第6話 未来の設計図
第1章 止まった冷蔵庫と、時計
冷蔵庫が止まったのは、2週間前のことだった。
最初はコンセントの抜けかと思った。
次にブレーカーを疑った。
最後には、背面のカバーを外し、素人の手で基板のほこりを拭いた。
どれも無駄だった。
静まり返ったキッチンには、僅かに甘ったるい腐臭が残っていた。
生ゴミは既に捨てたはずなのに、それでも何かがまだ腐っている気がする。
いや、違う。腐っていたのは、たぶん、時間の方だった。
美園 雄大(みその・ゆうだい)、28歳。
大学卒業後、大手IT企業に就職。だが心を病み、3年で退職。
以来、就職もせず、バイトもせず、ただ家の中で“停止”していた。
冷蔵庫に限らず、この家の中には、止まったものがいくつもある。
洗濯機は脱水の音をたまに止め忘れるし、エアコンは風量調節がきかない。
腕時計も、最後に電池を替えた記憶がない。秒針は“6”のところで止まったままだ。
この部屋には、「故障」と「放置」と「諦め」の境界線が、どこかにある。
そして、それを一つひとつ越えてきた先に、いまの美園がいた。
冷蔵庫の前でしゃがみ込む。
床に映った自分の顔が、どこか歪んで見えた。
「鏡」としては役に立たないのに、「現実」としてはひどく正確だった。
今日も、電気代をケチってブレーカーを落としている。
その代わり、スマホのバッテリーを極力使わないように、通知はすべてオフ。
起きてから寝るまで、誰にも触れられない。触れようともしない。
その“誰か”の中には、自分自身も含まれていた。
「…はは、俺ってほんと、社会に迷惑だな」
誰もいない部屋でつぶやいた。
けれど、誰もいないからこそ、声には何の制約もなかった。
その瞬間、ドアがノックされた。
乾いた音だった。
宅配も来ない。勧誘も来ない。そもそも住所が“社会的に死んでる”のに、誰が来る?
美園は、寝癖のまま玄関へ向かった。
そのとき、不意に、腕時計を外して棚の上に置いた。
“止まった時間”を、誰かに見せるのが怖かったのかもしれない。
ゆっくりとドアを開けると、そこにはスーツ姿の男が立っていた。
整った身なり。整いすぎていて、違和感すら覚える。
まるで“誰かに見られることが前提”のような完璧さ。
その男が、微笑みながら言った。
「お時間、少しだけよろしいでしょうか? 制度のご案内に伺いました」
まるで保険の営業のような口調。だが、その笑顔の奥には──
提案ではなく、“設計”を持ち込んでくる気配があった。
そして、その時点で、まだ美園は知らなかった。
“止まった自分”の未来が、その制度によって再設計されることを。
―――――――――――――――――――――――
第2章 制度の入口
「1500万円、15年後に確実に戻ってくる。いわゆる“養老保険”です」
蘇我は端的に提示した。
「でも、こっちは少し違う」
机にもう一枚、契約設計書を滑らせる。
「変額養老保険。死亡保障に最低保証が付いていて、契約中に亡くなった場合、1500万円は確実に支払われます。ただし、生存時の満期金や途中解約時の返戻金には保証がありません。運用の成果に応じて、増えることもあれば、減ることもあります」
美園はその言葉に眉をひそめた。
「つまり、博打ってことですか?」
「“未来を信じる投資”と捉えることもできます。あなたが支払う保険料のうち、約70%が運用に回され、残りは保険の維持費用や保障部分に充てられる。仮に、年間8%で安定運用できたとすれば…」
蘇我は計算結果を指差した。
「15年後、運用部分だけで1930万円に到達する可能性がある。もちろん、相場によってはそれより下回ることもあり得ますが」
「どうやって運用されるんですか?」
「主に投資信託ですね。国内外の株式、債券、リートなどに分散投資するタイプが多い。商品ごとにリスクプロファイルも違うので、あなたの考え方に合わせて組み合わせを選べるようになっています」
美園は書類に視線を戻しながら、ぽつりとつぶやいた。
「元本が保証されないって、やっぱり怖いですよ。でも、今のままじゃ、何も増えない」
「それが制度の本質です」
蘇我の声は静かだった。
「制度は“答え”ではありません。“設計”です。あなたがこれから生きる人生の中で、どのようなリスクを許容し、どのような未来に備えるか。その選択肢を“制度”という形にして、提供しているに過ぎない」
「じゃあ、選ぶのは僕…」
「ええ。正解なんて、そもそも存在しません。ですが、“選び直す権利”なら、制度は持たせてくれます」
静かな時間が流れる。
やがて美園は、小さく息を吐いた。
「少し考えてもいいですか」
「もちろん。今日は“入り口”を見てもらうだけで構いません。制度を通して、未来をどう設計するか——それがすべてです」
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第3章 未来を信じる権利
蘇我が帰ったあと。
一人きりになった部屋に、静寂が戻る。
カーテンの隙間から差し込む薄暗い光をぼんやり眺めながら、美園はふと、学生時代の記憶を思い出していた。
コードを組んでいたあの頃。
仲間たちと徹夜で仕上げた卒業制作。
レビューの場で教授が言った、たった一言の言葉。
「君のコードには、未来がある」
自分の“未来”に、誰かが価値を見出してくれた。
その事実が、どれだけ自分を支えていたのか。
失ってから、ようやく気づいた。
会社を辞めたとき、何もかもを失った気がした。
スキルも、人間関係も、自信も、未来も。
それを再び取り戻すなんて、無理だと思っていた。
──でも。
「もう一度、信じてみてもいいんじゃないか」
自分に。
かつて自分の中に“未来”を見てくれた誰かに。
あの言葉が、心の奥に小さな火を灯した。
「…自分に、投資。か」
美園は静かに頷いた。
決して派手でも、劇的でもない、けれど確かな“選択”だった。
彼が選んだのは、変額養老保険。
月額81,700円。
うち70%、すなわち57,190円が信託運用にまわる設計。
運用利率は、仮に年8%とする。
期間は15年。
信託契約には、受取期日や分割支給の形式まで、細かく指定を加えた。
年160万円ずつ、12年にわたって分割受取とすることで、所得のバランスも考慮した。
計算上、15年後に受け取れる金額は──およそ1,930万円。
それは、希望ではない。
願望でもない。
設計された未来だ。
もし、未来が再び微笑むなら。
もし、自分が15年後もこの世界で息をしていたら。
それは、今日この日、この瞬間の選択が“証明”する。
制度を使って、未来を設計する。
美園はその権利を、人生の中で初めて、自らの意志で手にしたのだ。
その夜。
ベッドに入った美園の胸の奥に、かすかな熱があった。
それが希望なのか、緊張なのか。
彼自身も、まだ言葉にできなかった。
けれど確かに、その熱は、ずっと失っていた“何か”の輪郭を、ほんの少しだけ思い出させていた。
未来を信じる権利。
それを手にした夜だった。
―――――――――――――――――――――――
第4章 未来の輪郭
夜のアパートの部屋に、静かな時間が流れていた。
冷蔵庫のモーター音、外から聞こえる遠くの車の走行音、そして、湯沸かしポットのボタンを押す音。
以前は、何一つ意味を感じなかった日常の音たちが、少しだけ、違って聞こえた。
美園は、湯呑みにお茶を注ぎながら、自分でも気づかぬうちに、小さく息を吐いた。
穏やかな夜だった。
そして、不思議なほどに、自分の心も静かだった。
──15年。
書類に記された契約年数を思い返す。
月に81,700円。
自分の収入からすれば、決して安くはない額。
けれど、その支払いが、どこか“未来の自分”へ向けた贈り物のようにも感じられた。
「…投資、か」
ぽつりと呟いた言葉は、自嘲ではなく、ほんの少しだけ、希望に近い響きだった。
契約後、彼の生活は劇的に変わったわけではない。
相変わらず求人票を見ては、面接に出かけ、時には門前払いも食らった。
履歴書の“空白”に、採用担当者が目を走らせる時間の重さ。
何度経験しても、慣れることはなかった。
それでも、どこかで“15年後に何かがある”という確信が、
毎日の敗北に折れそうな心を、わずかに支えてくれていた。
あの夜、蘇我が言った言葉が、何度も脳裏に蘇る。
「制度は“答え”ではありません。“設計”です」
言葉の意味は、今も完全には理解できない。
けれど、「もう一度、自分に投資してみたい」と思えた瞬間があった。
それだけで、十分だった。
半年が過ぎたある日。
あるIT系の中小企業で、彼はようやく再就職の内定を得た。
かつて大学時代に書いたコードをまとめたポートフォリオを見せた時、面接官が言った。
「これ、今の現場でも通用するよ。よく残してたね」
その言葉を聞いて、胸の奥に何かが灯った気がした。
──誰かが、自分の“未来”に可能性を見てくれた。
それは15年前、卒業制作のレビューで教授に言われたのと、同じ感覚だった。
「君のコードには、未来がある」
この数ヶ月、再就職の準備で再びパソコンに向かい、コードを書いてきた。
アルゴリズムの最適化、UI設計の見直し、ソース管理の基本。
眠っていた感覚が、少しずつ、蘇ってきた。
まだまだ不安はある。
15年先の自分が笑っている保証なんて、どこにもない。
けれど、今日の自分が明日へ手を伸ばせるかぎり、その連続が“未来”という時間になるのだと、少しだけ信じられるようになった。
夜。再就職が決まった日、美園は静かに机に向かい、契約ファイルの一番上に書かれた名前を見つめた。
【契約名:美園 雄大】
その文字の先に、もう一度“未来”があると、信じてみたかった。
部屋の隅に置かれたダンボールには、数年前の自分が書きかけていた開発ノートが詰まっていた。
もう見ることもないと思っていたノートに、ふと目が留まる。
中を開くと、稚拙なアイデアとともに、こんな一文が書かれていた。
「自分の価値は、自分が信じなければ、誰が信じてくれる?」
その文字が、不思議と今の自分に語りかけてくるようだった。
眠る前、美園はスマートフォンを手に取り、リマインダーを一つ設定した。
「15年後、満期日」
画面には、日付だけがぽつんと記される。
意味のない数字の羅列にしか見えないはずなのに、不思議な達成感があった。
──その日を、今度こそ迎えに行こう。
誰かの言葉ではなく、自分自身の足で。
美園はベッドに体を預けると、静かに目を閉じた。
部屋の中は静かだった。
でも、その静けさの奥に、小さな希望の音が確かにあった。
―――――――――――――――――――――――
第5章 継続中
数ヶ月後、蘇我の手元には一通の報告書が届いていた。
「契約者:美園 雄大」「状態:信託継続中」「進捗:正常」
画面に映し出されたシステム画面を前に、蘇我は無言のまま目を細めた。彼の左手にはタブレット、右手にはデジタルペン。その動きに一切の迷いはない。
「契約コード:MZ-2415/設計タイプ:変額養老・信託設定あり」
端末に記録されたのは、どこまでも事務的なデータの羅列だった。
だが、画面の片隅に映るログには、ひとつだけ異質な一文があった。
──契約者より、近況報告あり。「アルバイト開始。来月から契約社員に切り替え予定。生活、少し楽になりました」
蘇我はその行をじっと見つめる。
喜びも、安堵も、表情に出ることはない。ただ、微かに視線が揺れた。
彼の業務において、契約後に近況を知らせてくる者などほとんどいない。というより、契約が完了すれば、多くの者はそのまま消える。連絡が絶えるのは、生存報告が不要になったからではない。ただ、誰も戻ってこないのだ。
それが、制度の限界でもあり、彼の仕事の特性でもあった。
だが美園は、わざわざ報告してきた。運用資金の送金確認でも、住所変更の手続きでもない。
ただ、「生きている」と知らせてきた。
そこには計算の気配はなく、損得を量った意図もない。ただの一言。
──未来を信じた、その結果を伝えたい。
それは、制度の枠を超えた行為だった。
「…設計完了、はまだ遠いか」
蘇我は静かにペンを置き、報告書の最下部にその文字を打ち込む。
それは彼の業務上の処理項目にすぎない。だが、ほんのわずかに、その文字を打つ手に熱が宿っていた。
彼にとって「設計」とは、精密に組み上げられた制度の骨組みに、契約者の人生を沿わせることだった。死の計画であれ、生の設計であれ、そこに情緒を挟む余地はなかった。
しかし。
「制度は、死を設計できる」
蘇我はそう呟きながら、ふと視線を上げた。
「でも、生きることは…ときに、それを超える」
一人ごとのような声。
誰にも聞かれることのない、業務日誌にも記録されないつぶやきだった。
だがその声は、かすかな余韻をもって部屋に残った。
システム画面に表示された「契約者:美園 雄大/進捗:正常」という文言が、ただの記録以上の意味を帯びて、静かに輝いていた。
──これは、制度がもたらした“成果”ではない。
──誰かが、自分の未来を選び取ったという、ただそれだけのこと。
そして、それこそが、蘇我の設計の中で最も予測不能な結果だった。
―――――――――――――――――――――――
【著者所感】
すみません、予定をいつもより1時間遅れました。
毎回ね、ギリギリまで書いて確認しておりまして…今回は割と致命的なミスが見つかり、修正で時間を食ってしまいました…。
この作品と、同時連載の『パンドラの揺籠』、2作品とも保険を軸にストーリーを作ってるんですが、保険の使い方って本当に無限なんですよ。
なので、まずは制度や仕組みを探すところからはじまるんですが、これがまた難しい!
と同時に、私の仕事にも活かせるので全てのピースがバチっとハマった時は『この仕組み、誰に持っていこうかな?』に思考がシフトして、ついつい本文の書き進めを忘れてしまったり…w
今回の変額養老保険は、私もよく使う商品ではありますが、知識や経験、お客様とのヒアリングが少しでも足らないと、数年後確実に大問題になります。
すごく良い商品なのは間違いないのですが、そのための事前準備や販売後のアフターフォローも綿密に行わないといけません。
簡単に売れるなんて思わないでくださいね、同業者の皆様。
お客様にも注意です。あやふやな知識の営業から変額保険に入ると、100%地獄を見ます。
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