この声は届いていますか

貴千帆

第1話

 4月末のある平日。夕暮れの暖かな陽射しが、図書室の窓から傾いて入っていた。若宮千寛(わかみやちひろ)は、窓際から少し離れた、壁際の岩波文庫の棚の前に腰を下ろしていた。手にしていたのは、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』―上巻第二巻、「倫理的な卓越性についての概説」の第二章。「ではいかに行為すべきか。一般に過超と不足とを避けなくてはならぬ」という見出しを目で追った瞬間、背後からトン、と肩を叩かれた。少し強めの力だった。痛くはないが、気配で誰か分かる。


「いつも待たせて悪いな」


 詰襟の学生服をきちんと着込み、黒髪を短く刈り揃えた質実剛健な少年、丹羽勇輔(にわゆうすけ)がそこにいた。千寛は振り返らずに文庫本をぱたりと閉じる。


「悪いなと言うなら、俺の方だろ」


 立ち上がり、本を棚に戻し、右手で自分の学生鞄を持ち上げる。勇輔と並んで歩き出す。図書室には彼ら以外の姿はなく、しんと静まり返っていた。無言のまま、勇輔はポケットから職員室で借りた鍵を取り出し、入り口の戸を施錠する。


「千寛は、2年でも部活入らないのか」


 勇輔が何気なく口にした。


「高校からは放課後を空けておけって、父様が」


 千寛は答えながら、眉を困ったようにハの字に寄せた。アーモンド型の大きな瞳に一瞬、影が差す。


「まあ、大物政治家の御曹司ともなれば、色々あるよな」


 勇輔が肩を竦めて笑う。千寛はふっと鼻で笑った。二人は靴箱でローファーからスニーカーに履き替え、石畳の通路を歩く。『私立星霜(せいそう)学院中学校・高等学校』と記された赤い煉瓦の門柱の前に、白いミニバンが止まっていた。車体がわずかに沈み、自動で後部座席のドアが開く。


「お帰り、ふたりとも」


 運転席のスーツ姿の男が微笑みながら声をかけた。千寛は軽く会釈をし、丹羽も無言でそれに倣う。千寛が先に後部座席へ乗り込み、勇輔もその後に続いた。静かにドアが閉まり、ふたりがシートベルトをカチリと締めたのを確認して、車は滑るように走り出す。


「今日は、大和(やまと)さんが帰って来てますよ」


運転席から男―若宮家専属の運転手で、千寛にとっては物心ついた時から近くにいる大人の一人である早川(はやかわ)が、何気ない調子でそう告げた。


「兄様が、何の用で?」


千寛は、わずかに眉を上げて言う。冷たくはないが、親しみも込めない声だった。


「その言い方、大和さん傷つくぞ」


勇輔が隣でくつくつと笑った。


「今国会の山場を超えて、一息つけるからって。一泊だけだそうです」


早川の声には、どこか苦笑が混じっていた。東京で国政に携わる長兄・大和は、滅多に大阪の家に戻って来ることがない。


「わざわざ来なくていいのに」


千寛はため息まじりに言い、窓の外に視線を向けた。


「大和さん、お前の顔好きだからな」


勇輔がからかうように言って、千寛は肩をすくめた。


「東京に似たような顔がもう一人、いるのにな」

「瑠璃(るり)とは似てるようでちょっと違うからな。兄妹って言っても、男と女でだいぶ印象違うだろ」


勇輔の言葉に、千寛は返さず、ただ口元を少し歪めた。


「瑠璃子お嬢さん、久しく会ってないなあ。中学生になられたんでしたっけ」


早川が懐かしむように言うと、千寛は短くうなずいた。


「そう、お嬢様学校。生意気さに拍車がかかってなかったらいいけど」

「それから逃げて大和さん、大阪に来たのかもな」


 勇輔が笑う。車内に柔らかな笑いが広がるが、千寛だけは笑わず、窓の外の夕焼けを見つめていた。沈みゆく陽に照らされて、星霜学院の校門が遠ざかっていく。白いミニバンは、やがて街の喧騒の中に紛れていった。

 ミニバンが門の前に差し掛かると、早川がリモコンを操作し、静かな音を立ててガレージのシャッターが上がった。車が中に入ると同時に、千寛と勇輔は後部座席のドアを開けて降りた。赤煉瓦と白壁の瀟洒な洋館風の邸宅。だが、門に表札はなく、まるでこの家がこの街に存在していないかのようだった。二人は正面玄関には向かわず、ガレージの奥にある勝手口の方へ歩いていく。

 その動きを、どうやら先読みしていたらしい。勝手口のドアを開けた瞬間、そこに立っていたのは、私服姿の大和だった。スーツではなく、薄いグレイのトレーナーにダメージジーンズ。だがその穏やかな雰囲気の中にも、国政に関わる者特有の鋭さが、どこかに滲んでいた。


「おかえり、千寛」


 言うが早いか、大和はまだ靴も脱いでいない千寛をぐっと胸に引き寄せ、抱きしめた。


「いろいろ、きつい」


 千寛は抵抗するでもなく、小さく呟いた。大和は、柔らかく波打つ栗色の髪をわしゃわしゃと撫でる。その横で、勇輔は慣れた手つきでさっさと靴を脱ぎ、家の中に上がった。


「今回はおじ様は来られないんですか」


 勇輔が振り返って訊ねる。


「親父は、幹事長と次の内閣改造のことでバタバタしてる。地元周りは当分、厳しいんじゃないかな」


 そう言いながらも、大和は千寛を胸に抱きしめたまま、微動だにしない。


「し、死ぬ…」


 千寛は鞄で大和の胸板をぐいぐいと押し返す。ようやく解放されて、肩で息をついた。その頬を、大和は両手で優しく挟み込み、目を細めて笑った。


「いつ見ても綺麗な顔だなあ、千寛は。お兄ちゃんだぞ?」

「わかってるよ。…おかえり、兄様」


 千寛はあしらうように返しながら、ようやく靴を脱いで中に入った。


「ただいま、母さん」


 勇輔がキッチンに顔をのぞかせながら、軽く手を上げて声をかける。


「佐枝子(さえこ)さん、ただいま帰りました」


 その後ろから続いた千寛も、丁寧な口調で挨拶をした。


「おかえり、勇輔、千寛くん。千寛くんに東京からお手紙が来てたわよ」


 エプロン姿の佐枝子は、ちょうどかき揚げを揚げ終えたところだった。油の香ばしい匂いが、キッチンいっぱいに広がっている。そこに、すでに勝手口から回ってきた大和が現れ、ふらりとキッチンに足を踏み入れた。


「佐枝子さんの料理は、やっぱりほっとするなあ」


 そう言いながら、揚げたてのかき揚げの切れ端を器用に指で摘む。


「やっぱりって言うほど、大和くん、この家で生活してないでしょ」


 佐枝子は笑いながらも手を止めず、鍋の油の温度を確かめていた。


「僕も千寛も、まともにお袋の味なんて味わってないからさ。佐枝子さんの料理が、家の味って感じになるでしょ?」


 もう一度手を伸ばそうとした大和の手を、佐枝子は軽やかに菜箸の背でぴしゃりと叩いた。


「ダメよ、もう晩ごはんなんだから」

「はーい」


 大和は子供のように素直に手を引っ込めたが、口元にはまだいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。そのころ、リビングに足を踏み入れた勇輔が、テレビの前のローテーブルに置かれていた桜色の封筒に気づいた。


「千寛、瑠璃からだ、手紙」


 封筒を指でつまみ上げながら、丹羽が言う。


「瑠璃?」


 千寛は鞄をソファの横に置いたまま、受け取ろうと手を伸ばしかける。


「二人とも、手洗いうがい」


 佐枝子の鋭い声がキッチンから飛んできた。声には咎めるような響きはなかったが、逆らうこともできない、絶妙な母親の圧がそこにあった。


「…はいはい」


 勇輔が苦笑しながら封筒をテーブルに戻し、千寛と共に洗面所へと向かった。洗面所の鏡には夕暮れの残光がかすかに反射し、白いタイルの壁が仄かに橙色を帯びていた。千寛がコップに汲んだ水でうがいをしていると、隣で手を洗っていた勇輔が、何気ない調子で問いかけた。


「大和さんの母親も、千寛たちのお母さんみたいに、早くに亡くなった人?」


 千寛はぐちゅぐちゅと口の中の水を転がし、やがてそれを流しに吐き出した。


「いや、兄さんの母親は離婚だよ。まだ生きてる」


 タオルで口元を拭きながら、淡々と答える。


「…会ったことは無いけどな」


 その声には、感情らしいものが含まれていなかった。ただ、言葉だけが、時間を切り取るように静かに落ちていった。


「俺の母さんは、瑠璃を産んで亡くなったけど」


 それだけ言って、千寛は洗面台の前で、鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。頬の骨格、目元の陰り、眉の形。それは誰に似たのだろうと、時折ふと考える。


「まあ、おじ様はモテるだろうしなあ」


 勇輔が、手を拭きながら苦笑混じりに言った。


「若い頃は日劇の俳優みたいだったって、しきりに言うし。今も芸妓さんとかには、わりと人気あるらしい。兄様が言ってた」


 千寛は、鏡から視線を外さずに応じる。


「まあ、千寛と瑠璃の顔見てたら、血だろうなとは思うな」


 勇輔の言葉に、千寛はわずかに眉をひそめ、問い返す。


「兄様は?」


 その瞬間、勇輔はいたずらっぽく口元に人差し指を当てた。


「シー」


 そうして二人はリビングへ戻り、ソファに腰を下ろした。早川がローテーブルの上にあった桜色の封筒を持ってきて、恭しく差し出した。封筒には、整った筆跡で《若宮千寛様》と書かれていた。千寛は受け取り、ペーパーナイフで丁寧に封を切る。中から出てきたのは、折りたたまれた便箋が二枚と、写真が二枚。


「筆まめだなあ、お嬢さん。字も綺麗だ」


 早川が感心したように目を細める。便箋は「お兄様へ」という一文から始まり、東京の女学院での新生活について綴られていた。周囲には旧華族や財閥の令嬢ばかりで、似たような人種に囲まれて退屈していること。母親の勧めで茶道部に入部したこと。結びにはこう記されていた。


《写真の感想、お手紙でください。待ってます 瑠璃子》


「相変わらず、瑠璃も千寛が大好きと。これだけ美人のブラコン妹がいたら、一生独身かもな」


 勇輔が笑いながら、写真を千寛に見せた。一枚目の写真には、戦前から変わらないデザインの、襟元にリボンがあしらわれた濃紺のワンピース制服を着た瑠璃子が、東京・世田谷の実家の庭に咲く桜の木の下で微笑んでいた。もう一枚は、茶室らしき和室で、正座してお点前をする姿。


「これくらい、どこにでもいるだろ」


 千寛は一瞥をくれるだけで、淡々とした口調でつぶやいた。だが、隣でその写真を見た早川は―まるで額縁越しに美術品でも眺めているかのように―無言でじっと、穴が開くほど見つめていた。


「さ、二人とも着替えてきて、ごはんにするわ。早川さん、運ぶの手伝って」


 キッチンから佐枝子の明るい声が響いた。鍋の蓋を開ける音と、味噌汁の湯気の立つ匂いが、リビングの空気に混じる。千寛は手元の便箋と写真を丁寧に桜色の封筒に戻し、ソファの上に置いていた鞄と一緒に抱えて立ち上がった。勇輔も続く。リビングを抜け、廊下を進み、階段を上がっていく。二人の部屋は、二階の廊下を挟んで隣り合っていた。


 勇輔の父親は、千寛の父・若宮寿一郎(じゅいちろう)議員の長年の公設秘書である。その縁で、二人は生まれたときから互いの存在を知っていた。だが、本格的に「家族のような」時間を過ごすようになったのは、千寛と勇輔が星霜学院中学校に進学が決まった年からだった。

 北摂の閑静な住宅地にあるこの家は、若宮家が複数所有する物件のひとつだった。寿一郎が千寛のためにリフォームし、丹羽家が管理を兼ねて住むようになったのだ。現在、この家には佐枝子と勇輔、そして千寛の三人が暮らしている。

 一方で、戸籍上の母親である若宮寿一郎の妻は、千寛の同母妹・瑠璃子と共に東京・世田谷の実家にいる。家庭内での距離感は、時に地理的距離よりも深い。

 北摂のもう少し山手に位置する若宮家本屋敷と呼ばれる広大な屋敷は、今では選挙期間中に寿一郎が泊まる以外、管理人の老夫婦しか住んでいない。手入れの行き届いた庭と数多の和洋折衷の部屋も、今は静かに季節の移ろいを受け止めている。

 二階の廊下を歩きながら、千寛は何気なく、封筒を持つ手に少しだけ力を込めた。部屋のドアを静かに閉めたとき、廊下の向こうから揚げ物の香ばしい香りがかすかに漂ってきていた。


 千寛は勉強机の隅に置いた桜色の封筒をちらと一瞥しながら、ジャージの裾を整え、軽く息を吐いた。天井近くの照明が、机の木目にやわらかい陰影をつけている。写真に写る瑠璃子の微笑みは、少しだけ大人びて見えた。中学生になったばかりとは思えない、整った顔立ちと、どこか計算されたような立ち居振る舞い。だが、千寛はその写真の向こうに、いつか自分の腕をぎゅっと掴んで「にいさま」と呼んだ幼い声を、無意識に重ねていた。

 自分の母が死んだと聞かされたのは、四歳の時だった。けれど、それ以前に彼女と暮らした記憶はない。母は病弱で、北摂の本屋敷に静養していた。今では選挙期間中に父が泊まるだけになったその広い屋敷に、かつて彼女はたったひとりで、息を潜めるように暮らしていたのだという。写真立てのひとつもない、白い部屋だった、と誰かが言っていた。

そんな母の生きた姿も、千寛は知らない。だからこそ、瑠璃子の「母を知る子供」としての時間が羨ましくもあり、また奇妙に遠いものにも感じられた。

 彼女と父との間に流れているもの。血か、愛情か、それとも単なる政治家の家の継承者としての配慮か―それは千寛にとっては、ただひとつの事実でしかない。母ではない人が母として生活に入り込み、自分がその存在を当然として受け入れるうちに、もともとの「母」は記憶から抜け落ちていった。ジャージの上を羽織り、軽く袖をまくる。手紙の返事は、あとで書けばいい。


 千寛はドアノブを回し、明るい照明の下、食卓のある一階へと足を運んだ。



 食卓にはすでに夕餉の名残が残り、空いた器の隅にだけ、揚げ物の衣がカリカリと乾いていた。代わりに今、テーブルの中央に置かれていたのは、銀色の箱に入ったシュークリーム。


「品川駅で買ってきたんだよ。これ、美味しいらしいって他の秘書連中が言ってたから」


 そう言って大和が箱を開けたとき、勇輔は「うわ、高そう」と目を丸くした。柔らかい皮にクリームがたっぷり詰まったそれを口に運びながら、団欒の空気がゆったりと広がる。


「大和さん、明日の朝は何時に本屋敷に行きます?」


 早川が、大和に向かって穏やかな声で訊ねた。


「本屋敷?」と、千寛が反応する。


「午前中のうちに大阪を出たいから、9時には着いておきたいな。千寛も来るか?明日は土曜日で学校は休みだろ。勇輔も良ければ」

「俺も、ですか」


 勇輔は、口の端についたクリームを指でぬぐいながら言った。


「今度、今の政権が戦後最長を更新した内内のお祝いを、あそこでやることになってさ。親父が、千寛も参加させたいらしい。大人の中に千寛一人じゃ浮くだろうし、どうせ丹羽さんも来るから、勇輔もどうだって」


 千寛は勇輔の方をちらと見た。勇輔は一瞬だけ考え込み、そして軽く頷いた。


「じゃあ、行こうかな」

「最長、になるのね」


 佐枝子が、感慨深そうに声を漏らす。


「最初はどうなるかと思ったけど…」と、どこか懐かしむように微笑んだ。


「まあ、第一次政権の解散総選挙が、自衛隊の自衛軍化を争点にしてましたからね」


 早川がナプキンで手を拭いながら言う。


「国論を二分するほどではないことは分かってたけど、予想外の安定ではあるのか」


 千寛が、残り少なくなったシュークリームをフォークで押さえながら呟いた。


「予想外ではなかった?」


 大和がすぐに返す。


「CIAとかSCIENCEPOなんかのシミュレーションでは、あと5年早くても可能だったって出てた。だから、かなり慎重な運用だったと思うよ」

「そんなもん見てるのかよ」


 勇輔が驚いたように言うと、千寛は少し笑って言った。


「勇輔の待ち時間にね」

「千寛さんは、寿一郎さんが傑作というのも頷けますね」


 早川がやや感心したように言い、千寛は肩をすくめた。


「まあ…世田谷の家で、散々語学だの政治学だのやらされたから」


 そう言って、シュークリームの最後のひとかけらを口に運ぶ。甘さと滑らかさが、ゆっくりと舌の上でほどけていった。



 翌朝、白いミニバンは北摂の住宅街を抜け、一際大きな門の前でゆっくりと停まった。千寛と勇輔はラフな格好で後部座席に、大和はスーツ姿で助手席に座っていた。運転席には早川。車内は朝の光に満ちていて、少しだけ緊張感の混じった静けさが流れている。

 早川が車を降りて門の脇にあるインターホンを押す。その様子を見ながら、千寛は3列目シートに置かれている大和のボストンバッグに目をやった。


「このまま新大阪?」


 何気なく尋ねると、大和はちらりと後ろを振り返る。


「寂しいか?」

「な訳」


 千寛は肩をすくめて答えた。その直後、早川が戻り、鉄の門が音を立てて開いた。


「うわあ…」


 勇輔が小さく声を上げる。門の向こうには、車が20台は停められそうな広い敷地が広がっていた。さらにその奥には、まるで国宝級の史跡か、あるいは格式ある老舗旅館のような、日本家屋が静かに佇んでいた。瓦屋根に白壁、柱や梁には時間の重みが刻まれている。車は玄関に最も近い場所に停められ、大和が先に降りる。千寛と勇輔もそれに続いた。

 玄関では、若宮家本屋敷の管理を任されている老夫婦―赤松夫妻が待っていた。白髪の赤松が深々と頭を下げる。


「お久しぶりでございます」

「悪いね、朝から」


 大和が軽く頭を下げながら言う。赤松夫人の方は千寛をじっと見つめ、一拍の間を置いてから、やわらかい声で言った。


「お帰りなさいませ」

「お久しぶりです」


 千寛はそう返し、大和の後ろについて玄関に上がった。備え付けのスリッパに足を入れる。


「俺と早川は赤松さんたちと打ち合わせがあるから、二人は好きに見てな」


 大和が振り返って言ったので、千寛は頷き、勇輔に向き直った。


「案内する。…と言っても、俺もここに来るのは小学生ぶりなんだけどな」


 二人は廊下を進み、日本庭園の見える一室に入った。磨き上げられた畳に、低く差し込む朝の光。庭に面した引き戸と欄間に囲まれたその空間は、まるで一幅の日本画の額縁のようだった。


「あのおばさん、なんかお前に言いたげじゃなかった?」


 勇輔が低い声で問う。


「赤松夫妻は古くからの使用人で、俺の母親のことをお嬢様って呼んでたからさ。俺だけじゃなくて、正直、兄様のことも、父様のことも嫌いだと思う」


 千寛は庭の方を見やりながら、静かに言った。


「ここで俺は生まれたらしい。瑠璃も。そして、母が死んだのもここ」


 そう言って、千寛は隣の部屋の襖を静かに開けた。そこは、何も置かれていない十二畳の和室だった。中央に、ぽつんと仏壇だけが置かれていた。

 勇輔はその部屋の隅から、再び庭の方へ視線を戻す。障子越しに見えるのは、苔むした庭石、よく剪定された松、静かに揺れる竹。引き戸と欄間で切り取られたその風景は、外界とはまったく別の時間を生きているようだった。千寛の目もまた、仏壇の上の香炉を越えて、その静かな庭に吸い寄せられていた。

 しばし沈黙が流れていた十二畳の和室で、勇輔がふと何かに気づいたように口を開いた。


「…お前のお母さんが若宮のお嬢様なら、おじ様は婿養子?」


 千寛は、無言で頷いた。


「そう。父様は、もともと祖父が議員時代に議員会館で働いてた、政治家の家系でもないただの職員だった」


 語る声には抑揚がなかったが、どこか諦念に似た静けさがあった。


「ただ、一職員で終わる器じゃなかったんだな」


 勇輔がそう返すと、千寛は少しだけ笑ったような、そうでないような顔をした。


「祖父には、病弱の俺の母しか子供がいなくてさ。後継者選びに難航してたときに、ぽっと現れた父様に、可能性を見出したんだと思う。…で、既婚者で息子もいた父様を離婚させて、若宮の家に入れた」

「…離婚させられたのが、大和さんの母親か」


 勇輔の言葉に、千寛は今度は少し目を伏せた。


「昔から、若宮家は男の家って言われて。女性に対する扱いが、良いとは言えなかった。もちろん多額の慰謝料を渡して、兄様の母親は今、海外で悠々自適な生活をしてるらしいけど―金で黙らせて国外にやったっていう見方も、できなくはない」


 勇輔は黙って頷いた。その事実の重みは、想像よりも大きかった。


「おじ様にも、大和さんにも、若宮家の血は流れていないんだな」

「うん。…でも、それを気にするのは、もうこの家の老夫婦くらいだけどな」


 千寛は仏壇の方へ顎をしゃくった。


「仏壇、見てみなよ」


 勇輔は促されるままに、仏壇に近づいた。中には、一本の線香と、小さな茶碗、そして一枚の写真。艶のない黒髪をゆるく結い、着物姿で椅子に座った若い女性―それが、千寛と瑠璃子の実母の写真だった。


「…似てないな」


 思わず漏れた勇輔の言葉に、千寛は微かに頷いた。


「うん、まったく」


 たしかに写真の女性には、千寛の面影も、瑠璃子の華やかさも見えなかった。顔立ち自体は整っている。けれど、どこか影を落としたような表情の奥に、声すら出せない何かが沈んでいた。


「…ここで生まれて、ここで死んだんだ」


 千寛の声が、仏間の障子に吸い込まれるように、低く響いた。


「この母親から生まれたことは事実だし、血は流れているけど…この母親の子供っていう気は、あまりないんだよな」


 仏壇を見つめたまま、千寛がぽつりと呟いた。その声音には冷たさも寂しさもなかった。ただ、遠くのものに触れずに済ませようとするような、やわらかな距離があった。

 続けて、千寛は小さく微笑んだ。


「…よっぽど佐枝子さんの方が、母親って感じするよ」


 空気の重さを破るような、その笑みは静かに場を照らした。勇輔は隣で肩をすくめて笑った。


「なら俺たちは兄弟だな」


 その言葉に、千寛の笑みがほんのわずかだけ深くなった。ちょうどその時、遠くの廊下から早川の声が響いた。


「千寛くーん、勇輔くーん、こちらにどうぞ」

「はーい」


 勇輔が返事をして廊下へ顔を向ける。千寛は最後にもう一度、仏壇の写真に視線を送った。写真の中の母は、静かに微笑んでいるようで、その笑みの意味が何なのかは今も分からなかった。家に囲われて生き、家に殺された―その運命に飲み込まれるようなこの人のようには、自分はなるまい、と千寛は心の中で静かに誓った。

 亡くなった祖父、そして今の父・寿一郎は、共に強烈な野心を持ち、それによって人を導くと同時に、踏み躙ることをいとわなかった。冷徹であることが、家を背負う条件だとでもいうように。だが兄・大和は違う。穏やかで、調整力があり、華やかさこそ千寛や瑠璃子には及ばないが、もっと人の間に立って、空気を読み、無理なく人を動かす力を持っている。

 千寛は思う。この家を継ぐなら、兄様がいい。大和ならば、寿一郎のような野心ではなく、もっと柔らかく、もっと暖かな力で、若宮家も日本も導いていける。ただ、自然に、気がつけばそこにいるような、そんな在り方で。

 勇輔の足音が先に廊下に消えていく。千寛も、遅れて仏間を後にした。ふと、振り返ろうとしたが、そのまま、何も見ずに襖を静かに閉めた。



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