第12章 あなたに届くなら②
* * *
朝6時、スマホのアラームが鳴る。
愛子は静かに目を開けた。枕元では、湊がゴーグルをつけたまま、昨日とまったく同じ姿勢で“眠って”いた。
(……変わらないね)
目覚めの頭はぼんやりと重たく、どこか現実感が薄い。ただの寝起き――そう思いたかったが、うっすらとした耳鳴りと、空気の濁った感覚が脳の奥に残っている。
愛子は気づいていない。長時間ゴーグルに近づきすぎたことによる影響だと。
「……おはよ」
囁くように言いながら、愛子は無言で点滴を交換する。空になったパックを確認し、新しい輸液に繋ぎ替える動作には迷いがなかった。まるで使命のように、それだけが確かな『現実』だった。
朝食を取る気にはなれなかった。体はひどく重たく、気づけばソファに腰を下ろし、しばらくそのまま動けなかった。
(……行かなきゃ)
誰に言うでもなくつぶやき、ようやく体を起こす。
前回同様リュックの中に手あたり次第に物を詰める。もちろん今日もまた、備品室から持ち出すためだ。
水……。
念のため、昨日買ってきたミネラルウォーターを湊の枕元に置く。飲んでくれるかはわからない。でも、そこにあるだけで何かが違う気がした。
「行ってきます」
そう優しく声をかけて、愛子はドアを開けた。朝の光が、まだ静かに街を照らしていた。
職場につく頃には、なんとか足も動くようになり、意識も冴えてきた。ゴーグルから離れ、ある程度時間が経過したからだというのはもちろん、愛子は気づいていない。
なるべく目立たぬように更衣室へ向かう。
周囲の視線が金になったが、いつものように笑顔を作る。
「……なんともないです。大丈夫ですから」
そう答える声は、かすかに震えていたが、誰もそれ以上は追及しなかった。
昼休み、愛子は社員食堂へと足を運んだ。
(……何か、とにかく口に入れなきゃ)
そう思いながら、メニューの中から比較的やさしそうな定食――湯豆腐と炊き込みご飯のセットを選んだ。職員証を提示し、席に着く。湯気の立つ湯豆腐を一口。
……ダメだ、喉が拒んでいる。味はやさしいのに、体が受け付けない。
それでも、とゆっくり箸を進める。二口、三口……飲み込むたびに胃が軋んだ。
なんとか炊き込みご飯を数口口に入れるが、ほとんど食べられないまま、箸を置いた。
(ごめんなさい)
そう心の中でつぶやき、トレーを返却しようと立ち上がった瞬間――
込み上げてくる、耐えがたい吐き気。愛子は顔を歪め、足早に食堂を出る。
廊下の奥のトイレに飛び込むと、個室の扉を乱暴に閉め、便器に顔を沈めた。
さっき食べたばかりの炊き込みご飯、湯豆腐、そしてわずかな胃液までもがすべて喉を駆け上がってくる。背中を丸め、肩で息をしながら、何度も何度も吐いた。
――ごぼごぼと音を立てて流れていく吐瀉物。
愛子は、その流れをぼんやりと見つめていた。
(……いけない。このままじゃ、私まで壊れてしまう)
でも――
(湊には、私しかいない)
両手を洗いながら鏡に映った自分の顔。瞳の奥に揺れていたのは、不安と執着が混ざり合ったような光だった。
やっとの思いで午後の勤務を終える頃、愛子は静かにナースステーションを離れ、備品室へと向かった。同僚たちは申し送りの準備に忙しく、廊下の足音もまばらだ。
誰にも見られていないことを確認して、備品室の扉をそっと開ける。
蛍光灯の光が淡く床を照らすなか、愛子はまっすぐ輸液棚へ向かった。
(……いけないことだって、わかってる)
胸の奥で何度も繰り返されたその言葉は、もはや言い訳のようにしか響かない。
「でも……他に、方法がないんだもん……」
の中で呟くように、自分自身を納得させるように言いながら、手を伸ばす。
生理食塩水、ソリタT、ビーフリード。ひとつ、またひとつ。
リュックの中に、なるべく音を立てず、崩れないように丁寧に詰め込んでいく。
(バレたら……終わり)
けれど、迷っている時間はなかった。このままでは、湊が本当に死んでしまう。その不安が、手元の震えよりも強く、彼女を突き動かしていた。
荷物の重みを確かめるように肩にかけ、愛子はそっと扉を閉めた。後ろで扉の金具がわずかに音を立てたとき、心臓が跳ねる。けれど誰の気配はなかった。制服のポケットに手を入れ、無表情のまま更衣室へと戻る。ナース服を脱ぎ、ロッカーの前で一瞬だけ立ち止まる。
(大丈夫……何事もなかったように、帰ればいい)
ゆっくりと息を吐いてから私服に着替え、肩に食い込むリュックの重みをもう一度確かめた。いつものようにタイムカードを押し、無言で病院をあとにする。
病院を後にした愛子は、リュックの中に詰め込んだ大量の輸液が肩に重くのしかかっているのを感じながら、ゆっくりと外に出た。
空は、夕暮れの気配を帯び始めていた。けれど、心の中には、それよりももっと深い影が落ちていた。
(……バレたら、終わりだよ)
歩きながら、胸の内で何度もそう繰り返した。それでも足を止めなかった。湊があのまま朽ちていく光景だけは、どうしても受け入れられなかった。
(私が、やらなきゃ……私しか、もう……)
街の雑踏も、遠くで鳴る電車の音も、今の愛子にはほとんど届いていない。
自分の体の重さと、胸の鼓動と、リュックの中で揺れる輸液パックの感触だけが、現実のすべてだった。
帰り道、愛子の足取りはふらついていた。けれど、意識はむしろはっきりしていた。
食事すら受けつけなかった身体が、ようやく『自分の異常』に気づいたのかもしれない。
(……このままじゃ、ダメだよ……)
歩道の端で立ち止まり、思考が一瞬空白になった。湊の命は、明らかに危うい。
点滴を続けたとしても、これは医療じゃない。ただの延命行為だ。このまま自分ひとりで抱え込んでいい話じゃない――
(……救急車、呼ぶしか無いかもしれない……)
頭に浮かんだその選択肢を、自分で掻き消す。
(……でも、点滴してるの、バレたら……)
湊のために盗みを働いたことが、明るみに出る。湊はどうなる?自分は?
いや、そうじゃない。いま一番怖いのは、『湊の心がどうなるか』だった。
そのまま悩むうちに、湊のアパートの前まで来ていた。無意識に足が動いていた。だが、またあの『光景』想像すると『現実』から逃げたくなった。
(……入りたくない)
その感情は、初めてだった。けれど、”入らなき“”という責任が、背中を強く押した。
玄関のドアを開けた瞬間、異変に気づいた。床に、ペットボトルの水が転がっている。
キャップが外れ、ほんの少しだけ水がこぼれていた。
(……湊?)
鼓動が跳ね上がる。起きたのかもしれない。やっと、起きたのかもしれない――
愛子は駆け寄った。——だが、次の瞬間、全身の力が抜けた。
湊は、変わらずそこにいた。まるで彫像のように、ゴーグルをつけたまま、僅かに揺れる呼吸だけを残して。
点滴のラインは外れ、カーテンレールにぶら下がったまま揺れていた。
その光景に、愛子の胸がぎゅっと潰れるように締めつけられた。
(……なんで……)
声にならなかった。
湊が「目覚めたかもしれない」と思えた一瞬の希望。その反動は、大きすぎるほどの絶望となって、愛子の胸を打ちのめした。
力なく、キッチンへと足を向けた。冷蔵庫を開ける。昨日つくったカレーが、そのままの姿でタッパーの中に残っていた。
冷凍庫も――変わらない。うどんも、お肉も、手つかずのまま。
(……食べてないんだ)
わかっていた。でも、見なければよかったと思う。
目の前の「変わらなさ」が、時間の経過すら否定しているように思えてならなかった。
その時、不意に音が鳴った。振動音が、壁に反響する。
――湊のスマホだった。
愛子はゆっくりとベッド脇へ戻り、画面をのぞき込んだ。
《ヒカリホーム不動産》
(……不動産屋……)
胸がざわつく。出るべきか。出たところで、何を言えばいい?
どうすることもできずに立ち尽くしているうちに、着信は途切れた。
また、あの静寂。
慎重に画面をスライドさせ、着信履歴を確認する。会社、会社の上司、同僚、そして不動産――
いくつもの通知が並んでいた。何度も、何度も、連絡は来ていた。
けれど、湊は……反応しなかった。反応“できなかった”
愛子は、もうどうしていいかわからなかった。
(……わたし、どうしたら……)
指先が冷たくなる。視界がにじむ。気づけば、床に崩れ落ちていた。静まり返った部屋の中、かすかに冷蔵庫のモーター音だけが鳴っていた。
その日は、やっとの思いでシャワーを浴びた。
濡れた髪を乾かす事もしなかった。タオルをそっとソファの背にかける。
そして、いつもの――湊の大きめなティシャツを着ると、また湊のそばに腰を下ろした。
湊の家に来てからというもの、自分の衣類すら洗っていない。
食事のことなども、とっくに意識の外だった。その行為自体、もう自分には縁のないもののように感じていた。
何時間も、ただ湊を見つめていた。変わらぬ無言の姿を。
ふと、点滴の液量に気づき、輸液を交換する。その手順だけは、もう身体が覚えていた。
そして――
湊の隣に滑り込むように横たわり、静かに眠りへと落ちていった。
朝6時。
スマホのアラームが鳴り響く。
以前の愛子なら、アラームが鳴るより早く自然に目覚めていたはずだった。けれど今は、アラームの音にただ機械的に目を覚ますだけ。それを不思議に思うこともなく、口元だけがうっすらと動いた。
「……おはよう」
小さく囁きながら、ゆっくりと体を起こす。視線の先では、ゴーグルをつけたままの湊が、変わらず無言のままそこにいた。
ベッド脇に置いてあった器具に手を伸ばし、点滴の輸液バッグを交換する。流れるような手つき。もはや日常の一部となったその行為に、迷いはなかった。
キッチンに向かい、冷蔵庫の中のカレーを取り出す。タッパーの中で固まりかけたそれを鍋に移し、静かに火をつける。
自分のためではない。
――湊が、もしまた食べてくれるなら、冷たい冷蔵庫の中ではなく、
目につくキッチンの上にあったほうがいい。ただ、それだけの理由だった。
本来の愛子なら、使ったタッパーをすぐに洗っていたはずだ。けれど今の愛子は、それを流し台に放置し、淡々と朝の支度へ戻っていった。
そのとき、スマホが震えた。
(LINE……?湊……?)
一瞬だけ、期待と不安が入り混じる。けれど画面に表示されたのは、病院からの着信だった。
不安が胸の奥を強く叩いた。手が震えるのを抑えながら、愛子はおそるおそる通話ボタンを押した。
「……はい」
受話口から聞こえてきたのは、看護師長の永原の声だった。
「あの……愛子さん、最近ちょっと様子が変だなって思ってたんだけど……」
「……はい」
(――とうとう……)
「あのね、ちょっとマズいわよ。輸液……持ち帰ってるでしょ?」
静かに告げられたその言葉に、愛子は息を呑んだ。
「……はい……申し訳ありません」
「病院としてはね、できれば大ごとにはしたく無いみたいで。でも、上でも協議になっちゃってて……。とにかく、しばらく謹慎してもらうことになったから。」
「……はい……」
「後で事務方から連絡がいくと思うから、それ待ってて」
「……はい……」
「愛子さん……大丈夫なの?」
一瞬だけ、優しさを滲ませた問いかけだった。けれど愛子の返事は、どこか遠く、音のない世界からのようだった。
「……ご迷惑をおかけして、すみませんでした。」
ぷつり、と通話を切る。再び、部屋にはただ冷蔵庫の作動音と、点滴の滴る音だけが残った。
電話を切った後、愛子はしばらく呆然と立ち尽くしていた。右手に握りしめたスマホが、力を失った指からいまにも落ちそうになる。きゅっと手のひらに力を込めて持ち直すと、ゆっくりと湊の方へ向き直った。
「……病院、首になっちゃった」
声は驚くほど明るかった。いや、明るくしようと、どこかで無理に取り繕っているだけかもしれなかった。
「湊と一緒だね! えへへ、これでずーっと一緒に居られるね!」
泣いているのか、笑っているのか、自分でもよく分からなかった。それでも、頬をつたうものは確かにあった。
ふと、湊の下半身に目をやる。
「あ……また、出ちゃったんだね」
シーツの上には、じんわりと滲んだ尿の痕。それに気づいた瞬間、愛子は何かを思い出したように慌ただしく動き出した。
「パンツ替えなきゃ……あと、タオルと……ペットシートも」
まるで日常の家事のように、何のためらいもなく、用意を始める愛子。
その目には、もう羞恥も嘆きもなかった。ただ虚ろに、正気を失ったように。
ただ大切な人を清潔に保たなければ、私が守らなければ――それだけが、唯一の現実だった。
* * *
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