<<10話 救急搬送>>
誰かが自分の頬を激しく叩くが痛いという感覚はない。
「おい、しっかりしろっ……」遠くでそう言ってるように聞こえた。そして身体が激しく揺すられるのを他人事みたいに感じる。
繰返されているうち、しだいに叩かれる痛さを感じるようになって、同時に咽て泥水を吐き出した。
それで少し楽になり肩で息ができるようになる。
細く目を開くと見知らぬ男性が自分に声を掛けているようだ。空は相変わらずどす黒く、雨粒が顔を叩く。
「おい、大丈夫か? 俺が見えるか?」
何度目かに、「へぇ」とだけ答えた。
「おーい、こっち意識取戻した。イエローだ」男性が後ろを向いて叫んだ。そして腕に黄色のタッグを付けられた。
それを見ていて、はっと意識が全開した。
「あ、夫は?」目だけ動かして周りを見るが誰もいないようだ。「夫は無事ですかいな?」
もう一度訊いた。
「 いやー、遭難者が沢山いるのでわかりません。現在、二名ドクターヘリで札幌へ緊急搬送されていますが氏名はわかっていません 」
「あの、中年のおっさんなんやけど」
「 ああ、それじゃ違うな、搬送されたのは二十代から三十代くらいの男女だから、旦那さんはどっかに寝かされているか、まだ見つかっていないかですね 」
介抱してくれている人が元気よく言う。
「せやかて、あての旦那はんどす。この中で一番年上思いますねん。探しとくれやす、お願いしますわ」
救助隊員は少し困った顔をした。
―― 無理ならえぇわ。自分で探さな …… 静はそう思って、起き上がろうとするが身体に力が入らない。
―― えっなんでや、どうして自分の身体が動かへんのやろ? ……
それでも横向きになって身体を丸めうつ伏せに……、と思ってもなかなか上手くゆかない。
もどかしい気持で繰返す。
「そんな無理しないで、見てくるから」そう言ってその隊員は不満げに顔をしかめて少し離れたテントへ駆けて行った。
……戻ってきて、
「 いないようです。ここには川から救い出した人に治療の緊急性を示すトリアージ・タッグをつける場所なんです。おかあさんの場合は、黄色のタッグをつけたので、一キロほど離れた小学校の体育館へ行ってもらいます。そこから大型ヘリで札幌の病院へ行って必要な治療を行うことになります 」
「 そっかぁ、しゃーないですな。あては岡引静と言いますねん。夫は一心と言います。もし、夫を見つけはったらあては無事だと伝えとくれやす 」
その後、静は小学校に運ばれたが一心の姿は無かった。
不安が身体を駆け巡る。
ふとスマホは? と思いついた。手探りでポケットを調べるが何もない。
―― あー全部流されてもうた。子供らも心配してるやろな ……
*
七月三十一日、昼過ぎに静は札幌の総合病院で怪我の手当てをしてもらい入院となった。
脳にも異常は無く、時間が経てば歩けるようになるでしょうとのことでちょっと安心したのだった。
徐々に救助された人の名前もわかってきて、民宿の一家や同じボートに乗った三人の学生も無事だった。
「あての旦那はんは無事でっしゃろか?」心配で、心配で会う看護師毎に同じ質問を繰返す。
「 名前のわかった方の中で岡引さんは奥さんだけです、でも、意識のない方が三名ほどいて中年の男性もその中に…… 」担当看護師の言葉を聞くや否や、静はむりやり車椅子に身体を押し込んで、
「その中年の男はんのところへ連れて行っとくれやす」
ダメと言われたら自分でタイヤを回してひと部屋ずつ探すつもり、と心に決めて看護師を見詰める。
その思いが通じたのか、「心配ですよね」看護師はにこりとして車椅子に手をかけてくれた。
ICUではなく一般病棟へ向かうようだ。
日射しの強い南の病棟から東へゆっくり進む。
手を合わせて祈り続けた。 ―― どうか、無事で、生きてて。お願いや ……
幾筋もの雫が頬を伝う。
「こちらですよ」
<707>と書かれた病室に入る。四人部屋だ。心臓が高鳴る。
窓際のベッドに布団を被って寝ている人の前で、「こちらの方かしら?」
看護師が、その顔が静に見えるように布団をそっとめくってくれた。
身を乗り出して覗き込む。
「一心! 間違いない、一心やわ」
静は車椅子からベッドに倒れ込むように乗っかって、一心の頬を叩く。
「起きて、一心起きて。あてや、静や!」
動かない一心を見詰め、「命、大丈夫なんやろか?」視線を看護師へ飛ばした。
「 ええ、骨折もしてなかったし、恐らく激しい疲労で気を失ってるだけだと思いますよ。それで元気づけるために点滴してるんです 」
看護師は微笑んでそう答えてくれた。そして、「ここにいますか?」
静が肯くと看護師は一礼して病室を出ていった。
涙が止めどなく溢れ、自分の心の大半を寝ているこの男が占めているんだと改めて思い知らされた。
「もっと大事にせなあかんな……」
静は自分に言い聞かせる。
ベッドの上で動かぬ夫の頭を撫でながらずっと見詰めていた。
……
「お母さん」不意に呼びかけられ顔を上げると、ぼろぼろと涙を流している美紗がドアのところに立ちすくんでいた。その後ろに数馬と一助も。
「あー美紗、それに数馬に一助も、心配かけやしたな」静が涙を拭って声を掛けると、「わーっ」大きな声で泣きながら美紗が飛び付いてきた。
「こらこら、あてはまだ立てへんのやから、そないにしがみつかれたら……」
それでもベッドに座り直して美紗を抱きしめるとやはり涙が零れる。数馬も一助も泣いている。
「男はんやのに、泣かいでも……」
「一心は?」一助が言った。
「命は大丈夫やそうや。激しい疲労で寝てるだけや。そいで点滴してるちゅうこっちゃ」
「そうか良かった」
……
ざわつく声で一心が気付いたようだ。
ぱちっと目を開けた。
「おー、静、無事だったか……」
一言喋った一心だが声はかすれている。顔は微かに笑っている。
「 あてが助けられて周りを見ても、ひとに聞いてもだれもあんはんのこと知らへんゆぅさかい、心配しましたがな。でも、ほんに無事で良かったわぁ。痛いとこない? 」
一心の笑顔を見たらまた急に泣けてくる。
「ああ、……全員無事だったのか?」
「それがな、ひとり亡くなったらしいわ。誰かは聞いとらんけどな。それとひとり行方不明らしいて」
「そっか、礼島はどうした?」
「それが、わからしまへん。そや、あんはん荷物は?」
「ああ、全部流された。スマホと財布だけは無事だ」
何度か咳払いをしても一心のかすれ声は治らない。
静が夫の顔をじっと見ているとその目にも涙が浮かんでいた。
……
積もる話をしているとさっきの看護師がわざわざ静の食事を運んできてくれた。
夕食を家族そろって食べた。子供らはそれぞれ買って来たものを食べている。
一心は、少しお茶を口にしただけだが嬉しそう。
静はそんな風景がとても懐かしく、胸にジーンと沁みた。 ―― これが幸せちゅうもんなんやな ……
随分久しぶりのような気がしたが、思い起こせば子供らと別行動をとってからたった五日しか経っていなかった。なんとなく可笑しくてひとりほくそ笑む。
「母さん、何にやついてる?」
数馬に指摘され、「そやかて、こうして五人顔をそろえて食事ができるなんて幸せやなと思ぉてな」
正直に気持を言った。そして美紗にスマホを用意するよう頼んだ。
暗くなってから清水瑚都警部が見舞いに来てくれた。
「どうや、体調は?」
「 ああ、瑚都、よお来とくれやした。おおきにな、どこも悪いとこおまへんのやけど、まだちょっと歩かれへんねん 」
「そーかぁ、それはあかんな、はよ治るとえぇなぁ」
「へぇ、おおきに、ほんで、礼島は逮捕でけたやろか?」
静の問いにちょっと苦い顔をして、警部は頭を振った。
「 あかんかった。警察も逃げられへんように河岸を固めとったんやけど、逃げられてもうたか、溺れたかや。行方の分からんようになったんは礼島だけや 」
……
しばらく雑談をしていて、礼島にGPSを付けたという一心の言葉を思い出して伝え、「水に浸かってもうて機能してるかどうやけど……」と、加えた。
「えぇんや、帰りに一心とこにも見舞いに行くよって聞いてみる」
「宿はどないなったんやろな? 着物とか置いてきたさかい心配なんやけど……」
「静、命助かっただけでえぇちゃう? 着物は一心に買うてもろたらよろし」
警部は笑顔で言ったが静にとってのお気に入りのひと揃えだったからショックは隠せない。
「対岸から宿を見たらな建物は跡形もあらへんて、土砂とか岩がごろごろしとったと聞いたで」と警部。
「ほーかぁ、じゃ、逃げんと危なかったちゅうこっちゃな」静が言って少しだけ開けていたカーテンの隙間から見えている窓へ目を向けると、雨粒が窓ガラスにまばらに長い垂線を引いているのに気付き思った。
―― また雨かいな。もうあんなんは沢山や ……
「 でな、崖が崩れてもうたせいで地割れが沼まで及んだんやて、村の役場んお人が言っとった。ほんで沼の水が全部川に流れ出てもうて、ボートをみなひっくり返したちゅうこっちゃ 」
「ほな、数時間はよう逃げとったらこんな目ぇには遭わんかったちゅうことかいな?」
静は旦那さんと客とのやり取りを思い出していた。
「 せやけど結果論や、雪場潤さんが亡くのうて潮見弘道くんが意識不明になってもうたけどな…… 」と警部。
「二人とも溺れたんか?」
「 雪場さんはそうや、けど全身に打撲痕もあったなぁ、まだ若いのに可哀そうや。潮見くんの方は後頭部に陥没するほどの怪我をしとって重傷や。ほんで彼のそばにずっと富士野って娘ぉが寄り添ってるんやけど、『自分を庇ったから、自分のせいだ』って号泣しはっててな、あても可哀想になってもらい泣きしてもうたわ 」声を詰まらせながら警部が言った。
「 ……その富士野はんはな、宿で色々あってその潮見はんが寄り添って慰めたりしはってたんや、これからちゅうのになぁ……意識戻るとえぇんやけど…… 」静も思わずうるっと……。
「なあ静、宿のご主人波恵川牧人(なみえがわ・まきと)はんの避難指示はどうやったかいな?」
警部がちょっと刑事っぽい目をして言った。
静は記憶を辿りながら二十八日から二十九日にかけての行動をできるだけ細かく説明した。
だが、警部は、
「 人が少なくともひとり死んどるさかいな。そこらを考えんわけにもいかへんのや。その辺の事情聴取しに行った刑事が雪場はんの遺族に随分問い詰められてるんや 」
言い終わるのと同時に警部のスマホから元気の出そうなメロディーが聞こえてきた。
スマホを手に病室の外へ出た警部は、すぐに戻ってきて、
「 静、いくつかバッグが見つかったらし。署に保管してるよって歩けるようになったら取りに行ってんか 」
静は持って来ていた浅緑色の着物に濃紺の帯が頭に浮かんで思わずにっこり、「へぇ」
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