黒川誠、日本語に包囲される
――黒川誠、日本語に包囲される。
CID-C9 南監視署・執務エリア
調査依頼の文面が、モニターに表示されていた。
「お手すきの際で構いませんので、可能な範囲でご対応いただけますと幸いです」
沈黙ののち、黒川誠は低く呟いた。
「……Warum ist das so ineffizient?」
リコが一歩下がる。「うわ……出た……」
樋口は顔を上げずに呟く。「ドイツ語モード、発動……」
ふよふよと漂うドローン型アシスタントAI、B.A.NIが静かに補足する。
《言語:ドイツ語。感情タグ:怒/困惑/冷静な殺意。該当翻訳:
『なぜこんなにも非効率なのか?』──これは、バリトン案件です》
「また“お願い系”か?」
と、ふざけ半分に尋ねるコーエンに、B.A.NIは浮遊しながら応じた。
《“構いませんので”とは、命令ではなく、放棄された主語の影に隠れた圧力です。
行動しなければ“誠に遺憾”が待っています》
「……やってほしいって意味ですよね」とリコ。
「ならば、そう書け」
黒川の目は鋭く、静かに怒っていた。
⸻
翌日、別件メール対応中
ノートPCを前に、黒川は事務的に打鍵する。
“Please complete the form. Deadline: 48 hours.”
コーエンが頭を抱える。
「それ、そのまま出したら“戦争”って言われますよ、隊長……!」
「これは事実の提示だ。“お願い”に偽装する意味はない」
B.A.NIが和らげる翻訳文を提案する。
《お忙しいところ恐れ入りますが、ご対応いただけますと幸いです》
黒川は溜め息混じりに言った。
「……翻訳処理しろ。刺されない文体で」
⸻
別の端末に届いた返信メール
「誠に申し訳ございませんが、本件につきましては対応いたしかねます。
また、誠に恐縮ではございますが、何卒ご了承のほどお願い申し上げます。」
それを読み終えた黒川は、無言でタブレットを伏せた。
「……誠に……誠に……って、やめろ……」
天井を見上げる彼に、B.A.NIは淡々と記録する。
《本日:バリトン発動3件、曖昧表現クレーム5件、文化摩擦による血圧上昇2回──
中尉、ヒューマンカルチャー適応値が低下しています》
⸻
曖昧の雨に濡れる午後
「いまんとこ出来るかどうかちょーっとわかんないんですけど、一応、受け取っときますね!」
そう言ってリコが書類を差し出した瞬間、黒川は顔を上げた。
「……Was hast du gerade gesagt…?」(今なんて言った?)
B.A.NIが即応。
《ドイツ語発動!構文:不審/警戒/論理破綻判定》
「“できるか、できないか”──言え」
「いや、やるとは言ってないですけど、“気持ちは前向き”みたいな……え、怒ってます?」
「お前が今出したのは、“未定かつ不確定”な“検討中の受領”だ。
その状態で何が動く。誰が何を準備する。指揮系統が混乱する。
言った責任が消える表現は、使うな」
B.A.NIが自動翻訳を表示する。
【Original: ちょーっとわかんないんですけど、受け取っときますね!
Translation: “I will not do it now. Maybe later. Or never. Possibly.”
→ 訳注:この文は「受け取った」とは言っていない可能性があります】
⸻
夕刻、限界点
書類に並ぶ常套句。
「前向きに検討いたします」「可能な範囲で」「ご期待に沿えるよう努力します」
黒川が、ひとつの仮説に辿り着いたように呟いた。
「……これは、俺が、嫌がらせを受けているという可能性は」
「隊長、悪意はないんです、ないんですって!」
慌てるコーエンの頭上を飛ぶB.A.NIが警告を発する。
《言語認識:錯乱兆候。ドイツ語発動まで7秒》
「……Scheiße!」
「“可能な限り”とは。限界の定義はどこにある」
「“努力します”とは。達成の有無は関係ないのか」
「“前向きに検討”──“前向き”の角度は? 方角は?」
黒川の呟きは、すでに呪詛に近かった。
「気持ちだけで、作戦は動かせない」
「でも、“曖昧”はここじゃ、“人を守る盾”なんですよ……」
そう呟いたのは、真面目な樋口だった。
「その盾のせいで、俺の部隊は──全滅する」
静寂が降りた。
B.A.NIの声だけが、静かに響いた。
《本日、言語摩擦による精神圧力:臨界点到達──》
⸻
その夜、自宅
ソファに沈み込む黒川。
脱いだジャケットを紗貴が受け取りながら、言葉を交わす。
「おかえり誠ぉ」
「Too many ‘maybes’. Not enough ‘yes’ or ‘no’.
I swear, I have no idea what they’re trying to say half the time.」
「え、どうして…英語モード…??」
紅茶を差し出す紗貴はそう呟いた。
「その日、帰宅後。誠は……ずっと英語だった……
あたしの英語力が、うなぎ登りよ……」
B.A.NI(遠隔端末より)
《語学スキル:向上確認。Good job, Miss Saki.》
⸻
黒川Dieter誠 ドイツ育ち。元傭兵、ドイツ語分隊所属。三十路。
ここに、また日本語という強敵が立ちはだかっていた。
• 「言葉は責任を持つためにある。相手の機嫌をとるためにあるんじゃない」
• 「“誠に”を冠して命令するなら、俺が命じる。お前が恐縮しろ」
• 「曖昧な命令は、命令ではない」
• 「“やれそうならやってほしい”で始まる作戦は、負ける」
エピローグ
黒川(端末に手を置いたまま、じっと沈黙)
心配そうに様子を伺う紗貴。
「……違う、か」
「えっ、なにが?」
「俺が向いてねえのは、仕事でも職場でもねえ……
……日本語に向いてねぇんじゃねえかな」
「ちょ、いきなり国家語レベルで向き不向き語らないで!」
黒川は真剣な面持である。
「“ご査収ください”って何だ。“拝受しました”って、実際に受け取ったのか?
“恐れ入りますが”で始まる依頼は、命令か謝罪か曖昧だ。
俺は、言葉が意味を持ってる世界で育ったんだよ……
それなのに──“誠に申し訳ない”って名前で謝られて……もう、俺は……」
「誠、ちょっと、ねえ……」
「俺は“戦術”では会話ができる。“意味”がある限り、言葉を使える。
でも、日本語は……“音”が多すぎる。“文化”に殴られる……
もう、だめだ。疲れた……」
B.A.NI
「これは言語的限界値による“文化ショック症候群”です。
適切な睡眠と、曖昧語の遮断が必要です」
「つまり……今夜は、メールも日本語も、もうやめよっか」
「……寝る」
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