<<8話 崖崩れ>>
一心と静が食堂へ入ると数組の客が談笑しながらバイキングを楽しんでいる。ローカウンター越しに厨房で忙しく働いている礼島の姿も見える。
旦那さんが料理を並べているバイキングテーブルの傍に立って料理の説明と盛り付けのサポートをし、一心と静は手にトレイを持ったまま、その奥にある厨房のローカウンタードアに近付く。
「こっち入っちゃダメだよ」礼島が笑顔で言った。
「ああ、すまん。料理がとても美味しいんで、調理してるとこを見たいってこいつか言うもんだから……」
一心はごまかしてさらに一歩踏み出した。その時だった、厨房に続く旦那さんの家のドアが開いて娘が顔を出した。
「あ、ダメだ。出ちゃダメって言ったろっ!」
旦那さんが有り得ないような大声で叫んでしまう。
その異常さで礼島にすべてを悟られてしまった。笑顔を鬼の形相に変えて娘の肩を抱き寄せ、左手に持ってた包丁をその喉元に突きつける。
「きゃーっ」
娘の悲鳴で客たちも何事かと立ち上がりこっちを見て騒ぎ出してしまう。
「 どけっ、旦那さん、世話になったがどうやら潮時のようだ、そいつが探偵だって聞いたときから嫌な予感はあったんだ。お前の娘を連れてボートで川下りを楽しませて貰う。娘を殺されたくなかったらそこをどけっ! 」
一心も静も止むを得ずじりじりと後ずさりしてロービーに出る。
「おい、逃走資金を貰おうか、旦那、ありったけの現金出せ!」
礼島が娘の頬を包丁の刃先でなぞる。と、その痕にうっすら赤い筋が浮いてくる。
「……」声も出せずに泣き震える娘に旦那さんが慌てる。
「わ、わかったから、美深を傷つけるな」と叫ぶと一目散に自宅へ駆け込んだ。
そのやり取りを見つつ静はすり足でゆっくり前へ出る。
「礼島はん、止めよし。もう、警察へ通報したさかい、どこへも逃げられへんえ」
静は動きを止めずさらにじわりじわりと寄る。
「来るな! こいつを殺すぞっ!」
礼島は、微笑みを浮かべている静の落ち着いた様子に動揺しているようだ。血走った目が彷徨っている。
ナイフを突き出し左右に振って、「えてめ、来るなって言ってんだろうが、聞こえねぇのかババァ」
―― あー、言ってはいけない言葉を …… 一心がそう思った瞬間、
「その娘を放しなさいよ! 可哀そうでしょう……人質が欲しいなら私がなってあげるわよ!」
<トランス女性>と告白した瀬棚美樹が食堂から顔だけ出して叫んだ。
礼島がそれに気を取られ目を逸らした瞬間、静が人質の陰に隠れるようにすばやく動いて礼島の顔面にパンチを放ったように感じた。余りの速さに一心の目が追い付けないのでそういう感じがしたとしか言えないのだ。
「ぎゃっ」と叫んで礼島が厨房のドアまで数メートルもぶっ飛んで白目をむいて伸びてしまった。
「お母さーん」娘は泣き叫んで母親のもとへ。
「ちょっと手伝って」一心は取り囲んでいた男性に声を掛け、礼島の手足を縛りさらに食堂椅子に括りつけた。
「これで大丈夫だろう」一心がひと安心と思った時だった、食堂からガラスの割れる音と共に猛烈な風が吹き込んできた。
「きゃーっ」と、二種類の女性達の悲鳴。初めて聞いた<トランス女性>の悲鳴は低音で、なんか……変。
一心が食堂を覗くと、南側の窓ガラスが割れて室内に木の枝が飛び込んでいた。
「あー、大変だ。ちょっと手伝って下さい」今度は旦那さんが周りの男性に向って声を掛け、厨房裏の倉庫からベニヤ板を運んできて、「外から窓にこれを打ち付けるんで、お願いします」
一心が返事をし行こうとすると、コーチが合宿所の方へ向って大声で招集をかけると、どどっと駆け込んできた学生に旦那さんの抱えているベニヤ板を受取らせ、ぞろぞろと玄関を出て行った。
「あんだけいたら俺は邪魔だな」
一心が、 ―― 老兵は役立たずか …… などと思っていると、静が、「くくくっ」と声を殺して笑う。
「ところで、お前の手は大丈夫なのか?」一応心配しているという風を見せ言ってみた。
ピッと風を切る音がしたかと思ったら、目の前に静の拳だ。
「あ、ああ、大丈夫そうだな、ははっ」
二人がじゃれていると、「そろそろここから逃げ出せという合図じゃないの、あんな木が部屋に飛び込んで来たら大変じゃない」、……
女性らの会話が耳に入った。
そっちに視線を向ける時にちらっと松内千花と宗谷コーチが深刻そうな顔をして話しているのに気付いた。話し終えるのを待ってコーチに声を掛けたが答えない。
一心は思った。 ―― なんか、やばい話しでもしてたのか? ……
仕方なく話し相手の松内千花に声を掛けると、コーチが昔MTFだったことを耳にして、それをネタに娘の虐めについて問い質したと答えた。
美里を虐めたのはラフティング部の狩村を筆頭に、宰司、曽根崎、沢井と数名のクラスメイトだと聞き出したようだった。
一心が時計を見ると午後一時少し手前。予告された崖崩落時刻まで、残り十九時間ほど。
暴風雨が弱くなり始めている要素を見つけ出そうと、耳を澄まし、雨粒だらけの昼なのに暗い窓ガラスに願いを込め注視するのだが、その気配は微塵も無い。
女将が室内の片付けを終え、旦那さんも処置を終えて戻ってきたところで、「旦那さん、避難することを考えないと拙いんじゃないか?」と言ってみる。
旦那さんは怪訝な顔をするが、女将は、「そうねぇ、準備をした方が良いかもしれないわね」
「いや、今まで何とも無かったのに、大丈夫だよきっと収まるから」
旦那さんは同じことを繰返し、なかなか同意してもらえない。
「何とも無かったら、戻ってくれば良いだけじゃない」一心は押す。
通りかかる客が心配そうに顔をだすと、旦那さんは「大丈夫だからお風呂にでも浸かって」笑顔で余裕を見せる。
しばらくそんなやり取りが続いて一心も説得を諦めようとしたとき、娘の美深ちゃんが顔をだして、
「 お父さん、お母さんの言う方が正しいと思うわよ。今までなかったと言うのはこの温暖化の進んでいる現在には通用しないの、嵐だって昔よりずっと酷くなってるじゃない。お客さんの命を守るために最善を尽くすべきじゃないの 」と、父親を見詰める。
旦那さんは、怖い目に合ったばかりなのにすごく大人びた発言をする娘に、先ずは驚きの表情を浮かべ、次にその表情を和らげて、「そうだな」とやっと前向きになった。
一心は学生の代表としての宗谷コーチを加え、一心夫婦と旦那さん夫婦の五人でどう逃げるかをミーティングルームで相談することにした。
話を始めていると旦那さんに役場から電話が入ると、立ち上がって後ろを向きスマホを耳に当てている。
一心が時間を確かめると午後三時だ。
予告された崖崩落時刻まで、残り十七時間。
短い時間で話し終えた旦那さんは、
「 避難するよう強く言われました。橋桁の一部が壊落したことを伝えたんですが、ヘリでの救助はまったく無理だと言われてしまいました 」と悲し気に語った。
「じゃ、川を下るしかないってことだね」
と言いながら、じんわりと恐怖心が全身を覆い始めるのを感じる一心だった。
「自分らはボートを二艘持っているので学生は全員乗せられるけど、宿の客はどうなります?」宗谷コーチが言った。
「 うちにもボートは二艘ありますが、六人乗りなので自分らと遺体を含めると十六人になるんで四人乗れないことになるんですよねぇ 」
旦那さんは緊急事態に余り慣れていないのか、自分で判断せずに人に頼る傾向にあるようだ。
しばし考えたコーチが、
「こっちに二人貰って十二名乗れば、そっちは十四。七名ずつ無理でも乗るしかないな」
一心もそれしかないと思っていた。
礼島を一旦解放し避難に協力させるしかないという意見で一致。
遺体の扱いについて、コーチは安全性を考えて置いて行こうと言ったが、一心が犯人を逮捕するために必要だと言って押し切った。
割り振りが決まったのは夕方五時近くだ。
予告された崖崩落時刻まで、残り十五時間ほどになった。
夕食は、おにぎりにして、全員をこの場所に集め避難の説明をする事にした。
宗谷コーチの提案で学生は四艘に夫々二名以上乗ってボートの操船を委ねることにしたのだが、富士野がどうしても潮見と一緒のボートにしてくれと譲らず変更した。
礼島も大人しくしていて逃げる素振りは見せなかった。もっともすぐそばに静がいるからだろう。ちょっとでもその静が動くとびくっとしている。その顔の青たんに一心は「ざまぁみろ」と思うのであった。
ボートに乗った後の礼島の身柄は旦那さんと宗谷コーチに委ねた。
食事を終えてに全員揃って最低限の荷物を持ってライフジャケットを着用しボート小屋へ向かう。
時刻は午後七時、予告された崖崩落時刻まで、残り十三時間。
途中、一心が川を覗くとすでにかなりの激流となっていて、こんな川を下るのかと思うと恐怖に身が竦む。
小屋に着いた一心は、遺体の足元に本人の荷物を置き、証拠のカッパや長靴を抱えさせブルーシートでくるんだうえ縛り、寝袋に収めてボートに括った。
作業中、宿の裏手にある倉庫や機械室の壁に落石がぶつかるような音が、嵐の喧しさにも負けないほどの強さで繰り返し聞こえてきた。
「きゃー、崖が崩れ始めたーっ!」
女性の叫びが緊迫感を一層高めみな表情を強張らせる。
そしてボート毎に集まって、学生からラフティングする上での注意事項などの説明を受けた。
一心も静も初体験なのに加え既に川は通常のラフティングを中止するほどの激流となっていて、余裕はまったく無いのだが、「逃げるなよ。お前体力あるんだから、ほかの人がやばくなったら助けてやれよ」と、礼島に声を掛け肩を軽く叩いた。
―― いよいよ決死のラフティングが始まるんだ …… 恐怖に足の震える一心は、静の手を確りと握るのだった。
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