INSANITYー狂気に堕ちる

@OMEGA248

第1話ー狂気の始まり

湿った血の匂いが、バスルームの空気に溶けている。

背後には、倒れた男の死体。その隣で、青年は静かに手を洗っていた。
額には汗が滲んでいるのに、呼吸は落ち着いている。まるで何もなかったかのように。

石鹸を取り、泡立てる。血の感触はすでに消えたはずなのに、彼の手の動きは止まらない。
目の前に鏡はあるが、彼は自分を映さない。

ただ、静かに、黙々と洗う。

やがて石鹸の泡が赤く濁り、それが排水口に吸い込まれていった。

ペーパータオルを数枚引き出し、丁寧に拭う。次いで、備え付けのエアドライヤーに手をかざす。
ゴオォ……と空気の音が鳴る間、彼の目は、何も映さない虚空を見つめていた。




202×年、日本のどこかで。


俺は昔から、どこにも居場所がなかった。
世間的に「普通」と呼ばれる奴らの中で、俺はいつも少しだけズレていた。

朝の光が窓から差し込む部屋で、布団の中から天井をぼんやり見つめていると、またあの感覚がよみがえってくる。
頭の中で音が渦巻いて、周りの声が遠くに聞こえるような、そんな感覚だ。
誰かと話していても、言葉がうまく入ってこない。


「どうしてみんな、簡単にわかりあえるんだ?」


そんなことを思っていた。

俺は、自分のことを「平均以下」だと思って。
勉強も運動も特別にできるわけじゃあない。
人の顔や名前を覚えるのも苦手で、場の空気を読むことも下手くそだった。

皆と同じ教科書を開いて、同じ授業を受けているはずなのに、言葉が音としてしか入ってこない。

誰かの笑い声が、自分にはノイズのように聞こえる瞬間が多々あった。
だけど、そんなことは誰にも言えなかった。



あの日、父さんと一緒に乗った車の中は、いつも通りの静かな午後だった。
街路樹の葉が風に揺れているのが見える。
俺たちはほとんど言葉を交わさず、無言で窓の外を眺めている。
父さんは運転に集中していて、時折ハンドルを握る手に力が入るのが分かった。

赤信号が青に変わった瞬間、目の前の交差点に突然車が飛び込んできた。



「マジかよ」




と思った次の瞬間、激しい衝撃が俺の身体を襲う。

音も光も、一瞬で消えた。




次に目を開けたときはそこは病院の白い天井だった。
頭がぼんやりとして、視界がゆがむ。
周りには見知らぬ人たちの声、慌ただしい足音が響いている。


「父さんは…」


俺は必死に周囲を見回した。
けれど、父さんの姿はどこにもなかった。

事故で、父さんはもういない。
その事実を、俺はまだ心のどこかで拒んでいた。

その後、俺の身体に起きた変化は、更に俺の世界を一変させる。



ある日、何気なく部屋の端から端まで歩こうとした瞬間、目の前が一瞬真っ白になり、気づけば見知らぬ場所に立っていた。



「な、なんだこれ…?」



混乱と恐怖が押し寄せたまま、ただ俺は漠然としていた。



その夜、不可解な現象にあったあと、俺はようやく落ち着きを取り戻し、病室のベッドに沈み込んだ。
静かな部屋。白い天井。
何もないはずなのに、頭の奥で何かがざわついている。体がだるくて、まぶたが重い。

カーテンの隙間から足音が近づいてきた。
看護師の若い女性。やわらかな笑みを浮かべている。手には小さなカップと水。


「お薬の時間です」


いつものことのように、その声は優しかった。俺はぼんやりとうなずきながら感謝をし、差し出されたコップを受け取る。
液体を口に含む。少し甘く、ぬるい。何の違和感もない……のに。

──なにかおかしい。

体がどんどん沈んでいく。頭の奥が霧のようにぼやけていく。
腕が動かない。視界の端がにじんで、白い壁がゆらゆら揺れている。
思考が絡まり、解けなくなる。


「カズマ、しっかりしてくれ」


声がした。知らない男の声だ。
ゆっくりと目を開けると、スーツ姿の男が見える。病室の中に、場違いなほど整った立ち姿。

なぜ、俺の名前を……?


「ここは病院だ。だが、これから君を連れていく場所は、そこまで安全とは言えない」


落ち着いた口調。でも、その奥には何か──もっと鋭いものが潜んでいる気がした。


「事故のあと、君の中に“異変”が起きた。その力が暴走すれば、君自身だけでなく、もっと広い範囲に影響が出る」


「その力が何を引き起こすか、君自身まだ知らないだろう」


言葉は淡々としていたが、俺の耳には重く響いた。
まだ頭ははっきりしない。目の焦点も定まらない。けれど、男の言う「力」という言葉に、心が反応していた。

気づけば、部屋には他の人間も入ってきていた。
無言で、俺の腕を取り、ベッドから引き起こす。


声を出そうとしても、喉が震えただけだった。

鉛のように重い腕を、どうにか持ち上げようとしたけど……無理だった。

連れてかれちまう。どこかに、 なんで? 俺が?誰に?


「大丈夫。これは君のためだ」


男はそう言った。声は優しい。でも、その目は鋼のように冷たく、逃げ場を許さない。


この日を境に、俺は少しずつ狂気に沈んでいった。

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