男子高校生の大脳皮質とは
「まずはこれを見て。ほら、この部分」
そう言って彼女は野口英雄が描かれた紙幣の右下にある数字を指さした。なんでもない番号。紙幣が印刷されるときに同時に印字される個体識別番号のようなものがそこには書いていた。つまり、どこにでもある千円札だ。
「それで次はこれ。ここの数字」
そう言って彼女はもう一枚紙幣を取り出した。同じ千円札。だがしかし、番号は異なっていた。当たり前と言えば当たり前で、俺は何がおかしいのかと疑問符を浮かべた。手品にしてももう少し面白い事が出来るだろう。
「何が違うんだ?」
そう言うと彼女はヤレヤレといった表情を浮かべた。どうやら面白いタネがあるらしかった。
「そんなんだから君は駄目なんだよ。大脳新皮質がエロい事でうまってるんじゃないか? それとも分からないフリをして私をからかってるんじゃないだろうね」
「酷い言われ様だな……。からかってないし。本当に分からないんだ」
例えば目の前に二つのトマトが出されたとして、食べてみるまで味なんて分からないものである。ましてやお札は食べれないし、違いは分からない。あと、俺の大脳新皮質は別にエロい事で埋まっていない。多くて六割位だ。たぶん。
「ま、実際こんな事知ってる高校生は私だけだろうさ。君の阿呆さを引き合いに出して申し訳なく思うよ」
「いちいち俺を刺すな。繊細なんだぞ俺は。しかも運が悪い。刺された場所が弱点だったりするんだから、優しくしてくれガール」
彼女は“ガール”と呼ばれていた。誰がそう呼び始めたのか分からないし何故そのあだ名がついたかの由来もよく分かっていないが、とにかく彼女はガールと呼ばれていた。“西高のガール”が最初で“光線のガール”になって“ガール”になった。
「ふむ。それは悪かった。しかしね、刺した後はお医者さんの仕事で私が関係しない部分だから巻き込まないでくれたまえ。患部を説明する相手は刺した相手じゃないだろう?」
「まず刺すなよ」
「誰も無意識は解明できないものなのさ。私の意思じゃない事だって考えられるわけであって、つまり私には罪がない」
ガールは飄々とそう語った。制服の上から着ている、ワンピースかと思うぐらいの長さをした白衣がひらひらと揺れる。”科学部“と称されたその部活動は、いわゆる俺とガールだけの二人だけの同好会であった。入学式の日、午前で授業が終わり誰もが家路にぞろぞろと帰っていく中、白衣を着る彼女は眠るようにして中庭の桜の木の下に座っていた。毛艶の良いソマリみたいだ、なんて変な感想を抱いたのは、彼女の美しいブロンドの長髪が花弁舞う中で、春の日差しに照らされていたからである。水に流れる金箔のようでもあり、俺はニュートンの万有引力が如く引き寄せられていった。つまり、一目惚れである。
「ユング先生の無意識を悪用するな、罰が当たるぞ」
「私が信じるのは自分自身さ」
これが科学部であった。というよりも部員二名のよく分からない同好会と言った所が正しい。なぜなら『化学部』自体は存在するし、そもそも今こうして会話をしている空き教室だって不法占拠状態である。実態のない上に校則と真っ向から対立する、そんな異常な部活であった。毎日くだらない話が展開されるわけだが、今日はこの千円札がどうやら問題らしい。
「それで、このなんともない千円札の何が問題だっていうんだ。まさか偽札とでも言いたいのか?」
それは今のお札とは違う野口英雄が抄造されたものであったが、見た目上千円札である事に間違いはなさそうであった。
「とんでもない。本物さ。けれども、こうやって太陽に透かして見ると、ほら見たまえ」
そう言ってガールは俺を窓際に手招きした。ガールが左手にお札を持って、それを太陽に照らす。
「見えないんだけど、お札貸してくれたら自分で見るよ」
「君に触れてほしくないんだ。貴重なものだからね」
「そんなに信用ないの? 泣くよ? 十七歳高校二年生が号泣するよ?」
「それは、うん。勝手にしてくれ。とにかく、ほらもっと近くに」
ガールはそう言って更に近づくよう促す。体が触れ合いそうになるが、ならなかった。いろんな意味でガールだなぁ……そしてなんかいい匂いがした。
「君、何か失礼な事を考えていないかい。場合によっては塩酸を天然水と称して飲ませることも厭わないぞ。私は」
「考えてないよ。それよりも、なんだ? これ? 文字か?」
千円札には文字が印字されていた。古代象形文字のような形をしており、どことなく神社のお札を思わせる形でもあった。
「寵愛、故、時。我が中に」
ガールはそう言った。読めるのかよ。
「つまり、誰かがいたずらで変な文字でも書いたって事か?」
ガールはひょいと俺から離れ、そして少しの間、黙りこくってしまった。ガールはたまにこうした挙動を取る事がある。大抵は考え事をして周りが見えていないという感じではあるのだが、にしてもその文字を見たときの表情はガールらしくもない、神妙な表情であった。こういう時は何を言っても仕方がないので、とりあえず見守ることにした。黙っていれば美人。皆はそう言うが、俺からしたらどんなガールも間違いなく世界一可愛い。そんなどうでもいい妄想と懸想とその他が混濁して煮え切ってきたところで、ガールは何か考え付いたようにスクールバッグからノートとペンを取り出した。そして何やら図形のようなものを書き始めた。
「お札というのは造り方が厳密に定められていて、それでいて偽札が製造されることを防止するために開示されている情報は極めて少ない。使われているインクや印刷方法についてごくわずかな情報しか大衆には知らされていないんだ」
千円札のイラストに、開示されてるだけの情報が書かれた。
「漢字の意味はなんなんだよ」
急にそんな造幣局で聞かされるような話をしても。
「……」
「何か言えよ」
ガールは少しバツが悪そうに黙り込んだ。そして真剣な表情で口を開いた。
「……詳しい事は言えないが、このお札に使われている素材は現代のソレとは違う」
「だったら偽札ってことに」
「結論を急ぐんじゃないよ。急かす男性は嫌われて殺されるのが相場だろう?」
「嫌われるまでしか聞いたことないんだけど」
「偽札でもない」
「無視ですか、そうですか。じゃあ何だっていうんだ、ガールよ」
ガールは珍しく緊張しているようだった。ゆっくりと息を吐いて、そして吸って。そんな姿を見るのは出会ってから初めてかもしれなかった。しかし、ひとつの疑問がここに生じる。最初から結論を知っているならば、そんな事に緊張するはずもない。しかしそんな事を考える間もなく、ガールは口を開いた。
「実際に作られたお札。それも、造幣局が紙幣作成の際に切り捨てたほうの試案で作られた。いわゆる、この世に存在しえない紙幣という事だ」
ガールはそう言って、紙幣をうやうやしく真空パックの中に入れた。
「そんなもん、誰かが化学薬品にでも付けただけじゃないのか?」
俺がそう言うと、ガールは先ほどの真剣な表情からうって変わって、ニヤッと笑った。
「ま、そうかも知れないね。だから調べに行こう! いざ、化学部へ!」
「あ、おいちょっと待てよ」
俺が何かを言う前にガールはそそくさと教室を出て行ってしまった。“寵愛、故、時。我が中に”それを見たときのガールの表情だけが気がかりで、しかしそんな事を考えたところで普段使っていない大脳新皮質がロクな答えを出す必要もない。ただ揺れる白衣を、俺は追う他ないのである。少しでも、彼女のそばにいるために
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