春はきにけり

 春の匂いがした。


 窓なんて開けていないのに、どうしてなんだろう。なんて、思い立った私は、鍋の火を弱めて窓辺へと足を向けた。

 ガラスの向こう側にある世界の半分は空に覆われ、その他は見慣れた繁華街がある。


 昼間は寂れた商店街のようにしか見えないけれど、夜になると一気に明るくなるのだ。


 そんな景色が見えるこの場所で暮らし始めてから、今日で5ヶ月を迎える。


 そろそろ朝食づくりを再開しようと踵を返した時、私がここで暮らし始めた日から、この家の主となった青年がリビングに顔を出した。


「──早いね。もしかして、作り始めちゃった?」

「お味噌汁だけだよ。なんか目が覚めちゃって」

「そう」


 彼は篠宮しのみや璃叶りと

 行き場を失くした私の面倒をみてくれた人の息子で、私の同級生だ。

 男の子にしては細くて色白く、その辺の女の子よりも肌がきれいな、紺色の瞳を持つ男の子。

 ちなみに、私と同居している。しかし私たちは恋人同士ではない。


 年頃の男女が一つ屋根の下で暮らすのは、如何なものかとよく言われるが。


「今日先に帰ってていいよ」

「どうして?何か用事があるの?」

「そう」


 朝食をお皿に盛りながら、今日の予定を話したり、テレビに映っている有名人の話をしたり。

 他人に何と言われようが、私たちは私たちらしく生きているから、それでいいと思う。

 きっと、紫さんもそう望んでいるはずだから。


「…でもどうしよ。帰り道危ないから、俺の用事終わるの待つ?」

「もう春だし明るいから、大丈夫だよ」

「そうは言ってもさ、」


 ご飯を盛る手を止めるほどに、りとは悩んでいるようだ。

 心配性だなぁ、と笑えば、りとは苦笑をこぼしながら頷く。


「…ごめん、許して。もうあんな思いをしたくないから」

「……うん」


 悲しそうに微笑まれ、私は胸を詰まらせた。

 私も、“あんな思い”をしたくない。させたくない。だから、私はここに身を置いているのだ。

 癒えない傷を負ったりとに寄り添うことが、もういないあの人への恩返しだと思っているから。


 維月とさよならをしたあの日から、三ヶ月が経った今。

 私とりとは、高校三年生になった。

 身の回りで大きく変わったことと言えば、神苑だ。生徒たちにとって恐怖でしかなかったあの集団は今、ただの暴走族になった。


 姫であった紗羅さんや総長の夏樹さん、幹部数名が高校を卒業し、それに伴い神苑を取り仕切るメンバーが代わったのだ。だから、もうあの学校に横暴なことをする人たちはいない。


「十六時には終わるから、校門で待ってて」

「校門?新しい姫と総長を迎えに来る車が停まってるから嫌だなぁ。人が凄そうだし」

「たかが車と人混みじゃん。その横を自転車で通過すれば問題ないでしょ」

「問題……あるでしょ…」


 皆が黄色い声を上げて盛り上がっているその横を、自転車で通過するなんて、考えただけでゾッとする。翌日、下駄箱から上履きが消えてそうだ。

 ああ、恐ろしや恐ろしや。


 不満げに口を尖らせている私とは反対に、りとはケラケラと笑っていた。それを見て、別にいいかな、と思った。だって、りとが笑ってくれたから。


 紫さんが亡くなったばかりの頃は、何をしても無反応、無表情、無気力で、人形のようだった。

 目を離したら、消えてしまうんじゃないかってくらいに危うくて。


「何かされたら俺を呼んで。…晏吏が飛び蹴りで仕返しするから」

「……ふふっ」


 砂の城のように儚く、溶けて消えてしまいそうだったりとが、笑っている。

 私が居るから、なんて自惚れてはいない。

 でも。


『ひとりにしないで』


 手をつないでここに帰ってきたあの日、りとは言ったんだ。涙こそは見せなかったものの、今にも泣きそうな顔をして、嗚咽混じりな声で。


 だから、私はここにいる。

 必要とされなくなる日まで、ここに。


「そろそろ、出ようか」

「そうだね」

「忘れ物はない?」

「ないよ。りとは?」

「あるわけないでしょ」


 もう何度目か分からないやり取りをした後、当たり前のように、左手をそっと握られ。誘われるように手を引かれるがまま、家の外へと出る。


「…行ってきます、紫さん」


 そうして、りとは家を出ると、一度玄関を振り返ってそう言う。

 もういないあの人が、生きていた頃のように。


 私はそれを見るたび、繋がれた左手に力を籠めてしまうんだ。


 あの日――崇瀬組と御堂組の二度目の抗争があった日、紫さんは死んだ。


 彼はその日よりひと月ほど前、誰よりも愛していたはずの息子に、“気まぐれで拾い、育てた”と言っていた。だというのに、彼は自分の命の灯が消えていく時、息子にこう告げた。


 “あなたは、愛した人が、愛してあげたかった命”なのだと。


(…りとには、訊けない)


 それはどういう意味なのだろう。

 言葉通りなら、生前、紫さんは誰かを愛していて、その誰かが愛してあげたかった存在がりとということになる。すなわち、紫さんが好いていた人の子が、りとであるのだ。


 だが、その真相を訊こうにも、りとに訊くことは出来ない。

 彼は生きている限り忘れることの出来ない想いを、癒えることがないであろう傷を、心の奥深くに負ってしまったのだから。


(……紫さん)


 どうして、隠していたのか。

 どうして、嘘を吐いたのか。

 全てを明かすことなく秘めたまま、逝ってしまった。



「柚羽チャン、どーしたの?」


 その声で、私は口に運ぼうとしていた卵焼きを落としていたことに気がついた。

 幸い、落としたのが床の上でなく机の上だったから、そこまで深く落ち込まなかったけれど。


「…ごめんね、ちょっとボーっとしてて」


 そう言い、落とした卵焼きをお弁当箱の蓋の上に乗せた。せっかくかに玉風味にしたのに、残念だ。


「ちょっとどころじゃないわよ。朝からずっとよ?」


「そうだった?」


 力なく笑ってみせた私を、聡美が心配そうな面持ちで見つめていた。その横顔がさびしそうだったことには気づかないふりをしながら、私はご飯を食べていた。

 まだ、言えない。言ってはいけないことなのだ。

 りとにも、諏訪くんにも、聡美にも。


(…元気かな、維月)

 ――君にだったら、言えることなのかもしれないけれど。


 放課後。いつものように手早く帰り支度を済ませた私は、速足で校門へと向かって歩いた。

 心なしか、たくさんの女子生徒が黄色い声を上げながら、私を追い越している気がする。

 校門に有名人でも来ているのだろうか。それとも、他校のイケメンが居るとか?

 なんて、ぼんやりとあれやこれやと予想しながら歩いていたら、校門が見えてきた。


(…なるほど)


 そこは女子生徒たちで溢れかえっていた。歓声とバイクのエンジン音が止まないその空間は、どこか別世界のようにも思える。

 今朝りとが言っていた通りだ。神苑の新しい総長とその姫を一目見ようと、たくさんの生徒たちが集まっている。


 私は一つため息を吐いた後、その集団の横を静かに通り過ぎた。


 もう、夏樹さんと紗羅さんはいない。横暴なことをしてきた人たちはもういないのに、どうして胸騒ぎがするんだろう。


 どうか何も起きませんように。静かに、ひっそりと、生きていけますように。そう願うのはいけないことだろうか。


 家に帰る途中でスーパーに寄り、一通りの食材を買った私は、いつも通りに『lapis lazuli』へと向かって歩いた。


 今夜はりとが好きなサーモンをトッピングしたサラダを作ろう。喜んでくれるかな、なんて。


 小さなことだけれど、積み重ねていけば、いつかきっと傷が薄くなるはずだ。前のように、笑ってくれる日が来る。

 そう信じて、私は今日も明日も、前を向いて生きていくんだ。


 ぽつぽつと街灯の明かりが点き始めたのを横目で見ながら、賑やかな繫華街の大通りをひた歩く。


 ようやく店先に着いた私は、一度足元に荷物を置き、鍵を取ろうと鞄の中を弄った。


(えーと、確かこの辺に…)


 とても女の子のものとは思えないくらいにごちゃごちゃとしている鞄の中で、大きなクマのキーホルダーが付いた鍵を掴んだ私は、そのまま引っ張り上げた。食材を冷蔵庫に入れて、洗濯物を取り込んで、それから…。


「――もしもし、そこの人」

「…わっ!?」


 鍵穴に鍵を差し込もうとした瞬間、突然肩に手を置かれた私は、驚きのあまりに手に持っていた物を下に落とした。慌てて拾い上げ、背後に居るであろう人の方へと振り返れば。


(………え…?)


「…すまなかった。少々訪ねたいことがあって…」


 そこには、紫さんと瓜二つの顔をしている男性が居た。


「ゆ、ゆっ…、」


 紫さん、と言いかけて、口を噤んだ。

 突然に現れた男の人は、紫さんと瓜二つの顔で、怪訝そうに眉を顰めながら「ゆ?」と言っている。


 何を言いかけているんだ、私は。紫さんはもう、この世界にいないのに。


(ふ、双子…とか? それとも、他人の空似?)


 どちらにしろ、こんなにも似ているのだ。思わず名前を呼んでしまいそうになるくらいに。そんな人を目の前にして、冷静でいられるわけがない。


「す、すみません…」


 私は慌てて頭を下げ、謝罪を口にした。


 彼は静かに首を横に振ると、「こちらこそ」と言って、何かを紛らわすような咳払いをした。そして、意を決したように口を開く。


「…lapis lazuli、という店はここで間違いないか?」

「…は、はい!」


 一瞬、何のことだか分からなかったが、視界の端にある見慣れた看板を目にし、理解した。それは、紫さんが経営していたお店の名前だ。


 彼は私が頷いたのを見ると、ジャケットの内側から手のひらサイズのカードのようなものを取り出すと、私に差し出してきた。


「……え…」


 それは、【向坂 藍】と書かれている名刺だった。


(向坂って、紫さんの…)


 受け取った名刺をまじまじと見つめている私を余所に、彼は口を開いた。


「俺は向坂藍という。兄を捜して、ここまで来た」


 シンプルな腕時計をしている左の手首が、ネイビー色のコートのポケットへと滑るように入る。片手だけポケットに入れて話すのは、紫さんの癖でもあった。


 別人だと分かっていても、大好きだった人と同じ仕草を見ると、懐かしい気持ちとともに、取り留めのない寂しさが溢れ出す。


「お兄さんを捜して…?」

「…ああ。ずっと行方不明だったんだが、先日崇瀬組と御堂組の抗争があったことを、ニュースで見て知った」

「たかせぐみ、の…」


 知っているのか? という彼の問いに、私は頷けなかった。その現場に居た、なんて言えない。


 かの人が命を落としてしまう瞬間を目の前で見ていました、なんて言えるわけがない。


 口を閉ざした私を、彼は静かに見つめながら、そっと声を落とす。


「…その様子だと、何か知っているようだな」


 知らない、と言ったら嘘をつくことになる。かと言って、知っていると言ったら、あの日の出来事や、紫さんが関わっていた“彼ら”のことを話すことになる。


「……私は…」


 伝えたら、どうなるのだろう。

 伝えたら、この男の人は──紫さんの弟さんは、何を思うのだろう。兄が陽の当たらない世界で生きていたのだと知ったら、彼は。


「…君は?」


 言っていいのかな。そうすることが彼にとって一番良いことなのかな。

 でも、璃叶は?

 伝えたら、璃叶は…。


「───柚羽チャン?」


 どうするべきか迷っている私の耳に、よく聞き知った声が届く。弾かれたように後ろを振り返ると、そこには予想通りの人物が居た。


「諏訪くん…」


 諏訪くんはいつものように緩く微笑みながら、小首を傾げていた。けれど、私のすぐ隣に見知らぬ人が居るのを見て、警戒するような目つきに変わる。


「…柚羽チャンの知り合い、じゃないよね?」

「う、うん。そうだけど、今さっき挨拶をしたから…知り合いになるのかな?」


 諏訪くんは薄く笑ったまま「ふうん」と返事をすると、私と弟さんの傍にやって来た。


「初めまして、僕は諏訪晏吏といいます。貴方は?」


 諏訪くんは私を背に庇うように立つと、自己紹介をし始めた。


 どこか鋭さを秘めたような声色に、じわじわと肌を焼かれているような気がする。


 諏訪くんは男の人の容姿が紫さんに似ていることに驚いているようだった。けれど、そんな素振りを見せたのは、最初のほんの一瞬だけ。薄い微笑みで隠してしまったようだ。


「俺は向坂藍だ」

「向坂さん、ですか。ここにはどのようなご用で?」


 諏訪くんの唇から放たれた「向坂さん」と呼ぶ声は、突き放すような、淡々としたものだったけれど、決して冷たくはなかった。むしろ、真夏の太陽のように熱い。


 弟さん──藍さんは微かに目を見開くと、静かに答えた。


「兄を捜していたら、ここに辿り着いた」

「兄、とは? 向坂紫さんですか?」

「そうだ。君は兄の知り合いか?」


 それよりも、なぜ兄を知っているんだ。そう言いたげな藍さんの黒瞳に、諏訪くんの凜とした表情が映り込んでいた。


「そうですね。知り合いです。彼には大変お世話になりましたから」

「兄とは親しかったのか? 何故死んだのか知っているか? …どうしてあんな仕事をしていたのかも、君は知っているか?」


 縋り付くように重ねられた質問に、諏訪くんの顔が苦しそうに歪む。その横顔から、諏訪くんの気持ちが痛いほど伝わってくる。


 私たちは藍さんが求めているものを持っている。けれど、それを差し出すことは出来ない。何故なら、私たちはそれを差し出す権利を持っていないからだ。


 有しているのはただひとり、りとだけ。

 紫さんに愛された、彼だけ。


「存じていますが、僕の一存ではお話出来ません」

「俺には知る権利がある。紫は僕の兄だ。血の繋がりもない、赤の他人である君だけが知り得ていいことがあるとでも?」

「血が繋がっていれば、何でも知っていいんですか? 」


 吐き捨てるように放たれたその声は、とても低かった。

 言葉を失った藍さんは、悲しそうに瞳を揺らす。ずっと探していたものが手に入るかもしれないのに、拒絶されてしまったのだ。


 あの頃の私と維月に似ている気がして、胸がただれたように痛くなった。


「───行こう、柚羽チャン」


 そう言うと、諏訪くんは私の手を引いて駆け出した。裏口ではなく白い扉がある正面玄関まで走ると、私の手から鍵を取り、何かに取り憑かれたような顔でドアを開ける。


 家の中に入ると、諏訪くんは無言で鍵を閉めた。今朝私が開けたカーテンも、外の世界とシャットアウトするように全て閉めていき、部屋が真っ暗になったところで口を開く。


「ごめんね、関係ないのに割り込んで」

「ううん、私は大丈夫」


 諏訪くんは力なく微笑むと、右手でくしゃりと髪をかきあげた。それは彼が迷っていたり落ち込んでいた時にする仕草だ。


「まさか、紫さんに兄弟が居たとはね」

「…うん。よく似てたから、最初は紫さんかと思っちゃったよ」


 本当によく似ていた。まるで生き写しだった。いっそ、紫さんだったらよかったのに…なんてことを思ってしまうほどに、私も諏訪くんも紫さんのことが忘れられないのだ。


「りとには話さない方がいいかもね。弟さんが来たこと」

「…うん、私もそう思う」


 弟さんには悪いけれど、今のりとにあんなにもそっくりな人を会わせるわけにはいかない。


 やっと落ち着いたのだ。このまま何も知らないまま、笑っていてほしい。生きていてほしい。


 そう考えて私は、今と似ている境遇に置かれていた、あの夏の日を思い出した。


 何も知らないまま、笑っていてほしい。状況は違うけれど、想いは似ている。


「…なんで黙ったまま逝っちゃったのかなぁ、紫さん」


 諏訪くんの呟きに、私は何も返せなかった。


 茜色に染まっていく空を窓越しに眺めながら、昨日のように明日の平穏を祈った。


 どうか、このまま何も起きませんように。もう誰も傷つきませんように。そう願うことしか出来ない自分が不甲斐なくて、肺の奥が痛くて堪らなかった。



 夢をみていた。懐かしい、あの人の夢。

 あの頃は、私の名前を呼ぶ綺麗な人に逢える機会だと思っていたけれど、全てが終わった今ではこの夢の意味を理解している。


『──…柚羽』


 見渡す限り黒が広がっている空間の中で、月のように眩い光を放ちながら、彼は佇んでいる。


『いづき…』


 どうして、なんて言えない。

 この夢は、入ってはいけない場所へと向かう私を止めるために、彼が見せているのだ。何とも不思議な奇跡だと思うけれど、同時に恐ろしくも思う。


 維月は悲しそうな表情をしていた。

 どこからか漂うように吹いてくる風に髪を靡かせながら、ゆっくりと私の元へと歩いてくる。


 私は維月が歩み寄った歩数分だけ後退った。

 維月が一歩進めば、私も一歩下がる。決して交わることのない平行線のように。


『柚羽。どうして逃げるの?』


 私を追うのを諦めたのか、維月は足を止めてそう問いかけてきた。


 どうして逃げるの、なんて。そんなの、言うまでもないじゃない。維月の優しさに触れないためだよ。


『…いづきに関係ないでしょう』

『関係あるよ』


 維月は間髪入れずにそう答えると、ゆっくりとした足取りで私の元へと歩いてくる。


 私はまた後退ろうと、右足を引いた。けれど、それはどこまでも続いているであろう空間に行くことなく、壁にぶつかる。


 その瞬間、維月の唇が弧を描いた。まるで私を追い詰められることに歓喜しているようだ。


『…どうして、関係があるの?』


 維月は不思議そうに首を傾げる。何かおかしなことを訊いてしまったのかと、私が錯覚してしまいそうになった。


『…訊くまでもないことを。柚羽のことだからに決まっているだろう?』

『私のことなんて維月には関係ないじゃないっ…!自分から手を離したくせに、勝手だよ!』


 鼓膜を劈くような叫びは、私の喉の奥から出た心の声だった。思わず両手で耳を覆って、力一杯瞼を閉じる。


 維月はいつだって勝手だ。大事なことは何も話してくれないし、自分のことも教えてくれない。


 恋人という関係であった時でさえ、彼には数え切れないくらいの秘密があった。そのうちの一つも教えてくれなかった。


 愛の言葉を囁いて紛らわせて、ごめんねって曖昧に笑って、全てを微笑みで隠す。

 今思えば、私はあなたに隠し事をされっぱなしだった。


『…いづきは勝手。言えない、話せない、ごめんねって、いつもそればっかりだった。なのにどうして…』


 どうして私のことには踏み込んでくるのだろう。そう続けて吐き出しそうになる言葉を飲み込んで、私はぐっと奥歯を噛み締めた。


 狡い元恋人から目を逸らすために、顔を俯かせて唇を引き結んだ。


 お願い、早く醒めて。維月の夢なんてもう見たくない。維月とはもうお別れをしたんだ。維月が生きる世界には連れて行けないって、手を離されたんだよ、私。


『…放っておいてよ……』


 最後の呟きは、酷く弱々しいものだった。

 私はそのまま後ろを向いて、壁に手をついてずるずると下に崩れ落ちた。


 このまま、真っ暗闇の世界に溶け込んでしまいたい。目が覚めるまで、全てを忘れてただ眠っていたい。なのに、君はそうさせてはくれないのだ。


『放っておけないよ』


 今にも泣きそうな私を、後ろからそっと包み込むように抱きしめる。

 懐かしい香りに鼻を擽られ、今度こそ泣いてしまいそうになった。


『離してっ!優しくしないでよっ…』

『嫌だよ』

『意味が分からないよっ…!』

『分からなくて、いい』


 最後の囁きは、びっくりするほど耳の近くで聞こえた。


 気のせいでなければ、維月の声は濡れていた。


 どうしてなのかは分からないけれど、私のせいであるような気がした。

 自惚れなんかじゃない。維月を泣かせることが出来るのは、世界でただひとり、私だけだからだ。


 私はゆっくりと後ろを振り返った。

 維月は瞳を縁取る睫毛を揺らしながら、私を見つめていた。


 相も変わらず綺麗な琥珀色の瞳に見入っていたら、突然に世界が白く発色した。


 目が、覚める。夢が終わる。そう望んでいたのは私なのに、維月の顔を見てしまった今、現実に帰りたいと願えなくなった。


『いづ…──』


 酷いことを言って、ごめんね。そう伝えたかったのだけれど。その言葉を遮るように降ったキスによって、声にならなかった。


「───…っ!」


 あまりの息苦しさで目が覚めた。布団の中で眠っていたというのに、どうしてか私は肩で息をしている。


 夢の中で、維月が泣いていた。けれど、それは夢の話で、現実で起きたことではない。だというのに、胸が痛くて堪らない。


(……夢。今のは、夢。全部)


 彼は渡ってはいけない橋を見つけてしまった私を止めにきていた。


 昔のようにそっと抱きしめて、夢の終わりに口づけをしてきて。だけど、それらは全て夢の中での話だから。


 私は自分で両頬を叩き、大きく息を吸って吐いた。


 揺らぐな、と自分に言い聞かせて。


 私の手を離したあの人は、今頃ヤクザの一員として、私が生きるこの場所とは無縁の世界で息をしているのだ。


 私のことなんて忘れて、新しい誰かの手を取っているかもしれない。


 維月は馬鹿みたいに優しいから、今も心のどこかで私のことを想ってくれているかもしれないけれど。


 私は、そうしてはいられない。雪の中に心を置き去りにしてきた璃叶のためにも、自分のためにも。

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