第35話:水に砕かれた驕り
石畳から土の道へ移り変わる頃、静馬はふと立ち止まった。
肌をかすめる朝風の中に、ひときわ冷たい感触が紛れ込んでいる。
(……やはり、気のせいじゃない)
背筋を走る微かなざわめき。
まるで誰かに見られていた余韻だけが、まだ残っていた。
「ねぇ静馬。顔がさっきよりさらに硬いよ」
ラウラの声が苦笑混じりに響く。
「……妙な氣の流れを感じた。だが、もう消えている」
「つまり、誰かがアンタを値踏みしてたってことじゃない?」
「……だろうな」
短い応答の裏で、静馬の瞳はわずかに鋭さを増す。
昨日の戦いが終わったばかりだというのに、次の影がすでに忍び寄っている。その事実が、胸中に重く沈んだ。
やがて街道は開け、遠くには青い屋根瓦を連ねる街区が見え始める。
(……撒き餌作戦、か。俺もその盤上に置かれてしまったのかな)
肩を回し、息を吐く。
陽光を反射する透明な飛沫が、風に逆らうように舞い上がる。
(……来る)
静馬の足が止まる。
そこにいたのは青白い光を纏う長髪の女。その姿は水そのものが形を成したかのように、儚くも確かな存在感を放っていた。
「……ようやく見つけた」
水面に溶けるような低い声が、静馬の耳を打つ。
瞳は氷のように冷たく、だがその奥に揺らめく光は興味と確信に満ちていた。
「お前は……誰だ」
無意識に声が低くなる。
彼女はゆるやかに微笑み、名を告げた。
「私は水の使徒リュミエール。炎を討った者……君の力を、この目で確かめに来た」
広場にいた人々は、不思議と二人の存在に気づかない。
水面に張られた薄い膜が、外界との隔たりを生んでいた。
静馬はその異様さを直感で理解する。これは彼女の力による結界。
「……俺と戦うつもりか」
「ええ。安心して。私が欲しいのは真実……君が本物かどうか、それだけ」
リュミエールの周囲で水滴が舞い、空気がひんやりと震え始める。
ラウラの声が頭の奥で囁く。
「静馬……落ち着いて。挑発に乗らないで。彼女は観察者よ」
女は一歩、静馬に近づいた。
その笑みは水面の波紋のように淡く、しかし確かに迫ってくる。
「――見せてみなさい。君の流れを」
リュミエールの足元から水がしぶきとなって立ち上がる。
瞬く間に槍のように形を変え、水の刃が飛んだ。
「ッ!」
静馬は反射的に後方へ飛ぶ。
刃は石畳を抉りとった。
(速い……!)
彼女の動きは優雅で、しかし容赦がなかった。
水流が鞭のようにしなり、静馬の足元を絡め取ろうと迫る。
寸前でその流れを断ち切ると、飛沫が光の粒となって散った。
「へえ……見えているのね」
リュミエールの瞳が愉悦を宿す。
次の瞬間、彼女の背後から水柱が弾け、槍の穂先のように突き出された。
静馬は気配を読み取り、半身を捻って受け流す。
その動きに、ラウラが思わず声を漏らす。
「今のを……完全に見切った?」
一瞬、互いの視線が交わる。
凍てつく水面のように冷たい彼女の瞳と、燃え残る決意を宿した静馬の瞳。
やがて、リュミエールは、ふっと身を引いた。
水流は霧散し、彼女はその場に静かに立つ。
「……なるほど。ヴァルスを討ったのは偶然じゃない」
その声には、ほんの僅かな興奮が滲んでいた。
「今日はここまでにしておこう。今は、まだ時ではないから」
そう告げると、リュミエールの姿は水面に溶けるように薄れていった。
残されたのは、冷たい霧と水滴の音だけ。
静馬は構えを解き、深く息を吐いた。
(……本気で来られたら危なかったかもな)
「静馬。やっぱり、まだ修行が足りないみたいだね」
ラウラは肩をすくめ、静馬を見据えながら言葉を続けた。
「……正直、使徒って存在をちょっとなめてたよ。今のアンタじゃ、彼女の相手はきっと厳しい」
静馬はしばし沈黙した。
胸の奥に、冷たい針のような痛みが突き刺さる。
(……分かってる。俺の力じゃ、まだ届かない)
あの一瞬に感じた底知れぬ圧力が、頭から離れなかった。それが「使徒」なのだと、嫌でも理解させられた。
静馬は拳をほどき、深く息を吸い込んだ。
そして小さくうなずくと、低く呟いた。
「……足りないんだ。まだまだ俺は弱い」
悔しさが胸を灼くように込み上げてくる。だが、その熱は絶望ではなく、自分を奮い立たせる炎へと変わっていた。
「もっと鍛えなきゃならない。あの力に怯まないように……どんな化け物を前にしても、一歩も退かないように」
彼の声は決して大きくはなかったが、その響きには揺るぎない決意が宿っていた。
ラウラは驚いたように静馬を見つめ、やがて小さく息を吐く。
「……その目なら、信じてあげてもいいわね」
ラウラは不敵に笑みを浮かべた。
「次は死ぬほど厳しい、本格的な戦闘訓練をやるから……覚悟しておきなさい」
「なっ……お、おい待て、死ぬほどって――」
思わず静馬はたじたじとなり、引きつった笑みを浮かべる。
だがラウラの瞳には、冗談の色は一片もなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます