パンドラの揺籠

PLANNER WORKS

第2話 すれちがう温度

※第1話はnoteに掲載しております。

リンクはこちら▶ https://note.com/planner_works/n/n9a655aac6aaf




「正しさ」は、誰のためにあるのか――


認知症を抱えた祖父に、若き孫がかけた1,000万円の保険。

契約は“形式上”完璧だった。

けれど、そこには確かに“誰かの沈黙”が存在していた。


“保険×社会”の静かな闇に迫る、社会派ミステリー第二話。



―――――――――――――――――――――――



第1章 意図的な完璧



「神野さん、今日の報告、ひとつ“朗報”です」


午後の空気が緩やかに流れる事務所で、藤崎結月がファイルを抱えて入ってきた。

声の調子はやや明るく、ほんの少し誇らしげだった。


「私が担当したご契約で、保険金の請求がありました。

書類はすべて問題なし。査定もスムーズに進んでいます」


神野は、書類から視線を上げる。


「…朗報、ね」


その一言に、結月ははっとしたように口をつぐんだ。


「あ、いえ、その…そういう意味ではなくて。手続き上は何の問題もなく、という意味で…」


軽率だったかもしれない。彼女自身も、それにすぐ気づいた。


「保険金が支払われるということは、誰かが亡くなったということだ。

それは“良い知らせ”ではない。ただ、それでも私たちは、その責任をまっとうするのが仕事だ」


「…はい」


わずかな沈黙のあと、結月は静かにファイルを机に置いた。


「契約者は、斉藤大地さん、28歳。

被保険者はお祖父様の斉藤繁さん、享年85歳です。

昨年6月に契約されて、先日9月15日に亡くなられました。ちょうど1年と3ヶ月が経過していて、免責もありません」


神野はうなずき、契約書の控えに目を通した。

終身保険。死亡保険金は1,000万円。契約者・保険料支払者ともに大地。被保険者は繁。

申込書の最下段には、繁本人の署名と確認印が、確かに記されていた。


「告知内容は?」


「“通院歴なし・既往歴なし”です。当時の年齢にしては、正直かなり理想的な内容でした。

私、面談に立ち会っていたんですけど…繁さん、すごくしっかりされてました。“最近の若い者は漢字も書けん”なんて、むしろ大地さんより冗談飛ばしてたくらいで」


神野は、彼女の言葉に一瞬だけ目を細めた。


「“しっかりしていた”のか。“そう見えただけ”なのか。その違いが、一番重要なんだ」


結月は、わずかに表情を引き締めた。

自分が“見えたと思っていたもの”が、必ずしも真実ではないということを、少しずつ学び始めている。


「保険料の支払いは繁さん名義の銀行口座からです。引き落としに遅延もまったくありませんでした」


神野は書類を指でたどり、申込書の隅に目を留めた。


――斉藤 繁。

丁寧に書かれた文字。その筆跡は、年齢を感じさせないほど整っていた。

震えも、乱れもない。


「形式は、たしかに完璧だな」


神野は、そう言ってファイルをそっと閉じた。


「…だからこそ、足元を見直す必要がある。“完璧すぎる”契約というのは、たいてい何かが隠れているものだ」



―――――――――――――――――――――――



第2章 あの日掴み損ねたもの



翌朝。


神野は、事務所の一角にあるロッカーから専用のノートパソコンを取り出した。

代理店で扱った契約のうち、結月が入社してまもなく単独で面談を行った案件のひとつ。

それが、今回の斉藤契約だった。


「一応確認しておくか」


そう呟くようにして、神野は契約当日の録音ファイルを開いた。ピッという再生音のあと、すぐに結月の明るい声が聞こえてくる。


『では、こちらの保険内容についてご説明いたしますね。』


『ああ、そうかそうか。わしが死んだら、孫に金が入るんじゃな?』


『はい、その通りです。』


初めのやり取りは和やかだった。繁の口調もはっきりしており、質問にもテンポよく答えている。

契約書の内容、保険金の金額、受取人の指定――どれも手順通りに進んでいる。


神野は再生バーを少し進めた。

やがて、音声の中でふと“間”が生まれる。


『…ここって、何屋さんだったかのう?』


その言葉に、神野の指が止まる。


『え? あ…はい、今日は保険のお話で伺っております。さっきご説明した通り――』


少しだけ戸惑ったような結月の声。

そのあと繁が笑いながら、


『ああ、そうだったそうだった。ちょっとごちゃごちゃしとるでのう。すまんすまん。』


神野は静かに再生を止めた。


――“ちょっとごちゃごちゃしとる”。

この一言に、神野は小さな警鐘を聞き取っていた。

老人が話の中で話題を見失うこと自体は、年齢的にも珍しくはない。が、保険契約の現場において、それは“軽視できない兆候”だった。


神野はその場で、再生ログのタイムスタンプを確認し、書き出す。質問内容、回答までの沈黙、そして“質問の再出”があった個所をすべてピックアップする。


「本人の意思確認は、形式上整っている。だが、“中身”はどうか…」


しばらくして、結月がコーヒーを持って神野のデスクに現れた。

神野は、モニターに映った波形データを示した。


「この部分、何か気づかないか?」


結月は音声を聞いて、表情を曇らせる。


『…ここって、何屋さんだったかのう?』


「…あれ?」


彼女は、自分の声を聞きながら、数秒だけ黙り込んだ。


「私、気づきませんでした。あのとき、“冗談交じり”だと思って…」


「その判断が、命取りになることもある」


神野の声は、淡々としていた。


「契約は、誰が“理解したか”ではなく、“被保険者が理解していたか”で成立する。そして、“理解していたように見える”というのは、証拠にならないんだ。」



―――――――――――――――――――――――



第3章 絶妙な隙間



数日後、神野のもとに保険会社から追加の診療情報提供書が届いた。

斉藤繁の死亡保険金請求に関わる、“医学的経過”を示す重要な資料だった。

封筒を開けて神野は静かに目を通す。


最終診断名:アルツハイマー型認知症。

診断確定日:令和3年6月14日――契約日である6月1日から、ちょうど2週間後だった。


「…ギリギリ、か」


神野の低い呟きが、事務所の空気を少しだけ重くする。


この“2週間”という時差は、保険業務において微妙で、そして致命的な意味を持っていた。

保険契約における“告知義務違反”は、契約時点で診断や検査を受けていたかどうかで判断される。

もし契約日より前に診断されていれば、それを告げなかった時点で重大な違反と見なされ、保険金の支払いは拒否される。

だが、診断が“契約のあと”であれば、たとえ数日後であっても、制度上は「告知義務はなかった」と判断される。


つまり――


この“14日間”という差は、「知らなかったことにできるギリギリの時間差」でもある。

保険制度は、“病気そのもの”ではなく、“それをいつ知ったか”で支払うかどうかを決める。

命の価値が、日付の並びで裁かれているのだ。


神野は診断書を静かにテーブルに置いた。

そのとき、結月が茶封筒を抱えて戻ってきた。

その顔には、どこか重さがあった。


「神野さん…病院から追加でもらった資料です。“少し気になって”お願いしたら、こんなのが出てきました」


封筒の中には、外来予約票のコピーと、問診記録の控え。

神野が手に取り、目を通すと――そこには

「もの忘れ外来 令和3年6月14日 初診予約」

と記されていた。

契約日より、ちょうど2週間後の日付だった。

さらに、予約票の備考欄に貼り付けられたメモには、こうあった。


“ご家族より『最近同じ話を何度も繰り返す』『物の置き場を思い出せない』との相談あり。

紹介状発行済み(本人は未診療)”


神野は視線を上げる。


「…この紹介状、“診療行為”に該当しないな」


「はい。かかりつけ医に“大地さんが相談した”という扱いになってます。本人が病院に行ったのは、契約から2週間後の6月14日。

紹介状の日付は5月25日ですけど、“本人未診療につき、告知対象外”って、記録に明記されてました」


神野は無言のまま、予約票と紹介状を見比べた。


制度上、告知対象になるのは“本人が受けた医療行為”のみ。

つまりこのケースでは、書類上も告知上も“問題なし”とされる。だが――


「制度には、抜け道がある。

そしてそれを“見落としたふり”で進める契約が、一番質が悪い」


神野の声は静かだったが、その目にはかすかな怒りが宿っていた。


「今回の契約…大地さんが、本人に“診断が確定する前に保険を通そうとした”構図に見える」


結月は、ファイルを見つめたまま、ぎゅっと指先に力を込めた。


「私…あの時、本当に“お祖父さんがしっかりしてる”って思ってたんです。

受け答えもできていたし、雑談もされていて…でも…今聞き返すと、“何となく笑って誤魔化してた”ようにも…」


「結月。保険の現場では、“本人が理解していたかどうか”がすべてだ。“ちゃんと話してくれた”は、証明にならない」


神野はゆっくりとパソコンを開き、申込面談時の録音を再生した。


『ここって…何屋さんだったかのう?』


そのひと言が、今度は明確に“違和感”として響いた。

答えた結月の声にも、一瞬の戸惑いが含まれている。


制度は、形式に忠実である。だが、その形式に乗ってしまえば――

誰かの思惑が、“合法”の名のもとに成立する。


神野は、録音データを止めながら静かに言った。


「…これは、“正しく組まれた保険詐欺”かもしれないな」


少し沈黙があった後、神野はふと顔を上げた。


「結月。この契約のとき、事前に何か変わった点はなかったか?面談日程の調整とか、相手からの要望とか」


結月は少し考えて、目を細めた。


「…あ。そういえば、最初に大地さんから連絡が来た時、“できるだけ早く契約したい”って、何度も言われたんです。“祖父が元気なうちに”って理由だったんですけど……」


神野の眉が、わずかに動く。


「“元気なうちに”…か。それは、本人の健康を気づかった言葉か。それとも、“本人の意志を問えるうちに押し切りたい”という意味か――」


結月は、答えられなかった。



―――――――――――――――――――――――



第4章 甘い毒



翌朝。事務所に一報が入った。

保険会社からの通知は、あっけないほど簡潔だった。


「査定が完了し、保険金は全額支払われることになりました」


神野は、電話を受け取ったあと、ゆっくりと受話器を置いた。沈黙の中、コトリと鳴る音だけが事務所の空気を揺らした。


何も驚きはなかった。

形式は整っている。診断は契約の後。告知違反もない。

支払条件も、免責期間も、契約の構造も――

すべて「正しい」。


だが、それが却って神野の胸を重くさせた。

“正しすぎる”契約。それこそが一番、信用ならない。



昼過ぎ、神野はひとり、事務所の応接室で電話を取った。向けられた先は、かつて自らが在籍していた保険会社の査定部。

数年前まで“自分の席”だった場所に、今は別の査定官が座っている。


対応に出たのは、中沢翔太――神野の後任としてその席に就いた人物だった。


『…お久しぶりです、神野さん。まだこの業界にいらっしゃるとは』


「皮肉はなしだ、中沢。お互いまだ、制度の内側にしがみついてるだろ」


『いえいえ、僕はもう“馴染んで”しまった方ですから』


「例の件、査定済みか?」


『はい。形式・内容ともに問題なしです。

診断日は契約の2週間後。紹介状も、家族による“相談”にすぎません。告知義務違反に該当する要素は、ひとつもありませんでした』


神野は、ふぅと息を吐いた。


「…問題なしで、終わらせていい案件か?」


『制度上は。私たちは、“制度に照らして判断する”のが仕事ですから』


「制度に照らして…か」


神野は受話器を持ったまま、天井を見上げた。


「お前は覚えてるか?俺たちが査定やってた頃、“形式は整っているが、どこか歪な契約”ってやつが、いくつもあったろう」


『ええ。ありましたよ。でも、そのたびに神野さんは“支払うべきものは支払うべきだ”って、現場に突っ返してたじゃないですか』


神野の口元が、わずかに歪む。


「あの頃は、まだ“誰かが見てる”と思っていた。形式の裏にある意図まで、誰かがちゃんと拾うと信じてた」


『でも結局は、見ない方が制度は滑らかに回る。知らなかったことにすれば、誰も傷つかない』


「それで本当に、誰も救われないことの方が多かったろう」


電話越しに、沈黙。しばらくして、中沢が静かに答えた。


『…神野さん。この制度、正しさを極めすぎて、人の声が聞こえなくなったんですよ。ルールに従うことが、人間味を切り捨てることと同義になる。』


「そのことを、どこかで誰かが知っているべきだと思って、今も俺はここにいるんだ」


神野は受話器を置き、静かに立ち上がった。

デスクには、録音ファイルの波形が青く光っていた。結月が「はっきりしていた」と語った老人の、迷子のような声。


完璧に整えられた契約――

それは、“人の都合を制度で包んだ”結果だったのかもしれない。



―――――――――――――――――――――――



第5章 我が孫の…



契約者・大地の承諾を得て、神野と結月は繁の遺品整理を手伝うことになった。

だが、連絡時に大地はこう言っていた。


『遺品のことは、もう全部そちらにお任せします。僕の方では必要なものは特にないんです。

正直、あまり感傷的になるタイプじゃないんで』


その言葉は、どこまでもドライで、そして不自然なほど“機械的”だった。

結月は電話口で返答をしながら、どこか胸の奥にひっかかるものを感じていた。


訪れたのは、繁が晩年を過ごしていた介護付きマンションの一室。

部屋には、几帳面に並んだ木製の家具、丁寧に畳まれたタオル、そして壁に飾られた俳句の短冊が残されていた。


“我が孫の 名を忘れたり 春は過ぎ”


――たぶん、繁が詠んだ句なのだろう。


神野は、ふと視線を上げた。


「…大地さん、この部屋には、長いこと来ていなかったのかもしれんな」


押し入れの奥を整理していた結月の手元に、小さなICレコーダーがコトンと転がり落ちてきた。

手に取ると、少し埃をかぶってはいたが、見覚えのある古い録音機だった。


「神野さん、これ…お祖父さんの持ち物かもしれません」


電源を入れてみると、まだバッテリーは生きていた。

結月が再生ボタンを押すと、最初に聞こえてきたのは――

繁の、乾いた咳と、ため息交じりの独り言だった。



『…今日は、大地が来る日じゃったかのう…』


その声に、結月は思わず息を呑んだ。


繁の声は、少し迷子のようだった。

それでも、どこか孫を待ちわびるような柔らかさがあった。


しばらくして、若い声が入る。


『じいちゃん。いたいた。ほら、これ、見てくれよ』


『…なんじゃ、その紙』


『保険の書類だよ。じいちゃん、元気だし、万が一のときのことも考えとこうって話になってさ。

俺がやるから、じいちゃんは名前だけ書いてくれたらいいよ』


神野はレコーダーの再生を止めず、眉をひそめた。


『…わしが死んだら、お前、困るんかのう?』


『…まぁ、そうだな。助かるよ、金は。正直なところ』


沈黙。

そこには、空気を読み取るような“躊躇”があった。


『…保険金ってやつはのう、“わしの死”と引き換えなんじゃろ?

お前がそれをもらって、わしは消える。…それは、どうなんかのう…』


『そんなことないって、じいちゃん。

生きてるうちは、なんにも変わらんよ。保険ってそういうもんだからさ』


録音は、そこで途切れた。


神野は、レコーダーを静かに止めた。

部屋には、誰の声もなかった。ただ風の音と、紙の擦れる音だけが微かに響いていた。


「…これは、“形式”では出てこない言葉だな」


結月は、視線を落としたまま小さく頷いた。


「“助かる”って…あの言葉、本音ですよね。

少なくとも、“祖父のため”じゃないってことだけは、わかる気がします」


「繁さんは、それをわかってた。

そして、“わかっていたうえで”書いたんだ。何も言わずに」


神野の視線が壁の短冊に向いた。

“忘れたり”と詠んだその言葉の裏に、忘れたくなかった何かが、確かにあった気がした。


形式に瑕疵はない。

制度はすべてを許していた。

だがそこには、確かに人の心が取り残されていた。



―――――――――――――――――――――――



第6章 氷点下のぬくもり



――保険金は、支払われた。


査定はスムーズに進んだ。形式上の瑕疵はなく、診断は契約の後。告知義務違反にも該当せず、署名も面談記録も適正に整っていた。

神野が事務机の上に置かれた書類に目を通す姿には、迷いはなかった。だが、その表情の奥にあったのは、“納得”ではなかった。


「形式が通ったというだけで、“正しさ”が確定するなら…この制度は、ずいぶんと静かに、人を置き去りにするな」


呟くような独白。

それを聞いた結月は、静かに隣の椅子に腰を下ろした。


「…大地さん、お祖父さんの遺影に向かって、“これで、一区切りです”って言ってました」


神野は目を上げずに答えた。


「“一区切り”か。…何を区切ったんだろうな。

“祖父の人生”か。“金の受け取り”か。それとも、“罪悪感”か」


その言葉に、結月は口を閉じた。

ただ、神野の言葉が、心の奥にじわりと沈んでいくのを、確かに感じていた。


少しの間を置いて、彼女がぽつりと呟いた。


「…温度、なんですね」


「温度?」


「人によって、“保険金”に込める意味の温度が違うんです。私、“保険って何かあったときの“支え”だと思ってたけど…人によっては、“消耗品”とか、“処理”とか、“換金手段”になってる」


神野は、少しだけ目を細めた。


「それでも、“制度の中”では、その温度差は無視される。書かれていることだけを見て、“誰の言葉か”は見られない」


「…でも、それって、“誰も悪くないように見せる”方法なんですね」


「そうだ。“誰かを責めない”ことで、誰も守れない構造が出来上がる。そしてそれが、“正義”として通ってしまう。

制度とは、そういうものだ」



その夜、神野は一人、事務所の奥で提言書の草案を整えていた。

タイトルは既に記されていた。


《認知症初期段階における本人同意の信頼性と保険契約の見直しについて》


本文には、繁の事例を踏まえた制度改善の提案が綴られていた。

“正しく成立した契約”に対して、倫理的な疑義を感じたとしても、現行制度の中では、その違和感は「黙認のうちに処理されてしまう」

――その事実を、彼は真正面から書いた。


「制度を否定する気はない。でも、“その通りに動かすための倫理”が、今は見落とされすぎている」


翌朝。神野が出勤すると、すでに結月は来ていた。

机の上には、前日までの申込書や顧客リスト、そして一冊のノートが置かれていた。


「…あの契約のこと、自分なりにまとめてみました。

私、ちゃんと反省しておきたくて。“しっかりされていた”なんて言ってしまった自分の目線を」


神野は小さく頷き、デスクの引き出しから古びたファイルを取り出した。


「これ、見ておけ。“支払われた保険金の裏にある記録”だ。俺が査定官だった頃から、個人的につけているノートでな。契約書には残らない、“誰かの揺らぎ”を書いてある」


結月は両手でファイルを受け取り、じっと見つめた。


「…制度の外に、記録が残ってるんですね」


「制度は、答えしか残さない。“プロセス”は、記録されない。

だからこそ、俺たちは覚えておく。揺れたことを、見逃さないでおく」



保険という制度は、死とお金を結びつける。

だがそこには、数値では測れない感情と、言葉にならなかった“声”が、確かに残される。


それを拾うのが、制度の外にいる者――

神野湊が、今もこの仕事を続ける理由だった。



第2話 了



―――――――――――――――――――――――



【著者所感】

第二話のテーマは――

「正しく整った契約は、本当に“正義”か?」でした。


書類は揃っていた。告知義務違反はない。

査定も完了し、制度は何ひとつ間違っていなかった。

だがその裏で、“誰かの沈黙”が、確かに存在していた。

今回描いたのは、“完全に合法な倫理違反”。

法は破られていない。誰も処罰されない。

だが、それは“誰も間違っていないこと”とイコールではない。


制度とは、よくできた“教典、聖典”のようなものです。

外から見れば、誰かを守るためにあるように見える。

弱者に寄り添い、救いの手を差し伸べる顔をしている。

けれどその実、制度とは“強者が逃げるための免罪符”でもあります。

感情は排除され、数字が全てを裁く。

そしてその数字を並べるのは、常に力を持つ側の人間たちです。


「感情論に流されてはいけない」――その言葉がどれほど都合よく使われ、

どれほど多くの声が切り捨てられてきたか。


制度とは、絶対零度の正義。

だからこそ、“その中に倫理を残す”には、誰かがあえて迷わなければいけない。

それが、今回の神野の立ち位置です。

タイトルや章題をあえて抽象的にしたのは、

制度という“聖典”の中に沈んでいった感情たちに、形を与える試みでもありました。


この物語は、実在の事件や制度をもとに構成されています。

次回も、“制度が取りこぼした人間”の物語をお見せします。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る