夫婦愛

ドイツ語は論理優先、主語と述語の明確な結合を基本とし、動詞が文の支柱となる言語である。

一方で日本語は、“空気”を読む言語。主語が省略され、文末で話者の意図や立場が調整される。



ドイツ育ちの黒川誠(ディーター)は、ドイツ語ネイティブ。

曖昧な主語に混乱し、とくに「これは誰の責任か」が明示されない日本語文書に、生理的な拒絶反応を示す。

論理構造が破綻した文章に触れると、ただの「意味不明」ではなく「危険」を感じるのだ。


――そして、あの「誠に恐縮ですが」という常套句がトドメを刺す。

「俺は恐縮してねえ!」(※直訳不能)



一方の黒川紗貴は、日本生まれ・日本育ちの日本語ネイティブ。

CID-C9南監視署の広報・渉外部所属であり、もともと“間”や“気配”でのコミュニケーションを得意とするタイプだ。


そんな彼女は、誠が日本語の書類地獄の前で魂を抜かれかけている様子を見て――


「あたしが、この人を守れるのは今!」

「あたしがやるわ。書類対応という実戦で、前線に立つ!」


と、愛する人のために覚悟を決める。



言語の衝突は、争いではなく信頼の試練である。

文化や思考構造の違いが、「補い合い」という行動を通じて、むしろ愛の深度を試す場になる。


日本語という非効率かつ独特な“情報戦”の中で、誠が沈みかける。

そのとき、紗貴は迷いなく手を伸ばす。


「やっと、あたしの出番だ」

「あたしにも、誠を助けられるシーンがある」



ふたりは、言語も、育ちも、考え方も違う。


一人は言葉に溺れ沈みかける。

一人はその声なきSOSを拾って立つ。


補い合うことこそ、共に生きるということ。

得意な方がやればいい。

困っている方を、守ればいい。

それだけの信頼と対等の覚悟で、ふたりは並んで立っている。



夫・誠は、戦場帰り。

論理と構造、現実と行動で世界を切り拓く。


妻・紗貴は、人間の温度と文脈で、

迷えるものに“道”を示す。



愛とは、“最適化”ではなく、“共に不完全であることを選ぶこと”。


誠の“言葉足らず”は、戦場で削ぎ落とされた生存の構造。

紗貴の“察しすぎる”心は、人を見つめ続けた温度。


命を守るように、生活を守ること。

そして、帰る場所を「ふたり」で作ること。


――それを、愛と呼ぶ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る