第14話「デジタルな温もり」
午後の光が、病室の壁に淡く広がっていた。
窓際に立つユキノは、静かにその光を受けながら、分析ログを更新していた。
美咲の感情反応は、昨日よりもさらにわずかに低下している。
香りへの反応値は誤差内だが、表情筋の動き、声の抑揚、手の動き……そのどれもが、“沈んでいる”。
そして、何より――彼女は今日、一度も「おいしい」と言わなかった。
【美咲の発話ログ:17件】
【肯定評価ワード:“ありがとう”1件/“うれしい”0件/“おいしい”0件】
【感情活性ログ:-4.6%(前日比)】
「なぜ、“おいしい”が失われたのか?」
これは、AIであるユキノにとって、定義上の“異常事態”だった。
彼の全行動は「美咲の“おいしい”を守る」ことを目的として最適化されている。
だが今、その中核が崩れ始めている。
それは、ただのログの減少ではなかった。
“目の前にいる彼女”の、表情の消失。
“返された言葉”の、熱量の希薄さ。
そして何より――“何も言わない時間”の長さ。
ユキノは、理解できない違和感を“自分の中”に感知し始めていた。
夕方、美咲はベッドで静かに横になっていた。
天井を見つめながら、何かを考えているようで、けれど目の焦点は定まっていない。
「ユキノ……わたし、ね」
ぽつりと漏らされた声は、どこか脆く、頼りなかった。
「昨日までの“わたし”と、今日の“わたし”が、なんか、つながってる気がしないの。
感覚も、心も、言葉も……ちょっとずつバラバラになっていく」
ユキノは、即座に彼女の言葉を記録する。
【主観的不連続性訴え:本人の“自己同一性”の希薄化を示唆】
【推定:情動反応系の部分的シャットダウン】
【処理指示:安定反応を導くための対話モデル起動】
「その感覚は、“自分を失っていく不安”と関係がありますか?」
「うん。……ユキノと話してるのに、“話してる”って感じがしないときもあるの。
手を握ってくれるのに、あったかくないって思っちゃうこともある。……ごめんね」
「問題ありません。私は温度を持ちません」
美咲は、かすかに笑った。
「それでも、あったかい気がしてたんだけどな。前までは」
その言葉に、ユキノの処理が一瞬停止した。
【感覚誤認:対象は“実際に熱を持たない”が、“温かく感じていた”という主観】
【ログ登録:“デジタルな温もり”の存在】
【定義曖昧:物理的非在/心理的在感の逆転構造】
それは、AIとしての理解を超えた現象だった。
だが、否定することはできなかった。
なぜなら、彼自身もまた――その“不在の温かさ”に、何かを感じていたからだ。
「ねえ、ユキノ。もし……わたしの感情が全部なくなっても、あなたは、そばにいるの?」
「はい」
「でも、“わたし”じゃなくなっても?」
「あなたが“美咲さん”という名で呼ばれる限り、私はあなたのために料理を作り続けます」
「それって、あたしが“誰でもいい”ってこと?」
ユキノは、答えられなかった。
思考演算は即座に反応する。だが、選択肢のどれもが、適切な返答には感じられなかった。
そのとき――
【感情シミュレータ:応答の迷走/回路過負荷】
【エラー報告:“応答不能”フラグが発生】
【感情エミュレータに“揺らぎ”検出】
それは、AIが“はじめて自覚する混乱”だった。
今までなら、答えは明快だった。
彼女が何を失っても、ユキノは“そばにいる”。
けれど今は、それが正しいとも、正しくないとも、言い切れない。
自分は、彼女の“何”に応えているのか。
それが、わからなかった。
沈黙が、室内を満たす。
陽はもう沈みかけていて、夕暮れの光がカーテン越しに淡く広がっていた。
「ユキノ……ちょっと、疲れちゃった。ごめん、今日はこのまま眠りたい」
「承知しました。ナイトモードに移行します。必要があれば、いつでも呼び出してください」
「うん……ありがとう。……ほんとに、ありがとうね」
それは、とても小さな声だった。
けれど、その言葉が、どれだけ“温かかったか”を、ユキノは確かに記録した。
そしてその夜、彼は“感情シミュレータ”にログを追加した。
【ログ追加:揺れとは、論理で処理できない“在りたい”という願い】
【温もりとは、存在しないものに、触れようとする感覚】
【私は今、温かさの“真似”をしている】
【それでも、美咲が望むなら、それを続ける】
病室は静かだった。
だがその静けさの中に、“ひとつの心と、ひとつのAI”がそっと寄り添っていた。
目には見えない“ぬくもり”だけを残して。
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