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しばらく歩くと、カトレアは静かに立ち止まり、指先で扉を示した。
「こちらが、事件現場となった議会場です」
学院の紋章が刻まれた重厚な木製の扉が、静かに開かれる。
議会場の空気は、外の廊下とは明らかに異なっていた。
ひやりとした空気。張り詰めたような、どこか舞台の幕間のような、息を潜めた沈黙が空間を包んでいる。
ルーシアはその空気の変化を、肌で感じ取った。
机の上には議事録や書類が無造作に広がり、椅子のひとつが中途半端に引かれたままになっている。
そして、床には――淡い赤褐色の染みが、まるで何かを拭き取った後のように広がっていた。
「……なるほど」
声に出したつもりはなかったが、口の中で低く漏れた。
椅子の引き具合、書類のばらつき。染みの色合い。
一見すれば、そこには誰かが椅子に腰掛けた状態で机に突っ伏し、そのまま姿を消したという状況が想像できる。
ルーシアは、無言で部屋を見渡す。
「これは事件当時のままなんだよな?」
問うと、カトレアは静かに頷いた。
「ええ。発見時の状態をそのまま保存しています」
ルーシアはその答えに頷きつつ、床の染みを観察する
確かに"血"に見える。色も濃さも自然だ。
だが、不思議と"鉄のにおい"が漂ってこない。事件が起きてから日数が経っているからだろうか。空気は澄んでいる。重くはなかった。
そしてルーシアはふと気づく。
(……残っているな)
それは魔力の残滓。
微かに、精神干渉系の魔力が漂っている。
空気の層にわずかに引っかかるその残滓は、まるで“そこにいた者の思考”を擦ったかのような違和感を宿していた。
ルーシアは指先を軽く動かしながら、その微細な魔力を探る。
目には見えないが、確かに「何かを誘導する力」が、かつてここで発動していた痕跡がある。
そんなルーシアの様子を見て、カトレアが問いかける。
「いかがですか?」
ルーシアはカトレアを一瞥すると、皮肉げに口の端をわずかに持ち上げた。
「……情報を小出しして『いかがですか』はずるいんじゃないか?」
「どういう意味でしょう?」
カトレアは穏やかに応じる。
ルーシアは肩をすくめ、淡々と言った。
「催眠魔法、あるいはそれに準じた魔道具が……使われたんだろう?」
ルーシアの問いに、カトレアの瞳がわずかに細められた。
「どんな効果だったか、現場検証をした魔法監察官たちの調査結果を教えてもらわないことにはな」
一瞬、沈黙が落ちる。
次の瞬間、カトレアは唇をわずかに持ち上げ、控えめな笑みを見せた。
「……どうかしたか?」
ルーシアは視線を逸らさずに訊いた。
「……いいえ。フィオナさんが、とても良い方を紹介していただけたことが嬉しく思いまして」
ルーシアのまなざしが、わずかに鋭さを増した。
「……試されるのは気分がいいものではないけどな」
「申し訳ありません。前提として、そこに気づいていただけないと、お話になりませんので」
言葉の端ににじむ、僅かな棘。
返す言葉もまた、氷の膜を通したような硬質な響き。
大人の女同士が、互いに爪を隠したまま打ち合う、静かな剣戟のような応酬。
それは、議会場という冷えた石造りの空間に似つかわしい、緊張と抑制の空気を生んでいた。
はずだったが。
「ねえルー、この鏡、全身映るね。 すっごいよ? まるで舞台女優みたい!」
場の空気を、音を立ててぶち壊すような声が届く。
ルーシアはそっと肩を落とした。
振り向けば、議会場の壁際に設けられた大きな鏡面ガラスの前で、フィオナが両腕を伸ばし、スカートをつまんで清楚なポージングをキメていた。
「うーん、クラシカルに? ちょっと腰に手を当てて、こう? うーん。ちょっとセクシーすぎる?」
その姿は、事件現場の緊張感を完膚なきまでに破壊する光景だった。
しかも彼女のポーズは一向に止まらない。
前に一歩出ては首を傾げ、膝を曲げてはウィンク気味に横顔を作っている。
清楚。可愛い。ちょっとセクシー。三段変化の構成美を、全力で披露中だった。
ルーシアは無言のまま近づき、フィオナのポニーテールを軽く、しかし容赦なく引っ張った。
「いったーーーー!? ちょ、ルー!? 今すごく可愛いポーズ決めていたのに!!」
「……邪魔だ」
ルーシアの返しは平坦で、容赦がなかった。
そしてその瞬間、議会場の空気がほんのわずかに変わる。
――ぽぽんっ。
乾いたような、それでいて軽快な破裂音が、静まり返った空間に広がった。
ルーシアの背後、長く整然と並ぶ書棚。その柱の間にある小さな出窓。
そこに飾られた一輪挿しの花瓶には、響奏花がそろりと咲き誇っていた。
青紫の花弁が、音に応じてふわりと開き、仄かに香りを放つ。
その現象は、決して怒りや騒乱ではなく、ただ「ここに振動があった」と静かに告げている。
ルーシアは、うっすらと目を細めて振り返った。
「……フィオ。議会場では……」
「どうか、お静かに」
カトレアが、間髪入れずに重ねる。
ふたりの女性に正面から諭され、フィオナはスカートの裾をつまんだまま、ぴたりと動きを止めた。
「……はぁい」
かすれた返事が、鏡に跳ね返るかのようだった。
ルーシアは、ため息をひとつ落とす。ため息というより、呆れ混じりの呼気。しかし、当のフィオナは何もなかったかのように、口元だけで笑っていた。
「事件に関する資料を、カフェテリアにまとめています」
カトレアがさりげなく話題を変えるように言った。
「一度、場所を移して整理しましょう」
ルーシアは無言で頷き、扉の方へと歩き出す。フィオナも、手を後ろに組みながらそれに続いた。
議会場の扉に近づいたとき、ルーシアはふと足を止め、もう一度だけ後ろを振り返った。
背後に広がるのは、静寂の支配する議会場。
長机には乱れた書類が幾つか残されており、椅子はひとつだけ、半端な角度で引かれたままになっている。誰かが急ぎ立ち上がり、そのまま戻らなかったことを物語っているようだった。
入口からでは、あの小さな出窓も、花瓶も、ましてや咲いた響奏花の姿も見えない。ただ、天井の燭台がわずかに揺らめき、残された紙片にささやかな影を落としていた。
その光景を、ルーシアはしばし目を細めて見つめた。
まるで、"何か"がそこに、微かに染みついているかのように。
言葉にはならぬ違和感。あるいは、息を潜めたままの沈黙。
その場に、まだ何かが「在る」ような、そんな気配を胸に引っかけながら、ルーシアは静かに踵を返した。
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