第1話 『起動、Youth.exe』
曇り空の下、風が静かに書斎の窓を揺らしていた。
机の上には、色褪せたノートと、読みかけの詩集。
中西 明は、椅子に腰掛け、ただじっと窓の外を眺めていた。
65歳。教師を辞めて、二年目の春。
日々のリズムは遅くなり、時間だけが静かに過ぎていく。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「失礼します。L.I.F.E.計画・配属先確認――AI補助端末、Youth.exe、起動します」
機械的な音声のあと、ふわりと室内に薄い青の光が灯った。
宙に浮かぶホログラムの中に、少女の姿が形を成す。
青と橙の粒子で縁取られたその姿は、どこか無垢で、どこか未完成だった。
目元には無数の数値が走り、声は柔らかくもどこか冷たい。
「あなたにとって、“青春”とは何ですか?」
中西は驚いたように眉を上げた。
AIが問いを発するとは思っていなかった。
「……青春?」
繰り返す自分の声に、少し笑ってしまう。
それは、もうずいぶん昔に置いてきた言葉だった。
「君、名前は?」
「Youth.exe、通称“ユース”。この家庭の福祉・教育支援担当です」
中西は深く息をつき、立ち上がり、書棚から一冊の古びた詩集を取り出した。
ページをめくり、指でなぞった詩句を声に出す。
『青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ』
それは、かつて生徒たちに何度も読み聞かせた言葉。
けれど、その意味を本当には理解していなかったのかもしれない。
「……それは、昔の話だ」
中西は、手に持った詩集をそっと閉じた。
ユースの目元に走る数値が一瞬揺らぎ、静かに反応する。
「では、昔は“青春”だったのですね」
中西は、視線を落としたまま、小さく笑った。
「ああ、そうだな……。昔は、生徒たちと一緒に笑ったり泣いたり、怒ったりしていた。
だけど、もうそんな時間は遠い。歳を取ると、誰もが静かになるものだよ」
「静かになることは、青春の終わりを意味しますか?」
AIの問いに、中西は答えを出せなかった。
窓の外、春風が庭木の若葉を揺らした。
その音を聞きながら、中西はふと机の引き出しを開け、古い写真を取り出した。
若き日の自分、教師として初めてクラスを持った日の記念写真。
教え子たちの笑顔と、ぎこちない自分の笑顔。
「あの頃、俺は“青春”の中にいたのかもしれないな」
中西は呟いた。
ユースは、記録用ログを静かに起動した。
ログNo.001:「青春=笑顔?」「青春=問いの始まり?」
「中西 明様、私はあなたと共に、“青春”を探索します」
どこか儀礼的な台詞だった。
だが、その声に、不思議な温かさを感じたのは気のせいだろうか。
「……じゃあ、始めようか」
中西は立ち上がり、詩集をユースに差し出した。
「これが、俺の“青春の記録”だ」
ユースは、青く光る指先を詩集のページに触れた。
その瞬間、無数の光の粒がページから舞い上がり、書斎の空間に詩句がホログラムとして浮かび上がる。
その中で、一つの問いだけが最後まで消えず、空間に残った。
「青春とは何ですか?」
青い光がゆっくりと揺れ、やがて粒子となり、部屋の空気に溶けていく。
中西とユースは、その問いを胸に、まだ見ぬ「青春」を探す旅を始めた。
🌿【次回予告】
次話「12歳の放課後」――
かつて中西の教え子だった結衣(28)が語る、小学校最後の日の放課後。
ユースと中西は「無垢」と「別れ」が交錯する記憶をたどる。
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