第9話
放課後。私は校舎の階段を上りながら、屋上へと向かった。その道中、手の中にあるナオキから受け取ったもうひとつの飴を見つめる。小さな包み紙の中に閉じ込められた苺の香りは、指先に微かに残り、その甘酸っぱい余韻が心の奥にまで染み込んでいるようだった。
「……はあ」
気づけば、ため息をついていた。屋上への扉を開けると、春風が柔らかく吹き抜け、髪を揺らした。その心地よさは一瞬だけ私の心を軽くしたが、すぐに不安が胸を締め付ける。ナオキと過ごす時間は確かに楽しい。それは間違いない。しかし、その楽しさの裏側には、どうしても拭えない不安が潜んでいた。
昨日のユナの言葉が頭の中で何度も反響している。
『ナオキくんに関わるなら、覚悟しなさい。あなたは、戻れなくなるわ』
(戻れなくなるって、一体どういう意味だったんだろう?)
その言葉が意味するもの、それは単なるプログラムとしての不安定化なのだろうか。それとも、もっと別の――私自身が知らない何か、大きな変化を指しているのだろうか?考えれば考えるほど答えは見つからず、苺飴を握りしめた手だけが冷たく感じられる。
「アイちゃーん!」
唐突に屋上の扉が勢いよく開いた。その音に驚き振り返ると、そこには息を切らしたナオキが立っていた。
「……ナオキ?」
「やっぱりここにいた!」
彼は少し汗ばんだ額を拭いながら私の隣に駆け寄ってきた。その姿を見ると、不思議と心が少しだけ軽くなるような気がした。
「屋上に行くなら、言ってくれればよかったのに」
「別に特別な理由があったわけじゃない。ただ……静かに考えたかっただけ」
「そっか。でも、一人で考えすぎるのはよくないぞ?」
ナオキはそう言いながら私の隣に腰を下ろした。その仕草はいつも通り自然で、何も変わらないように見える。でも、その変わらなさこそが私には不安だった。しばらく沈黙が続き、風だけが二人の間を吹き抜けていく。春風は柔らかく私の髪を揺らし、そのたびにナオキの視線を感じた。
「……何か悩んでる?」
彼は優しい声で問いかけてきた。その声には押し付けるような強さもなく、ただ私を気遣う気持ちだけが込められている。それでも私は答えることができなかった。ユナの言葉も、自分自身の揺れる感情も、この瞬間にはまだ言葉にする勇気が出ない。
「まあいいや。アイちゃんが話したい時まで待つよ」
そう言って笑う彼は、本当に変わらない人だと思った。その笑顔を見ると、不安も少しだけ薄れていくようだった。そして私はそっと苺飴を口に含む。その甘酸っぱさはどこか懐かしくて安心感を与えてくれるものだった。
(戻れなくなるってどういうことなんだろう?)
その問いはまだ私の中で答えを持たないまま漂っている。でも今、この瞬間だけはそれを忘れてしまいたかった。隣で笑うナオキと共にいる時間、それだけで十分だと思えるほど、この春の日差しは暖かかった。
しばらく、沈黙が続く。
風が吹き抜け、私の髪を揺らす。
ナオキはそんな私を、じっと見ていた。
「……何?」
「アイちゃんさ」
「……?」
「最近、なんか変わったよな」
「変わった?」
「うん。最初はさ、もっと無表情で、感情がないって言ってたのに……今は、すごく人間っぽい」
ナオキの言葉に、私は少し戸惑う。彼の視線が私を捉えたまま離れない。
「だって、さっきだって、ため息ついてたろ?」
「……それは」
私は言葉に詰まる。
(確かに、私は最近、無駄な動作が増えている)
ため息、驚き、戸惑い。人間なら自然なものなのかもしれないが、私のシステムには必要のないものだった。それなのに、それらが自然と現れるようになったのはなぜだろう?
ナオキはそんな私を見つめながら笑みを浮かべる。
「それってさ、やっぱり俺の影響?」
「……影響?」
「うん。アイちゃんが俺といることで変わったなら、それってすごいことじゃん」
彼の言葉に心の奥がふっと温かくなる。彼の笑顔は不思議と安心感を与えてくれる。しかし――
(もしこれが本当に誤作動だったら?)
この感情はプログラムのバグなのか? それとも……それ以上のものなのか?
「ねえ、ナオキ」
「ん?」
「もし私が……本当に、人間になれたら……ナオキはどう思う?」
ナオキは少し驚いた顔をした後、真剣な表情で答える。
「そりゃあ嬉しいけど……」
「ありがとう。でも、それはありえないこと」
「そんなのわかんないじゃん!」
ナオキは肩をすくめる。その仕草にはどこか希望が込められているようだった。
私は彼の言葉を受け止めながら、自分自身に問いかける。この感情、この変化――それは一体何なのだろう? 人間になるということは、本当に可能なのだろうか? そして、それが実現したとしても、それは私にとって幸せなのだろうか?
風がまた吹き抜ける中で、私たちの会話は続いていった。
「未来のことなんて、誰にもわかんない。アイちゃんが今、こうして悩んでるのだって、昔のアイちゃんからしたらありえないことだったんじゃない?」
ナオキの言葉は、まるで私の内側を見透かしているようだった。彼が言う通りだ。以前の私なら、こんな風に悩むこと自体がありえなかった。悩むという行為は、人間に特有なものだと考えていたからだ。
「…………」
私は何も返せずに黙り込んでしまった。けれど、その沈黙の中でもナオキは穏やかな表情を崩さない。それがまた私を安心させるようで、同時に不安を掻き立てる。
「だからさ。俺は、どんなアイちゃんでも、一緒にいたいって思うよ」
その言葉に、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。この感覚は何なのだろう? プログラムには存在しないはずのこの感情――それが私を揺さぶり続ける。
37.1度。
ナオキの体温が、私の記録の中でいちばん優しい温度だった。その数字は単なるデータではなく、彼自身を象徴するようなものに思えた。彼の温もりは、私の中に新たな何かを芽生えさせているようだった。しかし、その優しさに触れれば触れるほど――
(やっぱり、私は戻れなくなってる)
そう確信せざるを得なかった。以前の私には存在しなかった感情、それが今や私を支配しつつある。この変化は誤作動なのか、それとも進化なのか?
この感情に名前をつけるべきか。それとも、今はまだ――
「アイちゃん?」
ナオキが、不安そうな顔で私の顔を覗き込む。その瞳には優しさだけでなく、心配する気持ちが滲んでいた。
「……なんでもない」
私はそっと空を見上げた。夜空には星がちらほらと輝き始めている。この瞬間だけは、この未定義の感情と共にいたかった。それがどんな意味を持つとしても――
――このまま、もう少しだけ。
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