第9話 地雷
僕はおじさんが運転する車が動き出すとすぐに朝の疲れが押し寄せて夢の中に飛び立ってしまい、昨日はずっと脅え生きた心地がしなかった時間が今日は全く脅えることなく一瞬の間に観光予定だった志賀高原に着いていた。
僕は再び結衣さんに起こされたことで心臓を鷲掴みにされたようにドクンと脈打ち、驚きのあまり席を立とうとするがシートベルトによって席に固定され立つことはなかったが、僕の顔を正面から覗き込んでいた結衣さんの顔に額が衝突し、視界に火花が散り意識が飛びそうになった。
「痛い!ジンちゃん、なにするの」
「あ、頭がぁ...頭が」
丈夫な体の結衣さんは額がほんのりと赤くなっただけだが、僕の頭はかち割れたように思うほど痛く、熱と痛みを持った額が腫れ上がり、同じように額をぶつけたというのに怪我の具合に差が生じる不条理を感じながら、額のあまりの痛みに涙を浮かべていると結衣さんにハンカチを目に押し当てられた。
「ジンちゃん、泣いたら化粧崩れる」
「...ッ!ぎゃやぁあああ!」
結衣さんは僕も目元をハンカチで抑えながら、僕の額にできた赤く大きく腫れ始めたたん瘤を触り、結衣さんに突然視界を塞がれたことと、たん瘤を触られて走る額の痛みに、気が付けば僕は叫び声をあげ反射的に結衣さんの体を手で押し退けていた。
「変態!どこ触ってるのよ!」
結衣さんの罵声と共に横腹に強烈な足蹴りが突き刺さり、僕は元々結衣さんから限界まで距離をとりドアに肩が触れるぐらいの位置にいたため、横腹に突き刺さった結衣さんの足の衝撃を僕の体が全て受けることになった。
僕は腹部の余りの痛さに叫び声を上げることもできず、結衣さんの足が突き刺さるままの左横腹を手で押さえながら運転席のシートに頭を預け、顔に苦悶の表情を浮かべ息をするのを忘れて声にならない声を出した。
「結衣、成人君に何してるの!」
「成人君!大丈夫?結衣、早くその足を退けなさい!」
「ぇ、あ!ジンちゃんごめん!」
いきなりの展開におじさんとおばさんも珍しく声を荒げ、怒られた結衣さんは我に返り僕の横腹から慌てて足を離し、今更ながら介抱するように僕の背中を擦り始めた。
僕は呼吸を乱しながら、閉じ切った目からは涙が際限なく流れ、俯いていたため涙は頬に伝うことなく自由落下をし、口から嗚咽音がこぼれた。
「結衣、なんで成人君を蹴ったりしたの」
「ぅ...ジンちゃんに胸触られて、びっくりして気が付いたら蹴ってた」
「事故で触られたぐらいでそこまですることないでしょ、見てたけど成人君のたん瘤を触ってた結衣が悪いわよ」
「うん、反省してる。でも、急に胸触られて...」
「結衣は成人君と付き合っているのよ、事故で触られたぐらいで癇癪起こしてどうするの。反省しなさい!結衣がそんなのだと、高校に入ってすぐにかわいい女の子に成人君取られるわよ」
「ゎ、分かった、気を付ける」
「それじゃあ、結衣は車に残って成人君の看病を任せたわよ。成人君が元気になったら二人で自由に観光してていいわ。集合時間は今からそうね、家で留守番をしている茉依のことも気になるから19時には帰りたいから、ここから家までを4時間と見積もって、15時にこの駐車場に集合よ」
「鍵はスペアの方を置いておくから、車から出るときは鍵をかけるのを忘れないように」
おじさんとおばさんは結衣さんと横腹の痛みで動けない僕を車の中に置いて観光に行ってしまい、普段なら僕は結衣さんに脅えて早く時間が過ぎないかと考えているが、横腹の痛みと息苦しさを耐えることで精いっぱいで、この時の僕に頭を動かしている余裕はなかった。
だいぶ痛みが引き呼吸も安定すると、結衣さんは後部座席に靴を脱いで正座で座り直し、僕に何か言いたげな眼差しを向けながら両手の指先を合わせモジモジと動かしていた。
「あの、ね、ジンちゃん。さっきのことだけど」
僕は唐突に始まった結衣さんの照れながら真剣な話をする姿勢に過去最大級の嫌な予感を感じ、今すぐにでも降車して目の前に広がる雄大な自然のから視線を動かした先に見える駐車場の端に建てられる公衆トイレの中に逃げたかったが、体を動かすと横腹の筋肉が動き激しい痛みを生み出すので、大人しく結衣さんの言葉を聞くしか選択肢がなく、どうしようもない最悪の場合は痛みで気絶してしまったということしようと考えた。
「その、ジンちゃん、お腹蹴ってごめんなさい」
結衣さんにしては珍しく、しおらしい態度で僕の目を見て謝り、本気で申し訳なく思っている様子がうかがい知れた。
「でも!理由があって、...その、ね...」
「...」
「ジンちゃんが私を押したときに!ジンちゃんが私の、む、胸を触って、びっくりしてつい足が出てしまったからで、本意ではないというか、事故というか、今度からこう言ったことがないように気を付けます!」
僕と頬を染め照れる結衣さんの間に沈黙が流れ、その沈黙に耐えかねた結衣さんは勢いに任せて早口で僕に言いたかったことを言い切った。
僕はその言葉に一つ聞き捨てならない単語が含まれており、聞いてはならない、聞き返してならないということは頭では分かっているが、口が勝手に動き言葉を放っていた。
「僕が、結衣さんの..を」
「うん」
「触った?」
「ぅん」
僕は一切の感触が残っていない左手と結衣さんを何度も交互に見直し、僕の問いかけに耳まで真っ赤に染め、頭を低くして俯く結衣さんは消え入りそうなほど弱弱しい声で頷くと、僕は結衣さんが冗談ではなく本当のことを言っているのだと気が付き、僕の視線は結衣さんの顔から少し下がり、その慎ましい胸元に向かった。
「ぇ?全く分からなかっ...」
「最低!ジンちゃんのエッチ!」
恐らくだが、横腹の痛みで僕の頭はどうかしていたのだろう。
『こちらも、ごめんなさい』と謝り、言いたいことがあったとしても波風を立てないように普段ならしていたと思うが、今は全く理性のブレーキが掛からず思った事を口が滑らせてしまい、真っ赤な顔をさらに赤く染めた結衣さんがプルプルと肩を震わせながら、強く握った拳が蹴られた横腹の少し上に突き出され、鳴ってはいけない音があばらの骨から鳴った。
「ぁあっ!ジンちゃんが変なこと言うから!」
「ぼ、僕のせいじゃ...」
我に返った結衣さんは『気を付ける』と言って宣言してからものの数分でその宣言を破ったことに気が付き、蹲る僕に慌てて近寄り背中を擦り、なぜか僕のせいにされた。
昨日は一発。
今日は既に二発。
一日一発ずつ結衣さんから受ける一撃が増えていくのだとしたら、僕はいつか結衣さんに撲殺される未来が見えていまい、一刻も早く結衣さんと別れなければと考えるが、これから同じ家に住み、同じ学校に通うことになるので、どの様に話を切り出せば一番穏便に済むのかを考えなくてはならず、陰キャでオタクの僕が頼れる聖書は恋愛系のライトノベルだが、思い当たるのはどの作品も付き合うためにどのような戦略をとるか、主人公とヒロインが恋に落ちるまでの作品ばかりで、別れるときの作品が脳内メモリに保存されていなかった。
結衣さんの家に向かう途中とはいえ時間とお金をかけてこの観光地に来ているため、オタ活のために少しでも節約したい僕は観光地に来たというにも関わらず観光しないというのはお金がもったいないと考え、陽キャの結衣さんは恐らくだが天気のいい日に外に出たくてうずうずしており、僕と結衣さんの間で各々の目的が合致した結果、現在僕は結衣さんに手を引かれ介護されながら遊歩道をゆっくりと歩いていた。
正直、結衣さんに手を握られる現状は何か不測の事態があった場合に逃げられないので物凄く怖いが、横腹とあばら骨の痛みが引かず、まともに動けない状態ではこれが一番安全に観光できる唯一の方法であるので仕方なく、観光をするには甘んじて受け入れるしかなかった。
「はぁ~、気持ちいい!ジンちゃんもそう思わない?」
「っ!結衣さん痛い!捻らないでください!」
「あ、ごめんなさい」
お日柄も良く、晴れ渡る空に緑が生き生きと輝く豊かな自然にさわやかな風が吹き向け抜け、透き通った湖に、雲が僅かに散りばめられた趣のある空、そのどれをとっても素晴らしいのだが、時々結衣さんが大きく動き僕の体を大きく捻ることさえなければ、文句なしの完璧だった。
結衣さんの力が強く痛みが引くことに時間がかかりすぎたせいで、現在の時刻から考えると途中で引き返すことになるが、どこに行くのかを決める際に結衣さんがインスタに上げる写真を撮りたいと言ったことで大沼地を目指して歩いていた。
「ジンちゃん、今日はいろいろとごめんなさい。私が蹴らなかったらみんなで観光楽しめたはずだったのに」
唐突に結衣さんの気分がブルーになり、僕はどう返すことが正解なのかが分からなかった。
正直に答えるとすれば、『今日に限った話ではないので気にしなくてもいいです』だが、これは昨日から結衣さんに迷惑と思っていると言っているようなもので、間違いなく結衣さんは怒ることになる。
結衣さんの機嫌を直すべく、『僕が蹴られた原因は僕にありますし、僕こそ結衣さんの胸を触ってごめんなさい』と答えたらどうだろうか、確かに事故とはいえ、触ったことに気が付かなかったが、結衣さんの胸を僕は触ってしまっていたらしく、そのことが原因である事もまた事実だ、であるならば原因の一端を担っている僕も謝った方がいいのか?
「僕が蹴られた原因は僕が...」
結衣さんを勇気づけるべく口を開くが、僕が平和に過ごすのならば結衣さんの機嫌を直す必要はないのではという考えが浮かび、言葉の途中で言葉を止め、景色に感動している風を装って考えに耽った。
結衣さんがブルーの時は、僕が結衣さんのスイッチを入れない限りは叩かれることもなければ暴言を受けることもないはずで、『僕が何もしなければ結衣さんを恐れることはないのでは?』と考え、僕が結衣さんを元気付けてしまったがために、この後の4時間もある帰路の車の中で脅えて過ごすことになるとすると、結衣さんに元気を取り戻してもらっては困る。
が、僕が刺激して怒らせてもいけないので、ここは聞こえなかった方が良さそうだという結論に至った。
「『僕が』なに?私のコンプレックスの話を掘り返して何が楽しいの?」
「ぇ?...原因が、触った僕にもあるって言いたかったです」
結衣さんの発言をスルーする方針を急遽転換したが、途中で方針を転換したことが余計に事態を悪化させてしまった。
結衣さんは、僕が以前に逃げた前科があるため手を万力のごとく握り締め、目は座っていて今朝鏡の中で見た僕と同じように死んだ目をしているが、その奥には僕とは違い底が見えない暗い闇が見え、引き攣った笑みを浮かべた。
僕はアパレルっショップでの経験から、これ以上結衣さんを刺激すると飛んでくる制裁をHPが赤ゲージの状態の僕では耐えきれないことを直感で理解し、途中で止めていた言葉を再開させた。
「ジンちゃんは車の中で『触ったことに気が付かなかった』って言ってなかった?」
「...それは。その...ですね、なんていうか...はい。ごめんなさい、気が付きませんでした」
「だったら、ジンちゃんは悪くないよね、触ったこと自体気が付かなかったんだしさ。そもそも、事故だったんだし」
僕は結衣さんの地雷を踏みぬいてしまい、想定と全く異なる反応が結衣さんから返され、何かこの場を乗り越えられる完璧な言い訳を考えるが、即興で結衣さんを鎮める言葉を探すことはできず平謝りを行った。
「そうだよ、ジンちゃんは悪くないの。悪いのは全部私だから、触られても気づかれない大きさしかない私が悪いんだよ。だからジンちゃんは気にしないで良いから。ジンちゃんは少しも、何一つ悪くないの、分かった?」
「...は、はぃ」
「行くよ、ジンちゃん」
結衣さんは僕の手を痛いぐらい握り締め、僕の歩調に合わせることなく歩みを始めて僕の腕を強く引っ張り、横腹とあばら骨がひどく痛むが悲鳴を上げれば結衣さんを刺激しかねず口を押さえ苦悶の声を殺した。
僕たちが約束の時間に駐車場に向かうとおじさんとおばさんが先に戻って車の中で待っており、結衣さんの様子を見たおばさんは何が起きたのかを理解し大きな溜め息を付いた。
結衣さんの家に向かう間の車の中は僕の肩身は狭く、見るからに苛立っている結衣さんを刺激しないように気配を極力消し、車に流れるラジオだけが車の静寂を破っていた。
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