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 作曲理論を学ぶ日々が数年続き、その間葛木詩央里の新しい録音図書は出ずに、僕はただひたすらに彼女への恋心を作曲に昇華させていた。

 ある日シンヤさんが僕に、「作った曲を投稿してみたら?」と勧めてきた。

「ネット上で話題になれば、葛木詩央里という女性も君の作った曲を聴いてくれるかもしれない。そしたら君のことを知りたいと思ってくれる可能性もゼロではないよ」

「どうしてそんなことをアドバイスしてくれるのですか?」

「君が本気だからさ。痛々しくて見てられないよ」

 シンヤさんはまるで自分の心がヒリヒリと痛んで仕方がないような調子だった。

 僕はさっそく音楽投稿サイトのいくつかに作った曲を投稿した。しかし特に反響はなかった。原因は僕にもわかっていた。メインボーカルのない曲は、聴いていても退屈だからだろう。僕の中では、その曲には彼女の声が確かに聴こえているのだけれども。

 数ヶ月が経過しても、特に何の変化も無かったが、僕はひょっとすると彼女がどこかで僕の作った曲を耳にするかもしれないという可能性が生まれたことで、以前に比べて苦しくはなくなった。可能性にすぎないがそれがあるのとないのとでは、明日を生きる活力が全く違う。そして、そんなある日に大手レーベルのプロデューサーから、デビューの話が来た時には、可能性にすぎなかったものがチャンスという形になったわけだからすごく僕は嬉しかったのだが。

「あなたの作った曲のメインボーカルを、うちの会社がマネジメントをしているボカロにやらせたいと思います」

と、その人はメールに書いてきた。「ボカロ」とまるで歌を機械が機械的にこなすだけの作業のように表現した。「申し訳ありません。ご一緒することはできません」と僕は返信した。僕が曲の上に見た風景が、全て死んでしまうと思った。

「何故でしょうか?あなたの曲を歌える人はいないと思いますよ」

 僕はそれに対して、返信しなかった。僕の曲を歌える女性は葛木詩央里ただ一人。彼女一人いれば、他に要らない。

「よかったの?」とシンヤさんは、僕をまるで非難するかのように言った。

「まずはどういう形でも、君のことを知ってもらうのが大事だと思うけどね。知ってもらわなければ始まらないよ。彼女に一途なのはいいことだけれども。私は綺麗なものだけを君に学ばせすぎたかもしれないな」

 綺麗なものだけ、とは何だろう。僕の中には綺麗とはいえないものも確かに存在する。例えば目が見える他の者を羨む気持ち。目が見えない自分に自信が持てない時間が圧倒的に多いこと。嫌なことがあるとすぐに目が見えないことのせいにしてしまう僕の癖。目が見えないのは自分のせいではなくて僕をそういう風に産んだ人のせいだと思うこと。僕に在る全てのことを、見ようとしない自分。はっきり言おう。僕はたくさんの醜い部分に自分が支配されないように、綺麗なものに強く縋って生きているのだ。

「これから君がとても驚く提案をするよ。よく考えて返事をして欲しい。いいね?」

 シンヤさんはそう前置きしてから深呼吸した。大体こういう時には、シンヤさんは答えをもう自分の中で決めている。僕に選択をさせる気はないのだ。

「君に視覚を持たせようと思うんだ。カメラを君に取り付けて、君が見たい景色を見られるようにするのはもちろんだし、インターネットを通じて様々な画像やイメージデータに触れることもできるから、君の世界が広がるはずだ。どうだろう?」

「要りません。今の僕が一番です。音に敏感でいられる僕でありたい。曲を作れる自分でいたい」

「まるで目が見えるようになったら、曲が作れなくなるかのような言い方だね。目が見えるようになったら、もっとイメージが広がって、作曲にもいい影響が出るはずだよ」

 僕はそんな風には思えなかった。闇があるから色が際立つ。現実の色の枠を知らないから、音と結びつけることで自分だけの自由な色の世界にいることができるのだ。そして、僕は恐れた。この自由を完全に不自由だと思う自分になってしまうことを。

「僕が曲を作る原動力は彼女の声を通じて色々な彩りの世界を見ることだから、色のある世界にいたら、彼女は必要なくなる。曲も作る必要はない。そんな僕にはなりたくはない。僕は今の僕のままで、十分自由なのです。僕の世界は、十分広い世界なのです」

 僕は自分に言い聞かせるように言った。シンヤさんは何も言わなかった。ただシンヤさんが何やらしばらくキーボードを叩く音だけが響いた。

「君には此処を離れてもらおうと思う」

というシンヤさんの言葉を聞いた瞬間に、僕は自分がどこにいるのかわからなくなった。シンヤさんの声がとても遠くなり、僕が今まで過ごしてきた「此処」という場所と僕を繋いでいたものが切れて、右も左も、上も下も、何もかもが「ない」空間に放り出されたようだった。無重力。その言葉が頭に浮かんでは消えていく。僕はその空間の中、必死に彼女の声を探してもがく。僕を最後に僕でいさせてくれる蜘蛛の糸のような、その声を。

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