終章 心強い味方③

「シェリンッ!!」


 必死に伸ばした腕は、彼女に届かなかった。


 ドスッという大きな音だけが、何も聞こえなくなった耳へ容赦なく入りこんでくる。


 震える体を抱きしめながら、そっとシェリンが落ちた塔の下を覗きこむ。


「……っ……!」


 空を染める夕日よりももっと赤い、彼女に彩りを与えるものが地面を真っ赤に染めていた。

 その中心に、シェリンは浮かんでいる。


 みじろぎをすることもなく、ただ静かにそこに佇んでいた。


(どうして……)


 いつも自分が来たときは、少しくらい身を乗り出したって何ともなかった。

 古さは感じるけれど、リシャールよりずっと軽いはずのシェリンが力をかけたところで、壊れることなんてなかったはずなのに。


 呪い、という言葉が、頭の中でいっぱいに広がっていく。


(助けに、いかないと……)


 そう思うのに、体が震えて思い通りに動かせない。

 下で血を流して倒れる彼女が冷たくなっているのを想像してしまって、うまく息ができなかった。


「もう……いやだ……」


 生まれて初めて、友人と呼べる人ができたと思った。

「呪い子」というレッテルに惑わされず、真正面からリシャールを見てくれる、そんな女の子に出会えたのに。


 いつだって、自分につきまとう「呪い」は、大切にしたいものを奪っていく。


 そんな呪いを持つ自分も、医師見習いのくせに怖がって助けに行けない自分も、もう何もかもが嫌だった。

 喉の奥がぎゅっと締まり、吐き気がこみ上げてくるほどに。


 リシャールは動くこともできないまま、その場で呆然と座り込むことしかできなかった。



 ――どのくらいそうしていただろうか。

 階段を誰かが上がってくる音で、目が覚めたように顔を上げると、夕焼けでオレンジ色に染まっていた空は、もう半分暗くなり始めていた。


(もう、いっそのこと……)


 僕もここから落ちてしまおうか、なんて無責任な言葉が飛び出しそうになる。

 でもきっとリシャールが飛び降りても、ここへ上がってきている人が後の対応をしてくれるだろう。

 少し驚かせてしまうだろうが、この街の事件はたいてい第三騎士団へと報告される。そうすれば、ちゃんとハンスたちが後処理をしてくれるはずだ。


(だから……)


 もう、終わりにしよう。


 そう思って、シェリンが落ちたのと同じ場所へ前のめりになったときだった。


「……危ないですよ、リシャールさん」


 先ほどまで、聞いていた声がした気がした。

 まるで夢の中にいるような感覚に、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「そろそろ帰りましょうか。暗くなってきましたし」


 やっぱり聞き間違いじゃない、と心臓がドクドクと早鐘を打つ。

 訳も分からないまま振り返ると、見慣れた銀糸の髪が、風にそよそよと揺られていた。


 変な方向に曲がった腕も、赤い血に塗れた体も、なかったかのように。彼女は、リシャールのいつも知る姿で、


 信じられない気持ちで、塔の下を見下ろす。


「……ない」


 そこにあるはずの遺体も、血の海も、何もかもがなくなっていた。


(ゆめ、だった……?)


 先ほどまでリシャールを絶望の底に落としこんでいた光景は、現実ではなく夢だったということなのだろうか。

 それとも、自分は飛び降りてもう塔の下で死んでいて、死んだ後の夢でも見ているのだろうか。


「手すり……」


 それでもリシャールを現実へと引き戻したのは、シェリンが落下する原因となった、壊れた手すりだった。

 目の前の手すりは確かに欠けていて、その破片が塔の下に残されていた。


 だからこそ、何事もなかったかのようにここにいる彼女が、おかしいのだ。


「……どういう……」


 困惑という一言では片付けられないほどの戸惑いが、リシャールを襲っていた。

 シェリンは、こちらを見て、気まずそうに笑った。


「……人間というのは不思議な生き物で。五段ほどの高さから落下した場合でも、打ちどころが悪ければ死んでしまうほど脆弱なのに、雷が直撃しても生き延びることがあるほどしぶとい生き物でもあるそうなんです。不思議ですよね」

「……この塔から落ちたらさすがに死んでると思うけど」


 それとこれとは話が違う、と思わず口を出してしまった。

 何より、リシャールは一度地面の上で血を流して倒れている彼女を見ている。

 そのシェリンの服には、赤い血の一滴すら見当たらない。


 ただその代わりに、衝突したときの衝撃を物語るほどビリビリに破けたところと、土と泥で汚れたところがいくつもあった。


 リシャールはハァと深く息をついた。


 そしてシェリンに近づき、彼女の頬をカタカタと震えの止まらない両手で包み込んだ。


(……あったかい)


 確かに感じるぬくもりと、トクントクンと静かに脈打つ体。


「……生きてる」

「はい。生きてますよ」


 泣き出してしまいそうに、声が震えた。

 弱々しくてどうしようもなかったけれど、ちゃんとそこにいる彼女に、心からホッとしていた。


 シェリンはしばらく口を閉ざして、けれど、やがて目を伏せて、小さく息を吐き出した。


「……私、人間じゃないんです。たぶん、ちゃんとした意味では」


 冷たい風が、頬を撫でていく。

 リシャールは、静かなシェリンの言葉に耳を澄ませた。


「何度怪我しても、死ぬようなことがあっても、私は――ちゃんと死ねないんです」

「それは……不死だってこと?」

「そうです。さっきみたいに高いところから落ちて、仮死状態になったら、何事もなかったみたいに元通り、です」


 だから彼女が生きて帰ってきたのか、という納得と同時に、まるで何度も死んだことがあるような口ぶりが気になった。


 不死とはどんなものなのだろう。

 死ななくたって、きっとそれまでの痛みや恐怖は味わうはずだ。

 それを彼女はずっと、耐え続けてきたのだろうか。さっきも。


「……触らないほうがいいですよ。気持ち悪いでしょう? こんな人間……いや、人間じゃないかもしれませんけど」


 自嘲するような気分が悪くなる笑みを浮かべるシェリンの、白い頬をムニュッとつねってやる。

 何をするんだと言わんばかりに眉をひそめた彼女の顔からは、先ほどの笑いは消えていた。


「別にそこまで言ってないだろ」


 それを言うなら、リシャールだって不幸を運んでくる死神のようなものなのだから、同じく人間ではないことになる。


「……騎士団の人たちは知ってるの?」

「知りません。孤児院から引き取って私を育てた人たちしか、このことは知りません。……たった今、リシャールさんがそこに加わりましたが」


 シェリンの保護者は、たしか三年前に亡くなったとハンスから聞いている。

 つまり、現在シェリンの秘密を知る者は、リシャールのみだということだ。

 事故で知ってしまったとはいえ、彼女の秘密を自分だけが知っていることに少しだけうれしいと思ってしまっていた。


「いいの? 僕をここから突き落とせば、君の秘密を知る人は誰もいなくなるよ。今なら、手すりが壊れて落ちたって、完璧な事故にできるけど」

「そんなことしませんよ。……まぁ、黙っててくださるとありがたくはあります」


 冗談めかして、シェリンは笑う。


「――言わない。誰にも言わない。もちろん、騎士団の人たちにも。君を、あんな目で見られたくないから」


 誰かに軽蔑や忌避の視線を向けられる痛みを、彼女には知って欲しくない。

 シェリンがリシャールを「呪い子」として扱わなかったように、リシャールも彼女を不死の人間とは思わない。彼女は、少し変わった、でもまっすぐで優しい女の子だ。


 夕焼けの最後の光が、塔の床に落ちていった。


 早く帰らなければ、ハンスたちが心配してしまう。

 帰る準備をして、二人で階段を降りていく。


「……シェリンって何歳なの?」

「十三歳です。不老ではないので、生まれてまだ十三年ですよ」

「そうなんだ。実はものすごいおばあちゃんとかだったらどうしようかと思った」

「そんなわけないです……」


 二人でクスクスと笑い合う声が、帰り道に響く。

「でも……」とシェリンは続けた。


「これで分かってもらえましたか? リシャールさんの言う『呪い』を私が怖がらなかった理由」

「たとえ呪われても死なないからってこと?」

「そうです……なので、いつでも呪い殺しに来てください」

「……縁起でもないこと言わないでよね」


 買い物の途中に預かっていたシェリンのローブを渡し、ボロボロになった服を隠してやる。


(呪いに囚われてるのは、案外僕のほうなのかもな)


「呪い子だから」と決めつけていろいろ遠ざけているのは、自分自身だったのかもしれないと、シェリンを見ていると思う。

 カミルのことといい、簡単に常識をぶち壊していることに、本人は気がついているのかどうかは分からないが。


 リシャールとシェリンはお互いに秘密を共有する仲間。

 自分の振りまく呪いが、効かない人間が一人いるだけで、ずいぶんと気持ちが楽になった。


(だから僕も……)


 もし、彼女が周囲と何かあれば、自分だけは味方になって守ろうと、そう心に誓った。



 ***



 中庭の石畳の上を、影が三つ並んで駆け抜けていく。


「はい! リシャおにいちゃん、おにー!」


 レネの高い声に、シェリンが踵を返して逃げ、その後ろからリシャールが少しだけ照れくさそうに、でも楽しげに追いかけていく。


「……ふふ。ずいぶん賑やかになったね」


 ミアを抱えて木陰からその様子を見ていたハンスが、口元を緩める。


「まったくだ。少し前まで、誰とも口きかなかったのが嘘みてぇだな」


 隣で肩をすくめたのは、カミルだ。


「シェリンにはいろいろと世話になったよなぁ……」

「ほんとにね。不思議な子だよ、あの子は」


 ハンスたちの視線の先では、レネがころりと転んで、シェリンが手を差し伸べる。

 それを見て、フードをなびかせたリシャールが慌てて駆け寄って、そっとレネの膝についた傷にハンカチをあてていた。


「……大丈夫?」


 そんな声は遠くて微かにしか聞こえない。

 けれど、その仕草に優しさがこもっているのは分かる。


「ほんと、いい風景だな……」


 ぽつりとつぶやかれたカミルの言葉は、子どもたちの笑い声に吸い込まれていった。




-------------

第一部完結。

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