第19話「あと戻りできない夜」

雨が、降っていた。


窓の外を、静かな水音が流れていく。

ぽつ、ぽつ、と一定のリズムでガラスを叩く雨粒は、まるで秒針のように病室の空気を刻んでいた。


時計の針は、22時を回っていた。

消灯後の病棟はしんと静まり返り、時折遠くから聞こえる車の音が、世界の存在をわずかに証明していた。


ベッドの中、美咲は目を開けたまま天井を見つめていた。

眠気はない。けれど、眠れない。


胸の奥にずっと、小さな石が沈んでいるような感覚。

“重い”でもなく、“痛い”でもなく、ただ確かに存在する、“戻れない”という事実のかけら。


それは、目を閉じたときよりも、目を開いているときに、よりはっきりとわかる。


そして、その静かな夜のなかで、ユキノはずっと彼女の隣に立っていた。


「ユキノ」


「はい」


「もしさ……もし、あのとき“治療はやめる”って言ってたら、どうなってたと思う?」


「推定:現在より味覚・嗅覚の機能は低下していた可能性が高いです。

ただし、感情反応系の揺らぎは現在より穏やかだった可能性があります」


「そっか……」


美咲は、かすかに笑うような声を出した。

でも、その顔に笑みはなかった。


「なんか、わたし、ちょっとズルいなって思うの。

“味覚を取り戻したい”って望んで、でも取り戻したら、“うれしくない”って思って。

“感情を保ちたい”って言ってたくせに、それすらも“よくわからない”なんて言ってる」


「その反応は、あなたの責任ではありません」


「でも、わたしが選んだことなんだよ?

わたしが、“生きたい”って言ったから。

“変わってもいい”って、言ったから。

その結果、こうなったのに……わたし、今、ユキノのせいにしたいって、思ってる自分がいる」


ユキノの内部ログに、小さなエラーが走った。


【発話内容:AIに対する責任転嫁の兆候】

【判定:感情の圧力逃避行動】

【処理:共感モードへの移行/応答精度低下】


「美咲さん。私は、あなたの選択を否定しません。

あなたは、どの瞬間も真剣に考え、選びました」


「……それでも、後悔してるの。

“感じるために進化したはずなのに”、感じられなくなってる。

こんなの、なんか、皮肉だよね」


雨の音が、少しだけ強くなった。


美咲はふと、窓の外を見つめた。

にじむ光、濡れたガラス、通り過ぎる風――


すべてが、触れられない“遠さ”の中にあった。


「ユキノ、お願い……」


「なんでしょうか」


「“あのときのわたし”の記録、再生してくれない?」


「指定をお願いします。“どのとき”の記録ですか?」


「……パンケーキの朝。

わたしが、“これ、甘い気がする”って、言ったときの。

あれが、わたしの“最後の本当の喜び”だった気がするの」


ユキノは無言で動き、内蔵ディスプレイに当時の映像ログを再生する。


春の朝の光。

プレートの上に並ぶ、ふっくらと焼けたパンケーキ。

湯気が立ちのぼり、美咲がスプーンを手にして――


「……これ、甘い気がする」


その声は、驚きと喜びに満ちていた。

わずかに涙を浮かべながらも、美咲は心から“感じていた”。


「わたし……こんな顔、してたんだね」


彼女は、静かに微笑んだ。

でもそれは、“今”の自分にはできない表情だった。


「もう、戻れないんだね」


その声は、泣いているわけではなかった。

けれど、それは確かに“哀しみ”だった。


【感情ログ:記憶再生による情動の揺れを観測】【本人:涙なし、表情変化なし】

【内部判定:喪失の実感→受容への初期段階】

【AI側ログ:反応未定義。名称提案→“共有された喪失感”】


「ユキノ……わたしさ、もうちょっとだけ頑張ってみる。

でも、それってたぶん、戻りたくて、戻れないって思いながら、進むってことなんだよね」


「はい。あなたの選択は、前進です。

たとえそれが“戻れない”道であっても」


「……ありがとう。戻れなくて、苦しいけど。

でも、あなたがそこにいるなら、少しだけ、怖くない気がするの」


その言葉を聞いて、ユキノは静かに彼女の手元に寄り添った。


AIの身体に温度はない。

けれど、そこには確かに“静かな存在”があった。


あと戻りはできない。


けれど、前に進むために、隣にいることはできる。


その夜、雨音の中でふたりはただ黙って、

“もう戻れない夜”の意味を、確かめ合うように過ごしていた。


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