新-第9話『もう一つの眼』

 夕暮れの体育館には、バレーボールの弾む音とシューズが床を蹴る乾いた音が響いていた。

 練習後のストレッチを終えた翔斗は、タオルで首筋の汗を拭いながら、何気なく出入り口に目をやった。

 そこに——立っていた。

 黒いジャケットを羽織った、あの男。デヴァルス。


 前回遭遇した時と同じ、整った輪郭。涼しげな視線。けれど——どこかが違う。

 翔斗の中に、言葉にならないざわめきが走る。

 立ち方がわずかに猫背で、肩幅も狭く見える。姿勢の“型”が前回とは異なっていた。

 そして、その口から発せられた声。


「よくやるな、お前は」


 低く響く声は確かにデヴァルスのもの……のはずなのに、抑揚が浅く、妙に乾いていた。

 あの時はもっと挑発的で、相手を見下ろすような余裕があったはずだ。


(……前と、違う? 気のせいか……?)


 翔斗が返事をする間もなく、デヴァルスはくるりと背を向けた。

 体育館の出入り口を静かに抜け、夕暮れの外気に溶けていく。

 残されたのは靴底が床を離れる短い音と、胸にこびりつく違和感だけだった。


 夜——。

 練習帰りの翔斗は、海輝と共に商店街を歩いていた。

 昼間の喧噪が嘘のように静まり、シャッターが半分下りた店々が並んでいる。

 どこか油と埃の混ざった匂い。遠くでネオンが明滅し、金属的な虫の声が混じる。


「なあ翔斗、今日は動き良かったな。特にレフトからのスパイク、角度エグかったわ」


 海輝がいつもの調子で笑う。

 翔斗も笑い返そうとしたが、その瞬間——背筋を撫でるような冷たい気配を感じた。

 耳の奥に、ぞわりとする予感が流れ込む。


「……立ち止まれ、翔斗」


 暗がりから現れた影——デヴァルスだった。


 同じ黒いジャケット、無駄のない立ち姿。

 だが今回は、その目が鋭く、前に見たどちらのデヴァルスとも違う光を放っている。

 声には氷のような冷気が混じり、言葉の一つひとつが刃物のように鋭かった。


「こんな場所で何の用だ」翔斗は自然と構えを取る。


「用? ……観察だ」

 静かに、しかし確信を持った声で彼は告げた。

 「お前が、どこまで“間”を生かせるかを——な」


 その瞬間、翔斗の脳裏を過ったのは、ほんの数時間前に体育館で聞いた言葉だった。

 似た響き、似た威圧感。けれど、あの時の男は、こんな冷たい眼をしていなかった。


(……同じ奴なのか? いや——違う)


 海輝が小さく呟く。

 「なあ翔斗……なんか、前の時と雰囲気違くねぇか?」


 デヴァルスは無言で海輝を見やる。

 街灯の下に差し込んだ光が、その横顔を浮かび上がらせた。

 翔斗は息を呑む——右耳の形が、前に会ったデヴァルスよりも尖っている。

 まるで別人だ。いや、別人“なのに”同じ名前を名乗る者たち……。


「お前……」

 翔斗が言いかけたその時、遠くからパトカーのサイレンが響いた。

 デヴァルスは視線を外し、背を向ける。

 ジャケットの裾が揺れ、やがて細い路地へと消えていった。


 湿った夏の夜風が二人の間を抜ける。

 残されたのは、わずかな足音の残響と、胸の奥に残る重い確信。


(……やっぱり、あいつは一人じゃない)


***


 海輝が口を開く。

 「なあ翔斗……あいつら、同じ名前で複数いるってことか?」


 翔斗は短くうなずく。

 「まだ断言はできない。でも……“デヴァルス”ってのは、個人じゃなくて——」


 そこで言葉を飲み込んだ。

 頭の奥に、今までの遭遇シーンがフラッシュバックする。

 視線、声、仕草、そして耳の形。微妙な差異が一本の線に繋がり始めていた。


 ——デヴァルスは、複数人で構成されている。


 その線は、やがて組織という巨大な輪郭を描き出そうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る