第2話 名前のない記憶

白い露が町を包んでいた。湿った空気の中で、僕はふと、あの女の子の横顔を思い浮かべていた。まだあたたかいその傘を手に、まだ名前すら聞いていなかったことに気づく。


「そういえばまだ名前も聞いてないや..」


雨が止み、雲の隙間から差し込んだ陽の光が僕の服をじわりと乾かす。何もしてないのに、胸の奥と体が....暖かい。その温もりを抱えながら、僕は帰路に着く。


ーーー玄関を開けた時、湿った空気と一緒に、なんだか異様な気持ちが胸の奥に染み込んできた。

まだこの時、あの子の横顔が、ずっと頭の片隅に残っていた。


「ふう」


ため息をひとつついてキッチンへと向かう。足取りは少し重く、体はだるいけれど、いつも通りの手慣れた手つきで勝手に動く。


「ふぅふん〜ふん〜ふ〜ふふふぅんっふ〜ん♪」


鼻歌を歌いながら料理の手を進める。テキパキと野菜を切り、炒めて卵とご飯を入れてまた炒め、簡単な炒飯ができあがった。特に好きだったわけでもない、けれど手が自然に動いていた。温かみのある手に包まれて作る感じ...


「いただきます」


なんだか懐かしい味がした。これが何に由来するのか思い出せない。


『ふふっ』


ただ不意に誰かの笑い声が耳の奥でかすかに響いた気がした。

月明かりが照らすこの部屋の揺れるカーテンの影がやけに長く見えた。

まるでそこに誰かが立っているかのように、影は細く長く静かに伸びて消えた。

何かを思い出しそうで、けれど霧の中に消えてしまう。言葉にならないその空白が、僕の胸をじんわりと締めつける。


「へっくしょんっ!!」


くしゃみが出た、そういえば今まで風呂やシャワーを浴びておらず、雨に打たれ続けたため、体や服が濡れていることを忘れていた。風邪をひいちゃまずいと思いバタバタとバスルームに駆け込んだ。



ーーー湯船に浸かると、じわじわと体温が上がり、熱が体に馴染む。僕は風呂が好きだ、このどこかへ置いてきてしまった温もりを取り戻せるような感じがするからだ。


静かな音。ポタポタと落ちるシャワーの余韻、湯気で曇った鏡、このどれもが今日の湿り気を移していた。


「一体今日の僕...どうしたんだろう」


ふと溢れる。毎年この日は何かおかしいことが起こるが今日は特別だ。今までにない異感覚、感情が僕を包み、僕の心を癒した。傘の温度、見知らぬ、ただどこか懐かしい声。

思い出そうにも思い出せない。

思い出してはいけないような気もする。ただ記憶の奥底で何かが僅かに震えてる気がした。


「でるか」


体を拭き、髪の毛を乱雑にタオルに包み、風呂を出る。


brrrrrrrrrrr brrrrrrrrrrrr


携帯が鳴る。すぐそこに置いてあったスマホを開き、かかってきた通話に出る。


『もしもし?大丈夫か?』


声の主は中学の頃の親友で今もよく一緒にゲームをして遊んでいる田中だった。

僕はその声を聞いてふとカレンダーと時計を見る。今日一緒にゲームをして遊ぶ予定だったのを忘れていた。


「あー、すまん、ちょっとぼーっとしてた。」

『きをつけろよ?じゃ、また明日学校で~寝坊するなよ』

「そっちこそ」


田中との通話を終えたあと、スマホの画面をぼんやりと眺めていた。


「……名前、聞きそびれたな」


通知のリストの中に、「傘」の文字がふと脳裏をよぎる。でも、どれを開いてもそこにその子の名前はない。


「傘返さないと......に」


喉元まで何かがせりあがってきているのに、思い出せそうで思い出せない。

形にならない。

そっとスマホを伏せ、ベッドに沈み込む。

頭の奥で、さっきの声がもう一度だけ小さく響いた。


『ふふっ』


目を閉じたまま、僕はそっとつぶやいた。


「...ありがとう」


そのまま意識が、ふわりと夜に溶けていった。

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