3.
南で民衆蜂起。規模、三千。そういうことだった。
連戦である。動かせて千二百。それでもすべて
蛮族。匪賊。民衆。そして隣国。戦が多すぎる。政治がよくない証拠である。
そういう話は、弟の侍従や官僚たちからよくされた。とはいえザシュエムはいち軍人に過ぎず、政治に関与するつもりはもとよりない。
弟はきっと、自分に死んでもらいたいのだろう。いつからか、そうとしか思わなくなっていた。
「あの娘たち、異端として処すべきです」
身を清めたあとぐらいに、ヌーラーヤがそう問うてきた。
「送り
「陛下は、戒律に反することを嫌います。殿下があの娘を処さなかったことが陛下のお耳に入れば、殿下のお命も危うくなります」
「
「しかし、殿下」
「いらぬとおれが申した。それで納得いかないのであれば、おれを処せばいい。それができるのならばな」
それだけ言うと、ヌーラーヤは静かに俯いた。
あれには、それだけの度量も度胸もないだろう。腹の中で、ザシュエムは
その程度の男が、この国の頂点にある。だから国がまとまらない。たったそれだけの話なのだ。
屋敷に訪いを入れてきたのは、宰相ビシャーラだった。既に青い顔をしている。
「こたびの遠征についても
「民衆相手に
「何度も説得いたしました。それでも、かなわず」
頭を重そうに押さえながら、ビシャーラが
「もはや、ついていけませぬ」
「言うな、ビシャーラ殿。陛下のおっしゃることは絶対なりせば」
「干ばつによる水不足。相次ぐ叛乱。隣国の干渉。官僚の不満も高まる一方。このままでは国が滅びまする」
「それを何とかするのが臣のつとめだ。
「殿下ならば」
じろりと、目をよこしてきた。濁った光だった。
「上に立つものが変われば」
「何を言うか、ビシャーラ殿」
「もはや万策尽き果ててございます。殿下ならば、この国を正しく導くことができましょう。どうか、何卒お考えを」
「おれに、弟を斬れと申すか」
怒鳴っていた。立て掛けていた剣に手を伸ばしてすらいた。
ビシャーラは震えて縮こまっていた。ただ俯き、ずっと許しを請うていた。
舌打ち、ひとつ。剣を放り捨て、踵を返した。
「ヌーラーヤ」
虚空に、放り投げるように。
「ビシャーラのあとを追え」
「はっ」
「軍の編成も終わっている頃合いだろう。夜には出るぞ」
「武運長久を」
それだけ言って、気配は消えた。
南のワターシャーリアまでは、五日の道のりである。その分の兵糧すら、確保は難しいようだった。
「陛下は我々に、飢えて死ねと言いたいようだ」
ひとり言に、隣に
「何なら人でも
「殿下。そのおっしゃりようは、流石に」
「どいつもこいつもうんざりだろう。民草相手に
「それはまあ、その通りですが」
「宰相閣下に言われたよ。上に立つものが変われば変わるとな」
そう言って、ちらと、兵どもを眺めた。
「それで?その言葉に乗るおつもりですか?」
「ないな。それこそ馬鹿馬鹿しい。政治は政治家どもの仕事だ。軍人の仕事ではない」
「であれば、ご安心ですな」
ミスバーフも、兵どもに目を配らせながら、わざとらしいため息を入れた。
やはり、紛れている。
弟の手のもの。実際、何人か捕らえていた。こういった下らない世間話にすら耳を尖らせ、弟に報告を上げているらしい。それで処断された将兵は、両手では数え切れないほどになっていた。
いよいよ、おれの身も危ういか。内心、ごちていた。
人は飢えても構わないが、馬に与えるものだけは惜しまなかった。
陣が見えた。鶴翼三枚、横並びである。
「重騎、前へ」
抜剣し、天にかざした。兵の波から雄叫びが上がる。
「突撃」
赤い旗。翻った。
「投石機、用意」
矢継早に指示を出す。その分だけ、伝令が駆け回っていく。
重騎兵、五百。まずは正面から左翼にぶつかる。数える間もなく、敵陣を突っ切った。反転し、再度飛び込む。
報告が上がる。損害軽微。敵陣、崩れず。右翼、前進。対して右翼に投石開始。しかるのち、軽騎兵三百、右翼横へ突入。
何かが、おかしい。
本陣を一里、下がらせた。戻ってきた重騎兵も、本陣まで戻らせる。歩兵だけ前に出し、横に並べた。
「おかしいです。民衆じゃない。正規兵だ」
戻ってきたミスバーフ。具足には矢が何本か突き立っていた。焦りの色が強い。
「改めて斥候を走らせろ。わかるまで全軍、下がるぞ」
「殿下、あれを」
誰かの声だった。
敵陣。何かが昇っている。旗。赤い。
刻まれているのは、
「
ひねり出していた。
敵陣から騎馬ひとつ、出てきた。巻物ひとつ、抱えているようだった。
「皇帝陛下と宰相閣下の命により」
大音声。
「奸賊、ザシュエム・ターヒルをここに討つ。
確かに、そう聞こえた。
見渡す。兵ども。怯えと困惑が広がっている。ミスバーフ。赤くなって震えている。ルシュディはどうか。天を仰いだまま微動だにしない。
「でたらめを申すなっ」
叫んだのは、ギヤースだった。
「我ら
抜剣。そのまま単身で前に出てしまった。少しもしないうちに、敵陣から降り注いだ矢の雨を浴びて
はめられたか。それも、ここまで大規模に。
「ミスバーフ、兵とともに逃げよ」
「しかし、殿下」
「狙いは、おれだけだ」
言った言葉に、ミスバーフの喉が鳴った。
「とにかく生き延びよ。ここからならヤスシャーフィーが近い。ハムラブ・ハーシム将軍なら受け入れてくれるだろう」
「三百、残します」
「すまぬ」
すぐに、ミスバーフの気配は消えた。
見渡す。正面の鶴翼三枚だけではない。東の丘から二千ほどが顔を覗かせている。となれば後方からも、あるいは。
「
剣を掲げた。兵がそれに続く。
「我は常に戦場にあり」
それで、血は沸き立った。
馬の腹を蹴る。視界が、揺らぐ。赤く染まったそれは、止まった時の中を
騎馬の槍。半ばから切り払う。飛んでくる穂先を、突き出した腕ごと斬り飛ばす。油の巻いた剣を敵の首にぶち込んで、転がっていた槍を手に取り、すれ違いざま、腹に叩き込んだ。
生きている。体に血が駆け巡って、収まることを知らない。膨らんだ闘志が、体を飛び出して
これがおれだ。これこそが
それでも、この量。この群れ。この物量。捌ききれず、足に矢が、肩に槍がぶつかった。それでも動く。吠えながら、ただひたすらに切り開いていった。
包囲が緩む。赤地に白の印。見えた。顔。
「ザシュエム・ターヒルはここだぞっ」
切り結んだ兵から剣を奪い取り、進んだ。
下膨れの顔。怯え、
腕を振るうだけで、よかった。
「
聞いたことのある声だった。
瞼を開く。空。明るかった。それでもいくらか、視界は霞んでいた。
顔ふたつ、覗き込んでいた。ふたつとも、女の顔だった。
「おお、送り
白磁の肌が、静かに微笑んだ。
「陛下と宰相閣下が共謀し、殿下を亡きものにしようとしておりました。包囲されておりましたが、タージュッディーン将軍が救援に来て下さいました」
「なればヌーラーヤ、ミスバーフたちは」
「はい。無事にございます。どうかご安心下さい」
ヌーラーヤの顔。頬が濡れていた。
体は、動かなかった。あるいは感覚すら。ただ、匂いは感じた。
ぬくもり。焚き火や熾火。そういった、温かな火の匂い。
「送り
声は、かすれていた。
「おれは、死するのかな?」
「はい、
「しかして、おれには帰る場所がない」
「ゆえに
「そうか。空へか」
眺めた。空。青く、綺麗だった。
そこならば、あるいは。
恵まれて産まれたわけではなかった。幼い頃から貧しく、あるのは母だけだった。その母も心が弱く、寝てばかりいた。
母が寝たきりになり、そのうち動かなくなったころ、身なりのいい男たちが現れ、眼前に跪いた。
お迎えに上がりました。あなたは
しかし、そうして得たものはきっと、何もなかった。金と欲にうるさい女ども。不毛な戦場。そして
ああ、そうか。はじめから、どこからも産まれたわけではなかったのだな。
エミュジェナの方に向き直る。どうしてか、それだけはできたような気がした。
「空に帰るならば、次の世界で、おれは何になるのかな?」
それだけ、不思議に思っていた。
エミュジェナは、微笑んでいた。ただしかし、その
「きっと、お星さまに」
「そうか。星か」
体が温かい。そして軽い。
腕が、動いた。白磁の肌に、触れる。
「それも素敵だ。だが、おれは」
心が満ち足りていく。どうしてか、眠たい。
「鳥に、なりたいな」
「はい。
「鳥ならば、ここにも戻ってこれよう」
「ならば私は、おかえりと」
「ああ、そうだな」
そうやって、瞼は重くなった。
ただいまと言えること。それは何より、素敵なことじゃないか。
(つづく)
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