第2話
朝から不機嫌だったのだ。
母親が忙しいのはいつものことだったけれど、メリクに会えないのは珍しかった。
メリクはアミアが保護した子供で、血は繋がっていなかったが、実の兄のように共に育てられた少年である。
ミルグレンは優しいメリクが大好きで、いつも彼の側にいたがり遊びたがった。
ミルグレンがメリクに会いに行くのを禁じられているのは毎日三時間ほど。メリクが魔術を習いに第二王子リュティスの住む奥館へ行っている時だけだった。
リュティスはミルグレンにとって叔父に当たるが、リュティスは公の行事にもあまり顔を出さないので、あまり会ったことの無い遠い存在だった。
しかしメリクは、叔父はとてもすごい魔術師なのだといつも教えてくれる。
大切な勉強をしているからと、ミルグレンはその時間だけはちゃんと聞き分けて大人しくしている。
……けれど最近、侍女達がもう一つメリクの時間を邪魔してはいけないと言うようになったのだ。
◇ ◇ ◇
その日もメリクの側に見慣れた金色の長い髪を見つけたミルグレンは不機嫌になった。
その少女はミルグレンの居場所であるメリクの隣によく座るようになった。
彼女はいつも同じ衣装を着ていて、それが王立アカデミーの制服なのだということも、その金色の髪の少女の名がアデリシア・オーシェというメリクと縁近しい人なのだということも、最近アカデミー帰りに王宮によく寄るのだということもちゃんと覚えたことだ。
メリクとアデリシアが一緒にいると、侍女達が影で「お似合いですわねぇ」とか近づこうとすると「邪魔してはいけませんよ」とか言うのである。
ミルグレンはそれが大嫌いになった。
今日もアデリシアの姿をメリクの側に見つけて、ミルグレンはあっという間に不機嫌になる。
自分の方が先にメリクと遊ぼうと昨日のうちに約束していたのに!
母親に不満を聞いてもらおうと、普段はあまり立ち入らない城の奥に王女が全力で走っていた時である。
「――まぁ、そうは言いましても……事実王位ということになりますと血もやはり清くなければならないと思いますわよ」
「一時は神童などと呼ばれましたけれど、今では王宮でのみのんびり教育を受けているご身分。王族でもアカデミーで学ぶご時世なのですよ、それを……」
「やはりお生まれが卑しくていらっしゃるから……」
庭に四人ほど女性が集まり話していた。
花壇の側の椅子に腰掛けながらの他愛無い話のようだ。悪びれも無い様子で楽しげに笑っている。
侍女ではなかった。
客人のようだ。
身分ある女性達なのだろう。
「いざこういう場になると恥ずかしくてお隠しになっているのでは?」
「あらお口の悪いこと」
「女王陛下は見識の広い方でいらっしゃるけれど。唯一の過ちですわ、あんな子供を御慈悲で拾っていらっしゃって」
「けれど孤児など探すだけおりますわよ。何も陛下が拾わずとも……」
「そこまでされると興味も湧きますわね。貴方ご覧になりまして?」
「いいえー。この間も会わせていただけなかったのです」
「他国から降嫁されたためサンゴール王家を軽んじていらっしゃるのでは?」
「まあぁ……なんですわね、どうお思いなのかしら」
「あんな特別秀でたわけでもないお子を引き取られて。目が曇っていらっしゃるんではなくって?」
「暇つぶしにしていらっしゃるのよきっと」
女達は声を上げて笑った。
「そのへんの犬猫でも飼うように?」
「まあいやだ」
「ろくな芸など覚えませんわよ」
「あのリングレーの田舎産ですものね」
誰のことを言っているのかはすぐに分かった。
ミルグレンは駆け出していた。
◇ ◇ ◇
「お待ち下さい」とか「そんなに走っては」などという騒がしい声が聞こえた時、メリクはただいつものようにミルグレンが来たのだなと思い振り返っただけだった。
色々と煩わしい最中に置かれた自分にも、何の躊躇いも無く笑顔で近づいて来てくれるのはミルグレンだけだ。
だからメリクも本当の妹のように彼女を可愛がっていたのである。
そのミルグレンが、鳶色の大きな瞳からポロポロ涙を零して走って来てメリクの前に立った。
彼女は止めようとする侍女の手を振りほどくと、力一杯背伸びして叫んだのだった。
「メリク様のせいでお母様が悪く言われるの!」
シン……と庭に妙な沈黙が落ちた。
メリクはというと、驚いたように翡翠の瞳を見開かせていた。
侍女達はその話題は、と言わんばかりに青い顔になっていて、ミルグレンはメリクの方を強い目で見上げたまま涙を零し続けている。
刹那の緊縛が解けると、メリクはミルグレンの言った言葉の意味を飲み込むことが出来た。
理解し、彼女が何を耳に入れたのかおおよそのことも悟った。
悲しくはなかった。驚いただけだ。
そういう話が事実王宮でされていることは知っていたし、アミアではなくもっと直接的に自分に対しての言葉も、オーシェ家の夜会などで聞いた事もあった。
自分でそう思うことすらあるのだから、今更真新しく悲しむほどのことではない。
ただそんな当たり前のことを、この幼い王女の口から今更告げられるとは思っていなかっただけだ。
だから一瞬だけメリクは確かに驚いた。
しかしすぐに、メリクはその表情を和らげると、泣いているミルグレンの頭を撫でるような仕草をした。
そして一言だけ返したのだった。
「……ごめんね、ミルグレン」
◇ ◇ ◇
ミルグレンの大きな泣き声が遠ざかっていく。
侍女達が慌てた足取りで王女を攫って行ってしまった。
その様子をメリクはそんなに慌てなくても別に怒ったりしないのになぁ、と思っただけだった。
(……可哀想なことしたな)
当たり前のことを今までミルグレンは知らずにいて、分からずにいて、それでずっと自分を兄のように慕ってついて来てくれていたのだ。
その兄のような人間の為に自分の母親が悪く言われる。素直な心を持つミルグレンが受けた衝撃の強さを想像するのは難く無い。
「…………ひどいこと言うのね」
誰かが後ろで呟いた。
暗い表情でそう言ったのはアデリシア・オーシェである。
彼女も突然の王女の乱入に呆気に取られていたのだが、じっと王女が去った方に視線を向けているメリクが傷ついているだろうと思ったのか、気遣わしげな眼差しを向けて来ていた。
メリクの後見人となった軍部大臣オズワルト・オーシェの次女である彼女は、三人いる娘の中では最もメリクと歳が近く仲良くしてくれている。
彼女はこの春王都の王立アカデミーに通い出した為、学校終わりによく王宮へ遊びに来てくれるのだった。
メリクは学院に通っていなかったので、彼女から聞く学校生活の話はとても興味深くて面白かった。
その彼女からしてみれば突然楽しい話に割り込んで来た王女が、メリクに暴言以外の何者でもない言葉を浴びせて、詫びもせず立ち去っていったのが信じられなかったのだろう。
「そんなの、メリクが望んだことじゃないじゃない……」
「アデリシア……」
「陛下や他の周りの大人が勝手にやったことよ」
アデリシア・オーシェは俯いてもう一度呟いた。
「……ひどいこと言うのね」
誰が悪かったとかは……きっとないのだ。
アミアに保護され自分は命を取り留めた。
そして自分も、アミアの害になりたいと思ったことは一度もない。それが全ての真実だった。誰も悪くないのだ。
メリクは自分がサンゴール王宮にいることについては、いつしかそう考えるようになっていた。
そう考えるしかないのかもしれなかったが。
自分が王宮の異端であることは分かっていたし、
ミルグレンの言ってることは真実なのだ。
メリクが城にいる限り、アミアは「孤児を拾って育てている。女王の自覚がない」といつまでも言われて続けている。
メリク自身でさえ彼女に対して心苦しいことがある。
だからもし、アミアが国の平穏の為にメリクを城から出す決断をした時は、決して驚いたり悲しんだりせず、ただここまで庇護してくれた感謝だけで頷こうと、メリクはいつも心に決めていた。
ただ、アミアがまだそういう話をしたことがないから、自分で言い出すことも出来ないでいるだけなのだ。
王宮から出る覚悟は、いつでもメリクはしていた。
一瞬第二王子の顔が思い浮かびそうになって、誤魔化す。
離れたくないなどと思うことは許されなかったから。
「……ミルグレンは、いい子だよ」
メリクはアデリシアの方を見る。小さく笑んだ。
「メリク……」
「王宮では大人ばかりだから。やっぱり一緒にいられたり話が出来る人が少ないんだ」
苦しいことがないと言えば嘘になる。
でもミルグレンが自分の許に駆けて来てくれて、明るく笑ってくれているのを見ると、心がいつも温かくなった。彼女の側にだけ、いつもメリクの居場所があった。
「ミリーの笑顔を見ると、僕も嬉しい気持ちになれる。
そういうことにいっぱい救われてるんだ」
「……メリク」
「だから、ミルグレンのことは悪く言わないで」
アデリシアはじっとメリクの方を見たが、彼が虚勢を張っているわけでもなく心からそう言っているのだと感じると、彼女の方も優しく微笑んだ。
「……うん、わかった」
「ごめんね」
「ううん、いいの。……ね!
気分転換に遠乗りにでも行かない? 私、馬に乗れるようになったの」
メリクは頷いて、もう一度笑った。
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