第20話 ニセモノ、ベッドに誘われる
「おまえさ、おやじ、梶川電工社長の梶川由起夫だっけ。仲がいいのか?」
誘いの言葉を、僕は質問で返した。
心臓が激しく打つ。今、彼女に誘われているのは、紛れもなく、アレだ。
僕の方はといえば、体は経験豊富な浅野拓海でも、中身はニセモノ。童貞だ。経験者のように、上手に腰を振れるわけじゃない。
簡単にメッキが剥がれてしまう。
長い長い沈黙があった。
「どうしてそんなこときくの?」
梶川さんの声は、蚊が鳴くようだった。
おまえって言うな、とも、この時は言わなかった。
「いや、家に帰りたくないみたいだからさ、親子仲が悪いのかなと思って」
「仲いいよ」
「じゃ、なんで帰りたくないんだよ」
「いいじゃん、別に」
ゆっくりと、名前のつけようのない時間が過ぎてゆく。
突然、悪魔に背中を蹴飛ばされた。
気が付くと、僕は立ち上がっていた。
パジャマの下半身は、恥ずかしいほどテントを張っている。
獣みたいな荒々しさでベッドに上がり、梶川さんの上に馬乗りになった。
僕の影に、梶川さんの恐怖に怯えた顔があった。
「おまえ、おやじに
悪魔にそそのかされたとはいえ、我ながらサイテーなセリフだ。
梶川さんが目を大きく見開く。
彼女を苦しめる記憶を、わざわざ抉り出している。
係わってはいけないと自戒していたのに。
一分経過。
一分三〇秒経過。
「あんたに答えなくちゃいけない?」
蚊の鳴くような声が返ってくる。
ちょっと声に感情が乗っていた。少なくとも、否定しなかったことは重大だ。
事実でなければ、即座に否定して、なんなら怒りだしてもいい質問だったのに。
「何度も
三〇秒経過。
「おとなってクソだな」
残忍な喜びを感じた。
弱い者をいたぶり、追い詰める喜び。
いじめられたことはあっても、いじめたことはない。
そんな自分の中にも、どろどろした忌まわしい愉悦があったなんて、今日まで思いも寄らなかった。
「うるさい。黙ってさっさと私を犯せよ、やりチンのくせに」
突然起き上がった梶川さんは、僕に枕を投げつけた。
僕は思わずベッドから転がり落ちた。
「歯も磨かねえ女とキスできるか」
僕も枕を投げ返す。
きゃっ、と梶川さんが髪を振り乱し悲鳴をあげる。
「カッコつけるな、歩くちんぽ」
また枕が飛んでくる。
僕も枕を投げ返す。
修学旅行みたいになってきた。
枕が梶川さんの顔に直撃した。あっと思う。梶川さんの顔が歪んだ。
目からぼろぼろ大粒の涙が落ちる。
「私がきたないから抱けないんだろ。わかってるよ。パパと
布団に落ちる涙をみつめるうち、突然、強い衝撃が頭を撃ち抜いた。
目からウロコのような物が落ちた。これは聖書の表現だけれども。
(そうか。そういうことか)
わかった。
わかってしまった。彼女の歪みの原因が。
仙腸関節を触診した時のように、はっきりと。
「とんでもない勘違いをしてる」
ちょっと興奮気味に、僕は叫んだ。
「おまえ、おやじと共犯者のつもりでいるだろ。世間に対して、2人で秘密を抱えてるって。でも違うぞ。おまえは被害者だ。わかるか?」
ずりずりと這って、ベッドの梶川さんへ近付いた。
「おまえのおやじはな、性的虐待の加害者。訴えなきゃいけない相手だよ。おまえは被害者だ。共犯者じゃない。まずはそこを理解しなきゃ――」
「うるさい、うるさい、うるさい」
彼女はいきなり頭をかきむしり、怪鳥のような声をあげて、ベッドの上で身もだえした。
かと思えば、ベッドから降り、僕の頭を両手で掴んで思い切り揺さぶり、腕に噛みついた。
「いててててっ」
泣くほど痛かった。
梶川さんは、半狂乱で、布団を投げ、机の上にあるものを片っ端から投げた。
水の入ったペットボトルは宙に輪をかいて床に落ち、中身を床にぶちまけた。
ノートは引きちぎられ、シャーペンやボールペンは床に散乱し、本も参考書も打ち付けられて、床に落ちた。
唖然としている僕の顔に、図書館の本が飛んできた。背表紙が直撃し、鼻血が出た。
とっくに、彼女には限界がきていたのだろう。
彼女には、専門の医療機関で受診し、なんなら入院して服薬し、安全な環境で治療する必要があった。
彼女の中にあった「共犯者」の意識が、それを妨げていたのだと思う。
そして、僕はこうも思った。
聖書に、日の下に新しいものなど何もない、と書いてあるように、梶川さんの家庭が特別なわけじゃなくて、たぶん声をあげないだけで、こんな事例は身近なところに、いくらでも転がっているんだろうと。
暴れるだけ暴れると、梶川さんはベッドに倒れ込み、犬のように大声で泣きだした。
手の施しようがなく、さらに1時間経過。
犬のようにわんわん泣いていたのは最初の10分くらいで、それからは納豆が糸を引くような細い声が30分。
それが途切れて以降は、鼻水をすする音だったり、しゃっくりのような声だったり、そういうのがずっと聞こえた。
僕も眠れなくて、眠れないまま床に転がっていた。いろんなことが頭の中に浮かんで消えた。
今日のこととか。
過去にやらかした、恥ずかしい失敗のこととか。
いつも恥ばかりかいてきたから、こういうことを考え始めると、際限がなくなる。
(ん?)
堀部さんが帰り際に言った、あの不思議な言葉が頭に浮かんだ。
「恥の多い生涯を送ってきたのだもの」
僕は床に、上体を起こした。
そう。前後の会話から浮いていたから、あれはきっと暗号。
なんの暗号?
恥の多い、とは、太宰治の有名な小説の書き出しだ。
そういえばあの小説の主人公は、たしか葉蔵。
でも、あの小説に、苺のムースは登場しない。
登場はしないが、なにか関係があるはずだ。 苺のムース。苺のムースはピンク。ピンクといえば甘い。甘いといえば――
「あああーっ」
僕は跳ね上がった。
大声に驚いたのだろう、梶川さんも飛び起きた。
「なんなの?」
答えている余裕はなかった。僕はキッチンに駆け込み冷蔵庫を開けた。
苺のムースが2つ、小さな容器に入れてある。
まったく何という人だろう。
梶川さんを一目見て、堀部さんは、こんな展開を前もって予想したに違いない。
だから、急いで苺のムースを作ったのだ。
太宰治のあの有名な小説の中で、まだ中学生だった主人公の葉蔵が、同居する年上の女性に戸惑いながらも、女が急に泣き出したりした場合、甘いものを食わせればきっと落ち着くことを経験上知っていた、と独白している。
印象的な場面だから、小説好きならピンとくるだろうと、堀部さんは考えたのだ。
ムースをすくうスプーンを2つ用意した。それから、アプリコットの甘い紅茶も。
「梶川、苺のムース、食べないか」
トレイにムースと紅茶ポット、カップを一組ずつ乗せて部屋へ運んだ。
「いらない」
案の定、半分泣き声まじりに梶川さんは断った。
「そっか。おれは食うぞ」
床にトレイを置いて、僕はあぐらをかき、ムースをスプーンですくった。
「うまい」
ベッドの上の梶川さんは身動きしない。
でも、耳を澄ましているのがわかる。
「甘さもちょうどいいぞ」
紅茶も淹れる。アプリコットの甘い香りが深夜の部屋に広がった。
とうとう梶川さんが動いた。
「私も、食べる」
ベッドから降りてくる。
あらためて堀部さんの優秀さを実感した。あの
甘い苺ムースを口に運んで、梶川さんは落ち着いてきた。
その様子を見るうちに、堀部さんに対する奇妙な対抗心が燃えた。
負けてられるか。そんな気持ちだった。
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