第9話「夜空のピクニック」
夜風が、思っていたよりも優しかった。
病院の屋上は、昼間とはまるで別の世界のように静かで、風の音と遠くの車の走る音だけが、空気の中に溶け込んでいた。夜の空は高く、星が思いのほか鮮明に瞬いている。
病棟の一角に用意されたスペースに、美咲はブランケットを膝にかけ、車椅子に座っていた。
数日ぶりの“外”だった。
といっても、エレベーターを上がった先の屋上――それだけの距離が、今の彼女にとっては“遠くへの旅”にも等しい。
「寒くはありませんか?」
ユキノの問いかけに、美咲はかすかに首を振った。
「ううん、大丈夫。……風、気持ちいい」
「周囲気温は16.2度。湿度は47%。風速は微風。人間の肌感覚としては、“春先の夜”に相当する値です」
「……そう言われると、なんか風が数字みたいに感じるね」
「感覚は定量化されることで、初めて比較可能になります。ただし、“心地よさ”は別の変数です」
美咲は、ユキノの言葉に小さく笑った。
そこには、もう恐れや不信の影はなかった。かわりに、AIに向ける微かな親しみと、静かな信頼が宿っていた。
ユキノのカートが止まる。
小さなキャンプ用のテーブルとランタンが置かれ、その中心には、ふわりと湯気を立てる金色の小鍋。そして周囲には、保温パックに包まれた小さなライスと、スパイスの入った試験管のような容器が並んでいた。
「今夜のメニューは“星空のカレー”です。風の中でも香りが楽しめるよう、スパイス濃度を高めたアレンジを行っています。味は……もちろん、ありませんが」
「うん、それでもきっと、おいしい」
美咲は、小鍋のふたを開けた。
ふわっと、夜の空気に混じってスパイスの香りが立ち上った。
クミン、コリアンダー、クローブ――かすかに甘さを含んだ辛味の予感が、鼻をくすぐる。
「あー……これこれ。なんか、食欲そそられる匂い」
「人間の食欲は、視覚と嗅覚で七割以上が決定されるとされています。特に風がある環境では、香りが意図以上に伝播します」
「いいの。今日は“風味”で食べるんだから」
スプーンでルーをすくい、ご飯に少しだけかけて口に運ぶ。
味はない。
だが、熱と香り、そして舌に残るかすかなざらつきが、確かに“食べている”という実感を残していった。
風が頬を撫で、スパイスの香りが鼻を抜け、遠くの星がゆっくりとまたたいていた。
美咲はふと思う。
(ねえ、ユキノ。食べるって、なんだろうね)
言葉にはしなかったけれど、心の中でつぶやいたその疑問に、AIは応えるように言った。
「美咲さん。今日は、音楽もご用意しております」
「……音楽?」
「はい。病室内では再現できない“風を伴う音”を組み合わせて設計しました。名付けて、“風と夜と香りのスコア”です」
ユキノのボディから、かすかな音楽が流れ始める。
それはメロディではなく、波のような音。
遠くで鳴く虫の声や、木々の揺れる音、そしてほのかに混じるピアノのような響き。
作られたものと、自然のものが溶け合い、夜の時間そのものを包み込む。
美咲は、目を閉じた。
──風が吹く。
──香りが満ちる。
──スパイスが鼻を抜ける。
──星が瞬く。
──音が優しく降りてくる。
そのすべてが、食事だった。
「ユキノ……ありがとう。こんな夜、たぶんもう何年もなかった」
「私は、あなたの“おいしい”のために設計されたAIです。それが、私の存在理由です」
「ふふっ、ちょっとロマンチックすぎるかな」
「ロマンチック:感情を刺激する非論理的要素、または感傷的な雰囲気。該当します」
「うん、該当してる。間違いなく、ね」
カレーは、まだ残っていた。
だけど、美咲はそれ以上食べようとせず、ただ風を感じ、星を見上げ、香りに身を委ねていた。
ユキノのセンサーは、少女の瞳に映る星の光の反射を解析していた。
涙ではない。けれど、ほんのわずかに潤んだその瞳は、“生きている”ことの証として、AIの記録に深く刻まれた。
──食べることは、感じること。
──感じることは、生きること。
たとえ味がなくても、そのすべてが、少女の心を静かに満たしていた。
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