黄昏から夜明けへ

@avclan

第1話

第1章:目覚め


その夜、世界は沈黙していた。

街の喧騒は遠のき、ビルの谷間にひっそりと佇む部屋には、ただ時計の針の音だけが鳴り続けていた。


カーテンは閉ざされ、部屋の中は灰色の闇に包まれている。

机の上には未開封の薬の瓶と、一通の手紙。

誰に宛てたわけでもない。ただ、残したという事実だけがそこにある。


少年――名を律(りつ)といった――は、ベッドの端に座り、冷たい床に足を置いていた。

眼差しは虚空を見つめ、感情の痕跡すらもう残っていなかった。


「これで、ようやく……」


彼はすでに限界だった。

家族の無関心、社会の期待、友人という仮面、未来という名の圧力。

それら全てが、重く首を締めていた。


声も、涙も、もう出なかった。


ただ静かに、ひとつの選択を下す。

それは、終わりを選ぶということ。


そして――落ちていく。


重力も痛みも、意識すら遠ざかり、

まるで深海に沈んでいくように、律の世界は完全に途切れた。


どれほどの時が経ったのだろう。


空気が変わっていた。

湿ったアスファルトの匂いも、眠れぬ夜の都市の雑音も、もうどこにもなかった。


代わりに、風の音がする。葉擦れの音と、かすかな光。

何かが頬を撫で、柔らかな光がまぶたを照らしていた。


「……ん、んん……?」


目を開けると、そこには――二つの月が浮かんでいた。


一つは蒼白く、もう一つは赤く染まっていた。

どちらも、現実ではありえないほど近く、大きく、そして美しい。


森の中のようだった。

木々が密集し、空気は澄んでいるのに、どこか不気味な静けさが漂っていた。

そして何より、身体が――動かない。


「……え?」


いや、それだけではない。視点が低すぎる。手が小さすぎる。

自分の声すら、出せない。


鼓動が早まる。記憶がはっきりしているのに、身体がまるで自分のものではなかった。


そこへ、誰かが近づく気配がした。


優しい腕に包まれ、暖かさが全身を満たす。


「……この子の目……まるで夜の刃。あの色……ノクス家の血だわ」


言葉が理解できた。それはこの世界の言語だった。

けれど、どうして分かるのか、本人にも分からなかった。


やがて語られる事実――


彼は、「カイン・ノクス」という名を与えられ、

この世界で最も影響力のある一族、「ノクス公爵家」の次男として生まれたのだという。


魔法と剣が常識であるこの世界。

貴族は力と血によってその地位を維持し、弱者は剣によって沈黙させられる。


カインは黙ってその現実を受け入れた。

だが、心の奥底では理解していた。


――これは「救い」ではない。

これは、「試練」かもしれない。


そしてもう一つ、確信していた。


この世界には、「暗殺者」という職業が存在しない。

影から刃を振るう者の概念すら、この地にはなかった。


だが、かつて死を選んだ少年は、

やがて“存在しない職業”を、己の道として歩み出す。


その存在は、やがて世界の常識を揺るがすことになる。


それが天命なのか、それとも罰なのか――

答えはまだ、誰にもわからない。


ただ一つ、確かなこと。


今度こそ、俺は――この命を使い切る。


そしてその刃は、いま静かに世界の喉元に向けて、研ぎ澄まされていく。

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