少女消失
「あれ? ガールは?」
化学室に戻ってきたとき、ガールはそこにいなかった。いなせがビーカーにバーナーを当てて何らかの液体を沸騰させているだけだった。
「帰りましたよ。あなたが着替えている間に」
「えぇ……置いてかれたの? 俺」
「そうみたいですね。ざまあないです」
悲しい。帰り道も別だしただでさえ放課後のこの時間ぐらいしか二人きりでいれないのに。たどり着いた目の前で閉店の看板が出されるような、そんな喪失感を感じた。しかし帰ったという事は何らかの決着はついたという事だろう。その辺をいなせに聞くことにした。
「ところで、俺がいなかった十分そこらで何をして何が分かったんだ?」
十中八九、例のお札を化学薬品に漬けるか何かしたんだろうけど、何が分かったというのだろうか。ビーカーで沸騰させたお湯にはインスタントコーヒーが入れられていたため、どうやらお札とは関係ないことが分かる。
「それは、ガールさんに聞いてください。私には守秘義務があります」
「そう言われると仕方ない。ってなるかよ。教えてくれ、いなせ。頼むよ」
いなせはゴミを見るような目でこちらを見つめる。いつも毒舌だが、今日はなんだか一段と機嫌が悪いようだった。
「……手紙」
いなせが何かを呟いた。
「何?」
「手紙を受け取ったでしょう。女子生徒から。その内容を教えてください。そしたら話しますよ」
「あー……」
どうして知っているか分からないが、今日のお昼時、同級生女子に呼び出されて手紙を渡されたのであった。前髪が長めのショートボブのような髪型をしていて、眼はよく見えなかったが、口元の優し気な微笑みは印象的だった。
「初めまして、科学部の方。私は神宮 紬。一緒のクラスになったことはないよね。ああいいんだ。これは本題じゃないから。私ね、好きなの。この山の上にある高校が。ここから見える景色が、自然が。みんな好きなの。けれどね、本当に好きなものは一つだけ。それだけ知って欲しいんだ、君に。その手紙、開けるかどうかは任せるね。けど、思いは受け取って欲しいな」
そんな意味不明な事を言われたのがお昼時であった。貰った手紙はよくある正方形に近い長方形の袋であり今時、というか滅多に見ない封蝋がなされていた。
「いや、開けてないんだよこれ。なんか怖くてさ。俺はラブレターだと思うんだけど」
自分に自信があるわけではないが、ここまでされて中身が呪いの手紙とかだったら泣く。今度こそ十七歳高校二年生が号泣する。いなせは訝しそうに手紙を見ながらこう言った。
「私はリンチだと思います」
「どうしてそう思った?」
「短絡的ですね、思考の源泉が下半身からやってきてるんですか」
「もう俺の脳は下半身由来でいいよ。でもさ、流石にラブレターかなって思うだろ!? あんな意味深な事も言われたんだぞ」
「ふむ。けれど、万一ラブレターでもトラップだと思いますよ。原始的にして最も効果的な籠絡の手段である、ハニートラップです」
「そんなもんに掛かるほど阿呆でもないよ」
「本当ですか? じゃあちょっとこっちに来てください」
俺は言われるままにいなせの前にやってきた。するといなせは目にもとまらぬ速さで俺の足を引っ掛け、背中からこけそうになった所を左手で抱え、もう片方の腕で俺の左手を引っ張り、俺の顔をいなせの目の前まで近づけた。唇が触れてしまいそうなぐらいお互いの顔が近くなり、眼前にはいなせのパステルグリーンの瞳が写った。
「これでも同じ事が言えますか?」
「……言えないな」
「男なんて猿みたいなものです。もっと多角的な視点を持つべきなのです」
「だからリンチか」
「そうです。甘い囁きで先輩を中庭に呼んで、花壇の肥やしにするのでしょう」
「もっと目立たないところ選ぶだろ」
「そんなの知ったこっちゃありません。けれどもそんな愛のメッセージとも捉えられない曖昧な事を言う女なんてロクな奴じゃないはずです。浅はかな女に決まっています。おおよそ一目惚れしたとか何とかそんな事を書いているのでしょう」
「そんだけ言うなら、例えばいなせだったらどんな愛の言葉を送るんだ?」
そう言うといなせはブッ、とコーヒーを吹き出し少しの間咳き込んだ。そして真っ赤になった顔で俺の方に顔を向けた。
「本当にデリカシーのない人ですね。そんなの言う訳がありません。それよりもとにかく、早く開けましょう。開けてないなら好都合です。呪いの手紙なら私が証人になりますから。そんな不思議女なんて停学処分でも喰らえばいいんです」
ずいぶん強い言葉を使うと思ったが、しかし一緒に見てくれる人間がいるのは正直心強かった。もしラブレターだったら、どう拒否の返事をしていいか俺には分からないし女心は数学のベクトル並に分からない。
「助かるよ、いなせ。俺としても心強い。じゃあえっと、封蝋ってどう開けたらいいんだ?」
「普通にハサミ使いましょうよ」
「うん。なんかごめん」
俺といなせはビーカーの置いてある教壇前の机に二人並んで座り、中身が破損しないよう、丁寧に封を開けた。中には一枚の和紙が入っていた。そして、そこには幾何学的な文様のようなものが書かれていた。
「……」
「……」
俺は絶句した。そしてなぜかいなせも絶句していた。
『寵愛、故、時。我が中に』
「どうして、この文字が……」
いなせは目を見開きあからさまに動揺した。そして準備室の方に走り、ガサゴソと音を立てた。
「おい、何だよいなせ。何だってんだ」
この文字列は、あのお札に書かれている物と同じであった。その事実に俺は驚いていただけだが、いなせの驚き方は尋常ではなかった。ふと散歩をしている時にリードから手を放してしまって、飼い犬が車道に出てしまったような。そんな、焦りと恐怖と動揺と、絶望のような表情をしていた。いなせが準備室から出てきたとき、彼女の片手には液体の入ったビーカーが携えられていた。
「早く! この中にその“お札”を!」
何がなんだか分からなかったが、俺は教壇の上に置かれたビーカーへ和紙を丸めて入れた。和紙は溶けて、すぐなくなってしまった。
「これは、どうなったんだ。いなせ」
「待って、先輩。まだ終わってない」
いなせはビーカーをじっと見つめていた。透明だったビーカーの中身が次第に薄い赤色に変色していった。
「……良かった」
いなせは安堵の表情を浮かべた。未だ困惑気味の俺は、いなせが言葉を発するのを待つしかなかった。しばらくして、いなせが口を開いた。
「“神宮 紬”と言いましたね。偽名だとは思いますが、一応調べておきます。先輩は一度家に帰ってください」
「何か説明をくれ。そうじゃなきゃ帰れん」
ここで引き下がれと言われても、何か事件が起きたとしたなら俺も当事者の一人のはずだ。守秘義務は使えない。
「……今年の夏に『時間と空間について』という論文を書いたのを覚えてますか」
俺はほとんど関わりが無かったが、ガールといなせ、俺の三人で書いて確かコンクールで賞を取った論文の事だ。
「ああ、覚えてるよ。あんま内容覚えてないんだけど、タイムスリップとパラレルワールドの可能性云々の話じゃなかったっけ」
「少し違いますが、大体そうです」
「それがどうしたんだ?」
「察しが悪いですね。それともちゃんと読んでないんですか? 共同著者の所に名前を書いてあげたのに」
「そもそもの理論が難解すぎて一介の高校生には分からなかったんだよ。ちなみに事務仕事全部押し付けて俺の夏休みが半分消費されたことについては未だに少し恨みを持ってるぐらいだ」
「だから共同著書の欄に……ってそんな事どうでもいいです。いいですか、そんな先輩の為にかいつまんで説明します。よく見て聞いてください」
そう言っていなせはチョークを取って前後で二重になっている黒板のうち、六限でおそらくそのままにされた消し忘れたほうでない方を降ろして、何やら二つの図形を書き始めた。ひとつはギザギザで、もうひとつは丸っこい。
「この二つの図形に名前を付けてください。片方はブーバで、もう片方はキキです」
「うーん、ギザギザの方がキキでもう片方がブーバかな。感覚だけど」
「それで構いません。実際、この実験の九八パーセントの被験者はそう答えています」
残りの二パーセントはどんな人だったんだろう。などと言う前に、いなせは話し始めた。
「これは心理学における実験の一つにすぎませんが、実際の所どうして被験者の回答にこのような偏りがあるかは解明されていません」
そう言って、いなせはブーバとキキを消してチョークを置いた。そして俺の方をまっすぐ見た。
「私とガールさんはこの実験に着目しました。つまり“図形の持つ力に時間性と空間性を見出しつなぎ合わせる”という研究です」
確かにそんな感じの研究であったような気がするが、つまりそれは
「五芒星であったり、中世ヨーロッパの魔法円みたいな感じか?」
「先輩にしては鋭いですね。ビンゴ、そういう事です」
いなせの語調は上がっていっている。興奮状態が収まりきってないようであった。
「でも確かガールといなせの研究では、不可能とか関係ないとか、そんな事が書いてなかったか?」
「……たんですよ」
「ん?」
「見つけたんですよ。時間を超越できる文様を。私とガールさんは見つけてしまった」
「は?」
脳の処理が追い付かなかった。なぜそれを発表しなかった。今までそんなそぶりもなかった。
「言いたいことは分かってます。“なんでじゃあ発表もしなければ使いもしなかったのか”でしょ」
そこまで言っていなせは震えながら深呼吸をした。
「見つからなかったんです。最後のピースが。二つある条件のうち一つは分かってました。『寵愛、故、時。我が中に』このメッセージが読み取れる幾何学的な文字の作成です。しかし、もう一つ。この世に存在しないインク、それが足りなかったんです」
「存在しないならどうしようもないだろ? そんなインクの話をし始めたら魔力がないから魔法が世界に存在しない、って言ってるようなもんじゃないか?」
「言っていることは分かります。ただ、元素は何でできているか知っていますか?」
「それは知ってる。星の爆発。って、あ」
そこまで言って俺はある事に気づいた。ガールは言った。
『造幣局が紙幣作成の際に切り捨てたほうの試案で作られた。いわゆる、この世に存在しえない紙幣という事だ』
アインシュタインも、どの宇宙学者もパラレルワールドの存在について否定はしていなかった。そしてガールといなせの論文は、それを存在するものとして確定させていた。研究不十分とされていたが、こいつらはそれを完全に解明したうえで隠してたのか。
「流れてきちまった……って事か」
「そういう事です。けれどさっきのお札はその物質が検出されなかったので、とりあえずは一安心です。ただ“神宮 紬”という人物についてはマークする必要があります」
「ラブレターじゃなかった上に特急呪物を拾っちまった訳か……」
回らない頭でも今日が厄日である事が間違いでないのはよく分かる。というか、じゃあ
「おい待てよ。じゃあガールは今どこにいるんだよ」
そう言うといなせは少し肩を震わせて、俺から目を逸らした。
「帰ってこれるんだよな? その辺は大丈夫なんだよな?」
「それは、大丈夫です。ただ」
「ただなんだよ」
「千円札を失くしてしまったら終わりです。それだけは気を付けるようしっかりと念押ししときました」
俺はその言葉を聞いて安堵した。だが、危険な状態であることに変わりはない。なぜ俺に何も言わなかったのか。いや、違うな。俺を巻き込みたくなかったんだろう。そう思いたい。でも、でもな。もしお前が帰ってこなかったら? 俺は死を選ぶに違いない。ガールのいない世界なんて生きる価値がない。俺はお前に、
「お前に……殺されたくないんだよ……」
「……ガールさん。大丈夫、戻ってきますよ。なにせあの人は光線のガールなんですから」
その場に崩れそうになった俺をいなせは支えた。俺はガールが好きだった。あの自由奔放なところが、嬉しそうに論議を交わすところが。ああ、情けないな。何もかもが情けない。ガールに頼られなかったのも、今何も出来ないのも。全てが、その全てがどうしようもなく、情けなかった。
「……なぁ、聞いてもいいか、いなせ」
「はい、何でしょう、先輩」
あいつが未来か過去かどの点に飛んだかは分からない。けれど、目的を聞けば帰ってきたとき協力が出来るはずだ。
「あいつの目的はなんだ」
いなせは俺に背を向けた。化学部から見える夕暮れに照らされた中庭を見て、独り言のように呟いた。
「ガールさんの名前。知ってますか。そりゃ知ってますよね、泣くほど大好きなんですから」
「それが何だっていうんだ」
「ガールさんにはお姉さんがいたんです。九年前に自殺したお姉さんが。ガールさんはそのお姉さんを救うために、過去に飛んだんです」
そう言って振り返ったいなせの目元は、夕暮れのせいかもしれない。けれど、赤く紅潮しているように見えた。
「“月宮林檎”先輩は“月宮楓”さんを救うために、過去に飛んだんです」
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