ラブリン・マユリン

「うちの上司が怒り狂ってるんでね」


 神田太一巡査部長————稲田浅次郎が目の前で亡くなった—————交番勤務の警察官の同期で柏原竜也警部の同期であるその男の言葉は、稲田詩音と言う女子高生の背筋を寒くした。


「ち、父が、何か…」

「いや何でもないよ、何でもないからこそ怒り狂ってる訳でね。まさかとは思うけどなんか嫌われるような理由のある事でもやってたとか」

「あ、ありませんよ!」


 本当は「ある」のだが、それらの理由が実にしょうもない事をわかっているから詩音は警官の前なのに嘘を吐いてしまった。当然ながら浅次郎の妻で詩音の母である女性は夫の突然の訃報に泣き崩れるばかりだし、詩音もまた本当は悲しかった。

 だがそれ以上に、目の前の人の良さそうな警察官の放つ言葉に親の仇であるハッピー・テロリスト以上の恐ろしさを感じてしまっていた。


 稲田詩音と言うのは、数学が少し得意な事以外どうと言う事のない女子高生だ。スマホを持ち、塾にこそ通わないが通信教育は受け勉強に励み、それなりの大学に進んでそれなりの仕事をしてそれなりに結婚するつもりだった。部屋にはまゆりんのグッズが溢れ、まゆりんのようになりたいと髪型もまゆりんのそれにしている。

 これもまた、どうと言う事のない普通の女子高生の挙動だった。


 そしてそれが誰の責任かと言う事で言えば、稲田浅次郎と言う男の責任でもあった。




 稲田浅次郎と言う男はホメラレモセズクニモサレズと言う宮沢賢治の詩の一説をある意味で具現化したような人間であり、短所がないのが長所であり長所がないのが短所と言うのがもっともふさわしい形容だった。

 あえて長所を挙げるとすれば清廉潔白である事だが、それでも本人は自分なりには遊んで来たと思っているし親を泣かせて来たとも思っていた。ただその量が世人の想起する「遊び人」のそれに比べ程度も量も少なく健全な範囲のそれであり、結婚して詩音と言う娘を持ってからはせいぜい酒を飲む事ぐらいしか自分のためだけの事をしない人間だった。

「お父さんはまゆりんの事を」

「あんまり私たちほどは熱心じゃなかった感じです」

 そんな凡人の血を強く引いた詩音もまた凡人の娘であり、まゆりんのようなスーパーアイドルとは世界の違う人間だった。

 アイドルと言うのはその気になれば手の届かないでもない憧れの存在のはずだが、まゆりんだけは違うと詩音を含む女子高生たちは思っていた。

 容姿も、ダンスも、歌も、ファンサービス精神も。いったいいつ寝ているのかと思わせるほどにはファンのために動き、その上で裏表も分け隔てもない。警察署内部ですら「怪しい!と思ったらすぐに110番!」と書かれたまゆりんのポスターがあり、まゆりんの所属する芸能事務所では「ネクストまゆりん」なるアイドルコンテストまで開催しようとしていたほどだった。


 そんな中詩音もまた、ダメもとで応募しようとしていた人間の一人だった。

 もちろん彼女自身自分が容姿も歌もダンスもまゆりんとはまったくレベルが違う事などわかっており一次審査で弾かれる事は目に見えていたが、それでも少しでもまゆりんに近づきたかった。


「やっぱりそれってまゆりんへの憧れで」

「それもあるけど、まゆりんのこの投稿を見て下さい」


 フォロワー数7ケタのまゆりんのXのアカウントに貼られた、一枚の写真。




田辺真由子 MAYURIN

研修生時代から大事にしてたお気に入りの、と言うか母さんが作ってくれた手縫いのハンカチ!ある時なくしちゃってそれ以来どこ行ったのかわからなくて、この前一日署長やった時にお巡りさんに聞いたけど届いてないって……母さん、ごめんなさい……




 純白だが、隅っこにMAYUKOと真っ赤な糸で刺繡がされた手縫いのハンカチ。既にそれなりに年季が入っておりところどころほつれも見えるが、まゆりんはそれでもお守りのように携帯していたと言う。




「これ先月のなんです。それからまゆりんは何か今までの様なパフォーマンスができなくなっちゃってて……」

「もしかして君はまゆりんを慰めてあげたいと思って」

「そうです。多くのファンの皆さんがまゆりんを励まそうとしてます。中には何とかしてまゆりんのために探そうってファンの人もいるんですけど……」

「それがね」

「それがどういう事ですか」

「ああこれは警察内部の情報だから言えないよ。ごめんね」

「わかりました。どうか父さんを殺した犯人を!よろしくお願いします!」


 そんなある意味テンプレート通りの言葉を聞いた太一に付き従い、詩音は母親と共にパトカーに乗った。

 行先は警察署ではなく病院。一体何の責めがあるのかわからない、父親の死体を見に行かされる。


 ここまで残酷な運命など、そうそうあろうはずもなかった。

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