部屋で、本格的に独りになる時間はない。
「とりあえずライングループ作っちゃおうよ」
「ここから四ヶ月くらい、よろしく!」
まずはこの二人と話せるようになるところからのようだ。
寮の自室に荷物をおいて布団に横になると、ふと家の広さを思い出す。
家はあまり恋しくならない。窓を開ければいつも異世界生命体が目に入るし、父は何かと私を叱ろうとする。中高と暗い生活を送って、それから逃げ出したくて寮に入ったはずなのに、不思議と現状のほうがよっぽど悪く感じられた。
自分が目指す姿とのギャップ。私は変わらない自分と変わる理想を抱え、今を生きている。だからこそ広がっていくその差に私はさらに失望を感じる。私が遠野さんみたいに明るく話せたら・・・、遠野さんみたいに人に好かれる人になれたら・・・。浮かぶタラレバは「無責任」で反吐がでる。
私が変わらなくちゃ。
ちょっと恥ずかしいが、スマホカバーに「積極的に」と書いたメモを挟む。明日から頑張ろう。私は次の日のために眠りについた。
「どういうふうに授業計画立てる?」
いつもだったら黙りこくって他の人の発言を待つ。その慣れ親しんだ普通を捨てて私は声を出した。
「三日間のテーマを決めて、そのテーマに合わせてディスカッションとか、ディベートとか、やっていけばいいんじゃない・・・。」
「それ、いいね!」
「そしたらまずテーマ決めよっか。対象が中高生だから・・・」
あれ、案外悪くないかもしれない。この二人となら気楽に話せそうだ。どうやら異世界生命体から地球人に戻ることができたようだ。
テーマ決めは白熱していた。清宮さんが午後から授業ということで二、三時間で終わらせる予定だったが、私が発言するようになって話す気が増したのか候補が増えるだけ増えて、日は真上に昇ってしまった。
「時間が結構きついなぁ」
「ここで切り上げて次回にしておきます?」
「うーん、でも今決めないとなんか熱が冷めちゃう気がするんだよね。俺は多少時間あるから二人がもしよかったら話しがてらランチでも行く?」
清宮さんは心理的ハードルをまるで百メートル走を走っているかのように超えてきた。無論、断る理由もない。新崎さんに横目で問うとどうやら彼の答えもYesのようだ。
「はい、行きましょう!」
二年遅れで私の大学生活が始まったようだった。
テーマ決めがおおよそ終わったのは一時半を少し回った頃だった。本来は午後は図書館に行って勉強する予定だったが、今からだと微妙な時間だ。かといって寮に帰っても特にすることはない。結局私はなんという当てもなく、部室へと歩いていった。
部室のドアを開けるといつもはいない人たちが椅子を占拠して、部室は過密状態になっていた。行く気がなかったので忘れていたが、今日はこのサークルのもう一つの側面である自然保護の活動計画の策定日だったらしい。
いつもは静かな空間で部室の図鑑などをゆったり読むのが部室での過ごし方だが、この人口密度ではあまりにも不適なようだ。私に残されたスペースは部屋の角のみ。ただ、せっかく来たのに帰るのは癪な気がして、私は隅っこでスマホをいじることにした。
三十分も経つとすることがなくなり、周りが気になり出した。せめてパソコンの一つで持ってきておけば課題が進められたのに。そんな後悔は誰の耳に入ることもなく、暇を私に突きつけていた。すると、私の暇が顔に出ていたのだろうか、一人の大柄の男が私に話しかけてきた。
「君、名前なんて言うの?どこ学部?」
「比嘉です、法学部の三年です・・・」
「俺は西園寺。経済学部の四年ね。」
なにか防衛本能のスイッチが入ったような気がした。不思議だ、これが初対面なのに。この人、西園寺さんとはきっと仲良くなれないと私の本能がそう告げていた。
「このサークル入った理由とかある?俺は現サークル長から誘われたんだけど。」
「ポスターが結構インパクトあって、それで入りました・・・。」
「へぇポスターね、なるほど。それじゃあこれからも何回か合うかもだからよろしく。」
彼が私の声が届かない距離まで行ったのを見届けて私はふぅっと息を吐いた。彼と話すこの圧迫感はまだコミュニケーションに慣れてない証拠なのかもしれない。これから先はああいう人とも話せるようにならないと。まずは彼がどんな人なのかを知るところからかな。そう思い近くにいた遠野さんに声をかけたが、彼女は静かに首を横に振るだけだった。
開けっ放しにしていたカーテンから漏れる光に仕方なく目を開けると時間はすでに午前八時を回ろうとしていた。今日はワークショップ一ヶ月前の全体での集会。時間は・・・たしか八時半からとかだっただろう。つまりは遅刻ギリギリだ。最近は気にするようになったヘアセットも今日だけは見なかったことにして私は家を飛び出した。
駅についたのは発車一分前だったが、かろうじて間に合った。これに乗りさえすれば駅からはゆっくり歩いても集会に間に合う。一息ついた私はバッグからボディシートを取り出そうと右斜め後ろのバックに手を伸ばした。
「比嘉くん、?」
「え、遠野さん?」
思わず面食らってしまった。確かに思い返してみると私はいつも二限からとかの授業ばっかでこんな朝早く電車になることはない。つまりは遠野さんは時間帯が違っただけで同じ電車に乗っていたのだ。
状況を整理した私はなにか恥ずかしさを感じた。こんなことならもっと早起きして余裕を持って駅まで歩いてきたのに。
「比嘉くんって同じ電車だったんだね。いつもこの時間?」
「いや、いつもはあと一時間くらい遅い電車ですね。」
「それは知らなかったなぁ。でもそしたら今日はなんかあるの?」
「ワークショップのイングリッシュキャンプ運営の最終説明会ってやつが八時半からあるんですよ。」
「・・・それ私も参加してるし、今日も行くやつだね。」
「え、そうなんですか?」
さっきの衝撃五割増だ。グループメンバーとのコミュニケーションに気を取られすぎて周りが全く見えていなかったようだ。
「でも珍しいね。比嘉くんはこういうタイプじゃないと思っていた。」
きっと遠野さんはなんというわけもなくこの話をしている。だからこそ私は「あなたのおかげです」という言葉を止めておいた。
弱冷房は私を冷やすにはあまりにもぬるすぎたようだ。
「今日はイングリッシュキャンプの主な時程と最終日のディベートについての説明をしていきます。まず初めに時程から。初日の集合は現地に九時、その後十二時に生徒がやってきます。昼食後五時までは大学が用意したレクリエーションに生徒と一緒に参加してもらいます。その後夕食と風呂があり、八時から十時までは自由時間です。他グループと交流するも良し、自分のグループと作戦会議をしても、生徒と交流してもOKです」
話を聞いていると高校時代の英語合宿を思い出す。当時の塾は冬にイングリッシュキャンプに半強制的に連行していた。塾は学校と違って無責任な人は少なく、みんなが主体的な人だったからこそ私はおいていかれる劣等感を感じていた。それでも英語合宿では得意の英語で一番話せて、自分が輝いていると実感できた。
懐かしい栄光を思い出しても今は意味がない。きっと周りと比べれば今はもう普通だから。
「二日目と三日目は七時起床、朝食後に英語の授業。昼食を取ってまた英語の授業で後は一日目と同じです。つぎに最終日のディベートですが、チームはグループを解体して新チームで行ってもらいます。」
間違いなく空気が揺らいだ。無論私もそのゆらぎの一部であった。せっかく話せるようになったこのメンバーとも最終日は別れ、かつ事前に会話をすることもなく知らない人とチームを組まないといけないというのか。せっかくの希望は長続きしないことが確定した。
集会後も学生の半分以上は教室に残り、グループで打ち合わせをしていた。私もその予定だったが、新崎くんの予定が合わなかったので今日はなしになった。
帰るか。そう思いドアの方向に視線を移すと出口の近くに座っていた遠野さんと目があった。少し口元が緩みかけるのをなんとか止める。周りを見ると、側に西園寺さんもいる。二人が同じグループなのか。まだまだ成長しきれてない私は話しに行くことを諦めて、もう一つのドアから静かに出ていった。
集会から一ヶ月が経った八月✕✕日、灼熱の太陽が照りつける中、四日間のイングリッシュキャンプが始まった。
「Welcome to English Camp! My name is Yuya Higa. Nice to meet you.」
今日からは私が先生となって教えていかなくてはいけない。その覚悟はもうすでにできていた。
一日目は自分たちが主催する授業はなかったので特になんということもなく終わった。勝負は明日から、それは誰もがわかっていた。
「ミーティングしたいから八時半にラウンジに集合で。」
シャワーを浴びて時計を見るとまだ七時半過ぎだった。少し時間があるな。私は少しお出かけをすることにした。
今回イングリッシュキャンプが開催されている施設にはバーがあった。事前に調べたときにその内観に心惹かれ、一度行ってみたかったのだ。
カランコロン。ドアを開けると少し甘い香りが漂ってきた。きっとここの名物のバタービールの香りだろう。ちょうど入口に近いカウンターが空いていたので、席についた。
「Can I have a cup of butter beer?」
バタービールは目の前ですぐ入れてくれたのでものの一分で提供された。すぐに飲んでしまうとせっかく時間を潰しに来た意味がないので、口をつけずに一旦内観を楽しもう。そう思って周りを見渡すと見覚えのある姿が二つあった。あれは、遠野さんと西園寺さんだろう。
バーの広さも相まって二人の会話は何も聞き取れない。でもなにかその場にいたくないような、逆にあっちに行きたいような、簡単には表現できない感情が気持ち悪くて、私はバタービールを一息に飲み干してバーを出た。口の中には不快な甘さがべっとりと残っていた。
聞き馴染みのない音とともに私の二日目は始まった。
相部屋の二人のどっちかの目覚ましの音のようだ。目が覚めるまでは家にいるような感覚だったが、すぐに現実に引き戻された。今日からは私達主導で授業を進めなくてはいけない。スマホカバーの「積極的に」というメモははまだ抜いていなかった。
生徒たちは私達の話をとても熱心に聞いてくれた。昨日のミーティングでは熱意がない生徒にどうやって参加させていくかについて話し合っていたが全くの杞憂だったようだ。それぞれが周りの人との会話も積極的にできていた。
ただ、一人だけ、周りの生徒に声をかけられないのか、一人でじっとしている子がいた。新崎くんと清宮さんは他の生徒と会話をしていて気づいていない。私はその子に話をしに行くことにした。
「なにか気になることでもあった?」
「いや、そういうわけじゃなくて、ただ自分あんま英語うまくないから・・・。」
それを聞いて思わずふっと笑みがこぼれる。懐かしいな。私もあんな感じだった。
私は中学校の英語の授業が大の苦手だった。小学校では文法とかは教えてくれなかったのに、急にどれが主語でどれが補語で〜と言われてもわからない。だからいつも隣の人と話すことをためらっていた。そしたらある日、先生に言われた。
「まずはやってみてほしい。それはきっとうまくいかないと思う。そこで何が足りないのか、逆に何ならできているのか、そこを見極めるの。長所と短所がわかってしまえば後は良い方向にしかいかないはずだから。」
結果、先生のお陰で私は文法は苦手だが発音が得意なことがわかった。そこから努力して、高校では英語が一番得意な科目になった。だから、今度は私がこの子に伝えてあげるんだ。
「大丈夫。あなたの苦手はきっとあるけれど、その分の得意があるはずだから。勇気を持ってやってみて。その後のサポートはこっちも全力でするから。」
「ありがとうございます。」
私みたいに将来に思い出してくれたらいいな。そう思ってかけた言葉の「勇気」は私の心にも届いていた。
三日目の午後、最後の授業。あの子はみんなと打ち解けていて、スラスラと話していた。やっぱりやればできるというのは本当なのかもしれない。私は明日のディベート大会の要項を握りしめてそう感じた。
「大学側でランダムに決めた三人でチームを組み、ディベートを行います。全十六チームできるのでトーナメント形式で行い、優勝チームにはそれなりの優勝賞品が贈られます。発表は各チーム一人で、残りの二人はサポートと言う形です。」
迎えた四日目。掲示されたメンバーを見て、少し落胆する。遠野さんと一緒に離れなかった。でも、私には覚悟があった。あの子に伝えた勇気というものを自分自身が見せられるように。
チームメンバーはみんな明るく、気さくな人達だった。
「誰が発表する?」
「うーん、じゃんけんとかで決める?」
「私、発表やるよ。」
前日の夜からずっと準備してきたその言葉。もう、誰かに任せるような「無責任」なんかにはならない。その気持ちをしっかりと伝えることができた。またひとつ、成長できたのだろうか。
結局私達は一勝しかできなかったが、それでもやりきったという達成感は確かに得られた。初戦で勝ったときはチームメイトといっしょに喜べたし、合間合間に情報共有も完璧にできた。すっかり変わった自分が少し誇らしく感じられる瞬間だった。
お昼を挟んで行われた決勝戦。壇上に上がった姿を見て私は驚いた。遠野さんがいる、それだけなく彼女はマイクの前の席に座ったのだ。彼女の言葉を借りるならば「こういうタイプじゃないと思っていた」だ。いつもふわふわしている遠野さんだからこそ、このディベートという場でどのように話すのか、私は興味が惹かれた。
ディベートが始まると、彼女は凛とした声で話し始めた。抑揚がはっきりとついていて、声だけは別人のようだ。普段の様子からは想像できないその姿に圧倒されるとともにかっこよさを覚えた。もしかすると、私が思っているよりもずっと責任感があってすごい人なのかもしれない。
現地から電車とバスを使って寮に帰り着いたのは午後十一時を回った頃だった。四日間の遠出で気を張るのにも疲れて布団に倒れ込んだが、なぜか寝る気が起きず、スマホを手に取った。ふと、あの子に話した「勇気」の話が頭の中で再生された。
「勇気を出して、か。」
私は遠野さんのラインを開いてメッセージを送った。
今度、一緒に水族館行きませんか。
夜十一時に送ったそのメッセージは現代技術の力で一瞬で彼女に届き、そして既読がついた。こんな時間のメッセージを彼女が見ると思わなかった私は恥ずかしさで画面を閉じ、そのまま眠りについた。
「はい」という返事を見たのは翌日の朝十時頃だった。
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