第9話 クリーニング屋の忘れ物

 その日の夕方、仕事帰りにふと思い出して立ち寄ったのは、近所の小さなクリーニング店だった。


 「お待たせしました、〇〇様のスーツです」


 店主が古い紙袋を手渡してくれた。俺は一瞬、何のことか分からなかった。


 「スーツ……?」


 「はい。お預かりしてから、ずいぶん長い間、お引き取りがありませんでしたよ」


 店主の言葉に、記憶の扉がゆっくりと開く。


 手にしたスーツは確かに俺のものだった。色あせてはいるが、丁寧に仕立てられた紺色のビジネススーツ。袖口に小さな擦り切れも見える。


 「これ……」


 ポケットに手を入れると、ひんやりとした感触の小さな紙切れが指先に触れた。取り出してみると、そこには鉛筆で綴られた文字があった。


 『1日目 象の孤児院に行く。2日目 シギリヤロック登頂。3日目 海辺の村で夕陽を見ながら語り合う。最高の旅。ありがとう。』


 読み返すうちに、あの日の暑いスリランカの空が脳裏に浮かんだ。


 新婚旅行で訪れたスリランカ。俺たちはまだ若くて、世界が全てキラキラと輝いて見えた。


 成田空港での出発の日、俺はこのスーツを選んだ。あの時、彼女が笑いながら言った。


 「あなた、ちょっと大人っぽく見えるね」


 初めての海外旅行。飛行機の中で彼女が窓の外を見つめていた姿を思い出す。期待と少しの不安が入り混じった表情だった。


 到着した空港は暑く、湿気がまとわりついた。地元の人たちの笑顔や、色とりどりの衣装、異国の匂いが俺たちを包んだ。


 初日の予定は象の孤児院訪問。大きな象がゆったりと水浴びをする光景に、俺たちは思わず声を潜めて見入った。


 彼女は笑顔で象の背中を撫で、「こんなに優しい生き物がいるんだね」とつぶやいた。


 「これからも、僕たちも優しく生きような」


 俺が手を握ると、彼女は照れくさそうに笑った。


 二日目、シギリヤロックへの登頂は体力的に厳しかったが、頂上から見渡す絶景は疲れを吹き飛ばした。


 息を切らせながらも、頂上で二人並んで座った。


 「ねえ、これからも一緒にいろんな景色を見ていこうね」


 「ああ、ずっと」


 あの時の約束は、今も胸にある。


 三日目の夕方、海辺の村で見た夕陽は、言葉にできないほど美しかった。


 オレンジに染まる空と波音が、ゆっくりと時間を刻む。


 俺たちは小さな屋台で買ったミルクティーを飲みながら語り合った。


 「ここでずっとこうしていられたらな」


 彼女が呟く。俺はその言葉に頷き、彼女の手をしっかりと握った。


 スーツのポケットから出てきたメモを見ながら、彼女に話した。


 「これ、覚えてる? 俺たち、あの時こうやって旅の計画立てたんだよな」


 彼女は笑って、「うん、なんだか夢みたいだよね」と目を細めた。


 「でも、その夢はずっと続いてる。今だって、こうして二人でいる。決して簡単じゃなかったけど、あの時の約束があったから、乗り越えられたと思う」


 「ありがとう。あなたがいてくれて、本当に良かった」


 その言葉に俺も目が熱くなった。


 その夜、二人で食卓を囲みながら、昔の写真を見返した。


 新婚旅行のアルバム。初めての地での笑顔がたくさんあった。


 「あの頃は無邪気でよかったね」


 「でも今のほうが、もっと深いよ。お互いを知って、信じているから」


 彼女がそう言うと、俺はそっと手を伸ばして彼女の手を握った。


 忘れられたスーツが教えてくれたのは、ただの過去の思い出ではなかった。


 それは、今の自分たちを繋ぐ大切な“絆”だった。


 どんなに時間が過ぎても、どんなに困難があっても、あの頃の約束と愛がここにある。


 これからも二人で歩んでいくために。

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