第6話 「“好き”の仮説と、実験のキス」

「じゃあ、さ。……試してみようよ」


澪が言った。


静かな図書室の窓辺。

夕陽が落ちかけて、二人だけの世界がオレンジ色に染まる。


「試す?」


「うん。“好き”かどうか、わかんないなら……試してみようって思ったの。

 青羽くんが言ってた、“感情の実験”。ちょっとやってみたい」


「……どんな?」


「誰かに告白されたら、付き合ってみる。

 誰かと手をつないだら、何か感じるか。

 誰かにキスされたら、好きって思えるのか――」


言葉が、空気に溶けて消えそうになる。


「私さ、ずっと“好き”が怖かったの。

 誰かを好きになったら、相手に応えなきゃいけない気がして。

 でも、青羽くんといると……ちょっと違う気がするの」


「違うって?」


「“好き”じゃないけど、“嫌い”じゃない。

 何考えてるか全部わかんないけど、話すと落ち着く。

 もし明日から青羽くんが、他の誰かと付き合っても……私、きっと嫌だ」


それは、彼女の精一杯の「仮説」だった。


好きじゃない。でも、誰にも渡したくない。

触れたい。でも、触れられたら壊れそう。


 


「ねぇ、青羽くん……キスしてみる?」


そう言った澪の目は、真剣だった。


ふざけてなんかいなかった。

彼女は、“感情の実験”として、本当に確かめようとしていた。


「……いいの?」


「うん。……してみて、何も感じなかったら、また考える。

 感じたら、その気持ちに名前をつけてみる」


少しの沈黙。


そして、僕は澪の目を見た。

ガラスのような、でも、奥に柔らかい温度がある瞳。


「……目、閉じないの?」


「だって、ちゃんと見てたい。

 “どうなるか”って、知りたいじゃん」


その言葉が、あまりにも彼女らしくて。

僕は少しだけ笑って、そっと彼女の頬に手を伸ばした。


……そして、唇が、触れた。


ほんの一瞬。


音も、言葉もない世界の中で、

彼女のまつげが微かに震えた。


 


「……青羽くん」


「うん」


「今、心臓の音、ちょっと速いかも」


「……僕も、かも」


でも、それが“恋”なのか、“驚き”なのか、まだ分からない。


「この気持ちが、ただの実験結果でも、今は……それでいいかも」


そう言った澪の声が、いつもより少しだけ高かった。


僕は、その横顔を見つめながら、ふと思った。


(これが“好き”じゃないなら、

 “好き”って、いったいどんな感情なんだろう)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る