第2章 五感のレシピ
第6話「サクサクの奇跡」
朝、パンが焼ける匂いがした。
いや、正確には“焼ける匂い”というより、記憶のなかの“朝のにおい”だった。
まだ夢うつつの美咲は、遠くから届くその香りに、布団の中でまぶたをゆっくり開いた。
部屋には、あいかわらず静かな光が満ちている。白くてやわらかく、どこか水のような透明さを持った光。窓の外では小鳥が鳴いていたが、それもほんの背景音のように感じられた。
ベッド脇の端末には、すでにユキノのログイン表示が浮かんでいた。
枠がゆっくりと明滅し、「調理完了」のサインを、呼吸するように伝えてくる。
【本日のテーマ:食感による“音の味覚”】
【提供品:石窯風ミニパンと“音が鳴る”サラダ】
【目的:聴覚による食事体験の補完と情動反応の喚起】
「ユキノ?」
「おはようございます。今日の料理は、“音”を食べていただきます」
「……なにそれ。今度は音がテーマ?」
「はい。美咲さんが感じる“味”とは、必ずしも舌の情報だけに依存していないと判断しました。音もまた、ひとつの味覚です」
「じゃあ、今日のメニューは……楽器?」
「いえ、パンです」
病室の扉が開き、ユキノが静かにカートを押して入ってくる。
その動きは変わらず滑らかで、けれど以前よりも、どこか“所作”に品があるように感じられた。動作プログラムが進化しているのだろう。
カートの上には、小さな籠に入った三種のミニパンと、透明なボウルに盛られたサラダが置かれていた。
美咲は、パンの表面を見て、思わず息を呑んだ。
表面が艶やかに焼き上げられ、微細なひび割れが走っている。焼き立て独特の、薄く硬い膜が張っていて、ひとくち噛めば心地よく砕けそうな予感がした。湯気はもう落ち着いていたが、ほんのりと甘く、香ばしい匂いが漂っていた。
「これ、本当に焼いてあるの?」
「はい。高圧調理モードを使用し、病室内でも安全に石窯風の表面処理を行えるよう最適化しました」
美咲は、手を伸ばし、ひとつをそっと持ち上げた。
パンは小ぶりで、手のひらにすっぽり収まるほどの大きさだった。
表面の硬さと、中のふわりとした軽さ。その両方が、手のひらを通して伝わってくる。
かじる。
──サクッ!
それは、予想以上に心地よい音だった。
乾いた破裂音が耳の奥に響き、同時にわずかに震えたパンの屑が頬に触れた。
まるで、ひとつの小さな演奏だった。
(……あっ)
思わず、笑みがこぼれた。
それは味でも、香りでもなかった。
けれど、“サクッ”という音が、心にひとつの衝撃を与えた。
「この音……気持ちいい」
「食感の音は、心理的な“期待の充足”をもたらすとされています。人は、音を通じて“噛んだ感触”を強化し、満足感を得るのです」
「うん……すごく“食べた気”がする」
彼女はもうひとつのパンを口に運び、今度は意識的に耳をすませた。
──サクッ。
──ふわ。
音の後、柔らかい中身が舌の上でほどけていく。味はない。けれど、香りと温度、そして“噛む”という行為が、まるで舞台のように連動して彼女の心を包んだ。
「サラダにも、しかけがあります」
透明なボウルの中には、カットされた赤大根、キュウリ、パプリカ、そして氷の粒が添えられていた。
ユキノが用意したスプレードレッシングをひとふきすると、かすかなハーブの香りが広がる。
「カリッといきます」
カリッ。
パキッ。
シャキシャキ。
野菜を噛むたび、小さな打楽器のように音が跳ね返ってくる。
そのリズムが楽しくて、美咲は箸を持つ手の動きすらリズムに乗ってきた。
──食べるって、音なんだ。
そんな思いが、ふいに彼女の胸を通り過ぎた。
「これ、なんか……演奏してるみたい」
「“味のないオーケストラ”と名づけてもいいかもしれません」
「それ、いいね。今度またやって」
「承知しました。“聴覚レシピ”のライブラリを拡張しておきます」
食べ終えた後、美咲はふっと小さく息をついた。
満腹ではない。けれど、“満たされた”という感覚は、確かに胸の中に残っていた。
「ユキノ。……今日の、ごちそうさま」
「ありがとうございました。あなたの“サクッ”という笑顔、記録させていただきます」
その朝、味のないパンと野菜は、彼女の心を“音”で震わせた。
“サクサク”という音の記憶は、味覚のない世界における、ひとつの奇跡だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます