第5話 乙女の目覚め
レナは操縦桿を握る手に汗が滲むのを感じた。目の前の黒いドームは、まるで巨大な生物の卵のようだ。そして、そこから微かに漏れ聞こえてくる歌は、エルのとは異なり、もっと直接的に精神を揺さぶるような、不安と懐かしさが入り混じった奇妙な旋律だった。
「……エル、この『乙女』様、どうやってお持ち帰りするんだ? クレーンでも持ってくりゃよかったか?」
軽口を叩いてはみるものの、レナの声には緊張が隠せない。
「現状、ドームの構造および内部の対象物の正確な質量、サイズ共に不明です。依頼主から提供された情報には、回収方法に関する具体的な指示はありませんでした」
エルの淡々とした声が、逆にレナの焦燥感を際立たせる。
「そりゃそうだろうな。こんな代物、マニュアル通りにいくわけがねえ」
レナはクレイドル号をドームから少し離れた、比較的安定した床面――かつては巨大な動力パイプが走っていたであろう頑丈な基部――に慎重に着陸させた。船体を固定し、エンジン出力を最低限に抑える。
「エル、お前はここで待機だ。周囲の警戒と、あのドームのさらなる分析を頼む。何か動きがあったらすぐに知らせろ。特に、さっきのゴキブリどもが戻ってきたらな」
「了解しました。レナも最大限の注意を。この区画の放射線レベルは低いですが、構造的な不安定箇所が多数存在します」
「分かってるよ」
レナは船内ドックで手早く宇宙服を装着した。ヘルメットのバイザーを下ろすと、外界の音は遮断され、自身の呼吸音だけが大きく響く。腰には愛用のレーザーピストルと、予備のエネルギーパック。そして、マルチツール。これだけで、あの得体の知れない代物に挑まなければならない。
エアロックが開き、レナは『アルテミス』の冷たい船内へと一歩踏み出した。床には薄っすらと金属粉塵が積もり、歩くたびに小さく舞い上がる。重力は地球標準の六分の一程度だろうか、体がふわりと軽いが、それがかえって足元を不安定にさせる。
ゆっくりと、黒いドームへと近づいていく。距離が縮まるにつれ、あの奇妙な歌はより鮮明に、そして複雑なハーモニーを伴って聞こえてくるようになった。それは耳から入る音というより、直接脳に響いてくるような感覚だ。レナは眉をひそめ、一瞬、強い目眩に似た感覚に襲われた。
ドームの表面は、滑らかに見えて微細な凹凸があり、まるで磨かれた黒曜石のようだ。手を伸ばし、その冷たい表面に触れようとした、その瞬間――。
『レナ!』
ヘルメット内の通信機から、エルの切迫した声が響いた。
『ドームの表面温度が急激に上昇しています! 摂氏5度……10度……内部のエネルギーパターンが急速に変化! これは……何らかの覚醒プロセスの初期段階に酷似しています!』
「何だって!?」
レナがドームから飛び退ったのと、背後から複数のレーザーが飛来したのはほぼ同時だった。
先ほどのグループたちが、いつの間にか追いついていたのだ。数は減っているようだが、その分、殺気は増している。
「チッ、しつこいゴキブリどもが!」
レナは近くの構造物の影に身を隠し、レーザーピストルで応戦する。だが、敵は遮蔽物を巧みに利用し、じりじりと距離を詰めてくる。彼らの目的は、レナの排除か、それともあのドームか。
「エル! 何か手はねえか! こいつらを黙らせるか、あのドームを止めるか!」
『スカベンジャーの宇宙服の脆弱性は先程お伝えした通りです! ドームに関しては……現在、解析不能な高周波パルスを断続的に発信中! 危険です、レナ! それ以上近づかないでください!』
戦闘の衝撃と、ドームから発せられる異様なプレッシャーで、レナの集中力は削られていく。その時、黒いドームが、これまで以上に強く発光を始めた。表面には亀裂のような光の筋が走り、まるで内側から何かが生まれ出ようとしているかのようだ。そして、あの歌の音量が一段と増し、周囲の空間がビリビリと震えるような感覚に陥る。
「おいおい、マジかよ……!」
スカベンジャーの一人が、ドームの異変に気を取られた瞬間、レナはその隙を逃さずにレーザーで相手の武器を撃ち抜いた。だが、他の敵の攻撃は止まない。
『レナ、ドームから放出されるエネルギー量が臨界点に近づいています! 測定不能な規模のエネルギー放出の可能性があります! 今すぐそこから離脱してください! 回収任務の継続は不可能です!』
エルの警告は、もはや悲鳴に近い。
レナは歯噛みした。目の前では得体の知れない『眠れる乙女』が目覚めようとし、背後からは攻撃が続く。そして、足元の『アルテミス』自体が、まるでこの異変に共振するかのように不気味に軋んでいる。
黒いドームの亀裂から、眩い純白の光が溢れ出し始めた。それは、星の誕生か、あるいは終焉を思わせるような、圧倒的な光だった。
レナは咄嗟にバイザーの遮光レベルを最大にしたが、それでも目が眩むほどの光量だ。
「エル! 船に戻る! 最大船速でここから離脱準備!」
叫びながら、レナは最も近いエアロックハッチへと向かって走り出した。
だが、その時――。
ドームから溢れ出た光の中から、何かがゆっくりと姿を現そうとしていた。
それは、人影……?
いや、もっと巨大で、そして、およそこの世のものとは思えない、異様な形状の――。
「嘘だろ……?」
レナの足が、恐怖で縫い付けられたように止まった。
『眠れる乙女』の覚醒は、彼女の、そしておそらくこの宇宙の誰もが予想し得ない形で始まろうとしていた。
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