3.

 南で民衆蜂起。規模、三千。そういうことだった。

 連戦である。動かせて千二百。それでもすべて騎士ファーリスであるから、負けることはないだろう。招集と編成の命を下すだけにして、ザシュエムはしばらく屋敷に籠もることにした。


 蛮族。匪賊。民衆。そして隣国。戦が多すぎる。政治がよくない証拠である。


 そういう話は、弟の侍従や官僚たちからよくされた。とはいえザシュエムはいち軍人に過ぎず、政治に関与するつもりはもとよりない。落胤らくいんとして生まれ育ち、父と母が死んでから、何の因果か弟に拾われた。どこまでいっても、そういう存在に過ぎないのである。


 弟はきっと、自分に死んでもらいたいのだろう。いつからか、そうとしか思わなくなっていた。


「あの娘たち、異端として処すべきです」

 身を清めたあとぐらいに、ヌーラーヤがそう問うてきた。めかけであるが、ほとんど参謀のようなものだった。間諜の取りまとめも任せている。

「送りのものか」

「陛下は、戒律に反することを嫌います。殿下があの娘を処さなかったことが陛下のお耳に入れば、殿下のお命も危うくなります」

皇帝スルタンとはいえ弟だ。そこまでおもねる必要もない」

「しかし、殿下」

「いらぬとおれが申した。それで納得いかないのであれば、おれを処せばいい。それができるのならばな」

 それだけ言うと、ヌーラーヤは静かに俯いた。


 あれには、それだけの度量も度胸もないだろう。腹の中で、ザシュエムは嘲笑わらっていた。父親が皇帝スルタンだっただけの男である。特別、秀でた何かがあるわけでもない。あるのは皇帝スルタンの座、たったそれだけ。

 その程度の男が、この国の頂点にある。だから国がまとまらない。たったそれだけの話なのだ。


 屋敷に訪いを入れてきたのは、宰相ビシャーラだった。既に青い顔をしている。


「こたびの遠征についても聖戦ジハドとせよと、陛下はおおせです」

「民衆相手に聖戦ジハドとはな」

「何度も説得いたしました。それでも、かなわず」

 頭を重そうに押さえながら、ビシャーラが戦慄わなないた。


「もはや、ついていけませぬ」

「言うな、ビシャーラ殿。陛下のおっしゃることは絶対なりせば」

「干ばつによる水不足。相次ぐ叛乱。隣国の干渉。官僚の不満も高まる一方。このままでは国が滅びまする」

「それを何とかするのが臣のつとめだ。皇帝スルタンのつとめではない」

「殿下ならば」

 じろりと、目をよこしてきた。濁った光だった。


「上に立つものが変われば」

「何を言うか、ビシャーラ殿」

「もはや万策尽き果ててございます。殿下ならば、この国を正しく導くことができましょう。どうか、何卒お考えを」

「おれに、弟を斬れと申すか」


 怒鳴っていた。立て掛けていた剣に手を伸ばしてすらいた。

 ビシャーラは震えて縮こまっていた。ただ俯き、ずっと許しを請うていた。


 舌打ち、ひとつ。剣を放り捨て、踵を返した。


「ヌーラーヤ」

 虚空に、放り投げるように。

「ビシャーラのあとを追え」

「はっ」

「軍の編成も終わっている頃合いだろう。夜には出るぞ」

「武運長久を」

 それだけ言って、気配は消えた。


 南のワターシャーリアまでは、五日の道のりである。その分の兵糧すら、確保は難しいようだった。


「陛下は我々に、飢えて死ねと言いたいようだ」

 ひとり言に、隣にはべるミスバーフは顔を背けた。

「何なら人でもむかね?」

「殿下。そのおっしゃりようは、流石に」

「どいつもこいつもうんざりだろう。民草相手に聖戦ジハドなどと、馬鹿の極みだ。そしてそれに従う我々も」

「それはまあ、その通りですが」

「宰相閣下に言われたよ。上に立つものが変われば変わるとな」

 そう言って、ちらと、兵どもを眺めた。

「それで?その言葉に乗るおつもりですか?」

「ないな。それこそ馬鹿馬鹿しい。政治は政治家どもの仕事だ。軍人の仕事ではない」

「であれば、ご安心ですな」

 ミスバーフも、兵どもに目を配らせながら、わざとらしいため息を入れた。


 やはり、紛れている。


 弟の手のもの。実際、何人か捕らえていた。こういった下らない世間話にすら耳を尖らせ、弟に報告を上げているらしい。それで処断された将兵は、両手では数え切れないほどになっていた。


 いよいよ、おれの身も危ういか。内心、ごちていた。


 人は飢えても構わないが、馬に与えるものだけは惜しまなかった。騎士ファーリスの主力は騎馬である。であるからこそ、千以上の戦力差を恐れなくていい。


 陣が見えた。鶴翼三枚、横並びである。


「重騎、前へ」


 抜剣し、天にかざした。兵の波から雄叫びが上がる。


「突撃」


 赤い旗。翻った。


「投石機、用意」

 矢継早に指示を出す。その分だけ、伝令が駆け回っていく。


 重騎兵、五百。まずは正面から左翼にぶつかる。数える間もなく、敵陣を突っ切った。反転し、再度飛び込む。


 報告が上がる。損害軽微。敵陣、崩れず。右翼、前進。対して右翼に投石開始。しかるのち、軽騎兵三百、右翼横へ突入。



 何かが、おかしい。


 本陣を一里、下がらせた。戻ってきた重騎兵も、本陣まで戻らせる。歩兵だけ前に出し、横に並べた。


「おかしいです。民衆じゃない。正規兵だ」

 戻ってきたミスバーフ。具足には矢が何本か突き立っていた。焦りの色が強い。


「改めて斥候を走らせろ。わかるまで全軍、下がるぞ」

「殿下、あれを」

 誰かの声だった。


 敵陣。何かが昇っている。旗。赤い。おびただしい本数。


 刻まれているのは、聖戦ジハドの印だった。


聖戦ジハドだと」

 ひねり出していた。


 敵陣から騎馬ひとつ、出てきた。巻物ひとつ、抱えているようだった。


「皇帝陛下と宰相閣下の命により」

 大音声。


「奸賊、ザシュエム・ターヒルをここに討つ。聖戦ジハド聖戦ジハドなり」

 確かに、そう聞こえた。


 見渡す。兵ども。怯えと困惑が広がっている。ミスバーフ。赤くなって震えている。ルシュディはどうか。天を仰いだまま微動だにしない。


「でたらめを申すなっ」

 叫んだのは、ギヤースだった。

「我ら勅命ちょくめいにより、民衆を鎮めるためにここまで参った。何が聖戦ジハドか。それなるは、まこと皇帝陛下のみことのりなるや」

 抜剣。そのまま単身で前に出てしまった。少しもしないうちに、敵陣から降り注いだ矢の雨を浴びてたおれていた。


 はめられたか。それも、ここまで大規模に。


「ミスバーフ、兵とともに逃げよ」

「しかし、殿下」

「狙いは、おれだけだ」

 言った言葉に、ミスバーフの喉が鳴った。

「とにかく生き延びよ。ここからならヤスシャーフィーが近い。ハムラブ・ハーシム将軍なら受け入れてくれるだろう」

「三百、残します」

「すまぬ」

 すぐに、ミスバーフの気配は消えた。


 見渡す。正面の鶴翼三枚だけではない。東の丘から二千ほどが顔を覗かせている。となれば後方からも、あるいは。


ふるき血の長、アミル・ザシュエの名を継ぐものとして」

 剣を掲げた。兵がそれに続く。


「我は常に戦場にあり」

 それで、血は沸き立った。


 馬の腹を蹴る。視界が、揺らぐ。赤く染まったそれは、止まった時の中をくようだった。矢の嵐の一本一本が、しっかりと見える。はたき落とし、あるいは掴んで投げ捨て、身を翻す。

 騎馬の槍。半ばから切り払う。飛んでくる穂先を、突き出した腕ごと斬り飛ばす。油の巻いた剣を敵の首にぶち込んで、転がっていた槍を手に取り、すれ違いざま、腹に叩き込んだ。


 生きている。体に血が駆け巡って、収まることを知らない。膨らんだ闘志が、体を飛び出してほとばっている。


 これがおれだ。これこそがつるぎみやだ。殺せるものなら殺してみるがいい。


 それでも、この量。この群れ。この物量。捌ききれず、足に矢が、肩に槍がぶつかった。それでも動く。吠えながら、ただひたすらに切り開いていった。


 包囲が緩む。赤地に白の印。見えた。顔。


「ザシュエム・ターヒルはここだぞっ」


 切り結んだ兵から剣を奪い取り、進んだ。


 下膨れの顔。怯え、すくんでいる。


 腕を振るうだけで、よかった。



みやさま」


 聞いたことのある声だった。


 瞼を開く。空。明るかった。それでもいくらか、視界は霞んでいた。

 顔ふたつ、覗き込んでいた。ふたつとも、女の顔だった。


「おお、送りの」

 白磁の肌が、静かに微笑んだ。


「陛下と宰相閣下が共謀し、殿下を亡きものにしようとしておりました。包囲されておりましたが、タージュッディーン将軍が救援に来て下さいました」

「なればヌーラーヤ、ミスバーフたちは」

「はい。無事にございます。どうかご安心下さい」

 ヌーラーヤの顔。頬が濡れていた。


 体は、動かなかった。あるいは感覚すら。ただ、匂いは感じた。

 ぬくもり。焚き火や熾火。そういった、温かな火の匂い。


「送りのものがいるとならば」

 声は、かすれていた。

「おれは、死するのかな?」

「はい、みやさま。今まさに、死なれようとされております」

「しかして、おれには帰る場所がない」

「ゆえにみやさま、あなたは空へ帰ります」

「そうか。空へか」


 眺めた。空。青く、綺麗だった。

 そこならば、あるいは。


 恵まれて産まれたわけではなかった。幼い頃から貧しく、あるのは母だけだった。その母も心が弱く、寝てばかりいた。

 母が寝たきりになり、そのうち動かなくなったころ、身なりのいい男たちが現れ、眼前に跪いた。


 お迎えに上がりました。あなたは皇帝スルタンが子にございますれば。


 しかし、そうして得たものはきっと、何もなかった。金と欲にうるさい女ども。不毛な戦場。そして皇帝スルタンというだけの弟。


 ああ、そうか。はじめから、どこからも産まれたわけではなかったのだな。


 エミュジェナの方に向き直る。どうしてか、それだけはできたような気がした。


「空に帰るならば、次の世界で、おれは何になるのかな?」

 それだけ、不思議に思っていた。

 エミュジェナは、微笑んでいた。ただしかし、その双眸そうぼうからは、温かいものがこぼれていた。

「きっと、お星さまに」

「そうか。星か」


 体が温かい。そして軽い。

 腕が、動いた。白磁の肌に、触れる。


「それも素敵だ。だが、おれは」


 心が満ち足りていく。どうしてか、眠たい。


「鳥に、なりたいな」

「はい。みやさまの、お望みのとおりに」

「鳥ならば、ここにも戻ってこれよう」

「ならば私は、おかえりと」

「ああ、そうだな」

 そうやって、瞼は重くなった。


 ただいまと言えること。それは何より、素敵なことじゃないか。


(つづく)

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